堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第14話 博士は西方より


 目的地へひた走るクラウンロイヤルの後部座席で、文成はシートを倒して心地良く眠っていた。ソールズベリーの運転は決して乱暴ではないが、それでも適度に揺れる車内であるにもかかわらず、すやすやと寝息まで立てていた。よほど気持ちの良い夢でも見ているのか、時折、唇の両端を吊り上げて幼児のように微笑んでいる。“夜の女王”にキスされているのだろうか。
 それにしてもなんという豪胆さだろうか。まな板の鯉、という言葉があるが、この場合の文成は自分からまな板に乗った鯉だろう。見ず知らずの人間の誘いにあっさりと乗って、しかも車の後部座席ですやすやと眠っている。隠密裏に自分が葬られる事など歯牙にもかけぬと言わんばかりだ。あるいは、文成の異様に鋭くなった感覚がこの二人は危険ではないと察知しているのだろうか。
「……少し鈍感なところがあるのでしょうか、エディさん」
 ソールズベリーがやや顔を顰めながら小声で助手席のブランドフォードに尋ねた。
「わからん。あるいは我々を試しているのかも知れん。口封じするならやってみろ、とな。だが、それにしては彼の寝息は安楽すぎる。君の言うとおり、どこか抜けたところがあるかも知れんが、しかし、我々がそんなことを考えても仕方がない。ただ任務を果たすだけだ、アルバート」
 ブランドフォードは口髭をいじりながら、落ち着いた声で問いに答えて背もたれた。無言でこれ以上喋るなとソールズベリーに伝えたのだ。鋭さのうちに理知的な輝きをもった眼光がしっかりと前を見据えていた。
 ソールズベリーも、文成に手ひどくしっぺ返しされたときと違って、彫像のような無表情さで黙々と、平均時速100kmでクラウンロイヤルを走らせた。

 P.M.9:30、クラウンロイヤルが停車した。すぐさま、ブランドフォードが文成を起こしにかかった。
「到着したよ、平井君。起きたまえ」
 小声ながらも良く通るバリトンが耳に入ると、文成は小さく唸ってから躯を伸ばしてゆっくりと起き上がった。
「フワアァァ……」
 と、大きく口を開けて欠伸をすると、寝ぼけ眼でブランドフォードに問いかけた。
「もう到着した? 思ったより早かったような……」
「もうこの時間ではあまり渋滞しないようだ。順調に進んだよ。さて、目覚めてすぐで悪いが、これを掛けたまえ」
 そう言ってブランドフォードは文成にサングラスを差し出した。何一つセンスの欠片も見られない黒一色のサングラスである。
「あのなぁ……、お忍びの芸能人でももっと良いやつ掛けてるぞ。それに、そんなもん必要ないだろう」
「今から少しの間、君は視覚障害者として振舞ってもらう。これならまさか連続失踪事件の重要参考人だとは思われまい。もっとも、ここにまで警察の手が伸びていればの話だがね」
 そう言ってからブランドフォードはニヤリと笑って見せた。文成が首を傾げていると、横のドアが開き、いつの間にかソールズベリーがスティックを持って差し出した。
「これで視覚障害者らしくなるだろう」
 ソールズベリーがこのとき初めて笑った。ニヤリと笑ったのだが、陰惨さがまるで無かった。文成もつられて笑ってしまった。
「悪くない笑顔だな、アルバート」
 文成は自分が名付けたギルデンスターンではなく、アルバートとファーストネームで呼んだ。これには当のソールズベリーはもちろん、ブランドフォードも驚いた。相変わらず人を見下げる物言いだが、愛想良くなっていた。
 文成は渡されたサングラスを掛け、スティックを持ってクラウンから降りた。降りた直後、文成の右手方向に重量感あふれる轟音が聞こえてきた。思わずサングラスをずり下げて見やると、航空機が着陸してきているのが見えた。
「おい、おっさん。ブランドフォードのおっさん。ここひょっとして空港?」
 驚いた文成はやや感情が高ぶった声で尋ねた。
「サングラスを外すな! 今の君は視覚障害者だ。航空機くらいで慌てふためくな!」
 ブランドフォードは意外にも鋭く叱責した。その鋭さには文成も少し衝撃を覚えて、目を丸くした。内心の慌てぶりを悟られまいと、落ち着いてサングラスを掛けなおした。
「慌てはしない。が、連れて来られた場所が空港とはどういうことだ? 結構時間掛かってるから名古屋空港な訳が無い。伊丹空港でもない。ということは、まさか……」
 文成がそう言うと、ブランドフォードが少し重厚さを帯びた低音で答えを出した。
「そのまさかだよ、平井君。ここは関西国際空港だ」
 言われて後ろを振り向くと、確かにJR西日本と南海電鉄の関西空港駅がそこにあった。その関西空港駅に面している向かい側の建物、つまり文成たちが立っているすぐ横の建物がエアロプラザである。
「ここかぁ……。国家が見栄と意地で開港させた関空というのは。これ、借金返すのに50年は掛かるとか言ってたような……?」
 文成が悪意丸出しで毒舌を吐いた。
「そんなことは知らん。ただ、収益があまり上がらず、人気も無いのは確かだな。これだけの空港なのにずいぶんとうら寂しい。そのエアロプラザのテナントもかなり撤退していると聞いたよ」
 ブランドフォードは文成の毒舌を流しつつも、自分の感想を述べて嘆息した。
 建設するために掛かった債務を返済するのに何年掛かるかはわからないが、関西国際空港株式会社が発表した2004年度3月期決算報告によると、2004〔平成16〕年3月31日現在の負債合計は1兆2760億円以上である。
「……で、こんなところで待ち合わせかい?」
 文成が少し冷めた低音で話しかけた。
「まさか。これからこのエアロプラザ、というよりその隣だな。ホテル日航関西空港のスイートルームに案内しよう」
 ブランドフォードが言った。このようにブランドフォードがずっと答えるものだから、文成も悪戯心を起こすのだろう。今度はソールズベリーに向けて話しかけた。
「人と喋るのが嫌いなのか、アルバート?」
 するとアルバートは動揺することなく淡々と答えた。
「あまり得意じゃないのさ。俺は実務専門といったところだ。交渉に関してはブランドフォードがすべてやってくれる」
「ふっ、まるで海老一染之助・染太郎みたいだなぁ。ギャラはおんなじか?」
「言ってることがよくわからんが……、サラリーマンじゃないんでね。安定した報酬は無いのさ」
「あぁ、そう」
 そこへブランドフォードが急き立てるように厳しく言った。
「いつまで時間を食いつぶす気なのだ? エージェントが待ちくたびれている。早くしたまえ」
 文成は何も言わずに軽く肯いてゆっくりと歩き出した。首をほとんど動かさず、スティックを小刻みにリズム良く突くさまは、本当に盲人ではないかと思うほどである。その文成の右側をブランドフォードが、左側をソールズベリーが固める格好となった。身長170cmに満たない文成を長身の英国人が挟む形だから、
(まるで、捕まった宇宙人みたいだなぁ……)
 と、文成はやや苦い思いを感じながら考えた。確かに軽く180cmを超える長身の男性二人が背の低い盲人を挟んで歩くのは奇妙かもしれない。
 ホテル日航関西空港のエントランスホールを抜け、フロントを過ぎる時にコンシェルジュやクラークが、
「お帰りなさいませ」
と、きわめて事務的に挨拶したが三人は相手にしなかった。挨拶したフロントの人間も大して気にしなかったようだ。
 ホテル内部は殺風景ではなく、むしろ、白熱灯やクロス、絨毯に温かみがあるように思えたが、ホテルに入ってから10階にある目的のスイートルームに着くまで誰一人としてすれ違う人間がいなかったのが、不振を物語っているように思えた。もうすぐ10時に近いからかもしれないが、それにしては人が少なすぎるように文成には思えた。空港の旅客ターミナルビルと関西空港駅、そしてエアロプラザが3本のコンコースで直結しており、またエアロプラザとホテルの2階が繋がっているから、不審者が侵入してまんまと悪事を成功させることができるのではないかとまで思ってしまう。
 目的の部屋にはなぜか新聞が新聞受けに横たわるように挟まれたままになっていた。ソールズベリーがそれを取って苦笑いをした。ブランドフォードがカードキーを使ってドアを開けたが、文成はそれを不審に思って尋ねた。
「何でキー持ってるんだ?」
 ブランドフォードは大した事じゃないよと言いたげに、
「私が預かったんだ」
 と、短く答えた。
 ブランドフォードが先に入って文成が続き、ソールズベリーが最後に入って施錠すると、文成はサングラスを外してブランドフォードに返した。前を見るとまたドアがあった。文成はスイートルームというものがどんなものか今まで知らなかったが、このとき初めて自分は今、控えの間にいるというのがわかった。
「失礼します、ドクター・ミュージック。ただいま平井文成を連れて帰りました」
 ブランドフォードが小声ながらも良く通るバリトンで、母国語である英語で謎の相手に呼びかけた。すると部屋の主も英語で返したが、文成にはその声に聞き覚えがあった。
(あれ? どっかで聞いたような声だなぁ……)
 文成は首をかしげながらブランドフォードの後に続いた。中に入ると、文成が想像していたような豪奢なインテリアではなく、調度の少ない、割とシンプルな雰囲気だった。窓からの夜景は見応えのあるものだった。
 だが、文成の目にはそういったものが入らなかった。視線を外そうにも外せない人間が、そのまま寝転ぶことができそうなソファの上で足を組み、背もたれてニヤニヤしていた。
「雪彦さん……、何でこんなところに……?」
 呆然とつぶやく文成に対し、当の雪彦はまるでスペイン人のように明るい声で文成に呼びかけた。
「BIBLIOMANE(ビブリオマーネ)にようこそ、平井文成君」
「BIBLIOMANE? な、なんだ、そりゃ?」
 文成は雪彦が発した不可解な言葉でさらに混乱した。秘密組織のエージェントに会うと聞かされていたから、てっきり外国人だと思っていたが、まさか遥の父とこんなところで対面することになるとは、勘が鋭くなっていた文成もさすがに予想できなかった。というより、夢にも思わなかった。それ以上に、物心ついたころから敬慕していた父の友人が秘密組織の関係者だと明かすように歓迎の言葉を言ったことが文成の思考回路をショートさせていた。
「どうやら混乱してしまって、考えようにも頭が働かないようだな。まぁ、まずは座るがよい。ここにジンジャーエールも冷やしてるし、腹も空いているだろう。まずは腹ごしらえだ。
 エディ、アル。もう休みたまえ。ご苦労だったな」
 雪彦はスカウト二人に向かって下がるように言った。
「Yes,Sir. Dr.Music」
 そう言って二人はスイートからあっさりと出て行った。
「さ、文成君。早く座りたまえ。パニーニやフォカッチャ、他にもいろいろある。どんどん食べなさい」
 雪彦はまた愛想良く文成に食べ物を勧めた。さらにジンジャーエールの栓を抜き、グラスに並々と注いで文成に向ける。
 文成は雪彦の向かいのソファにどっかと座った。体重が55kgの為、ソファにあまり衝撃は無かった。文成は雪彦からジンジャーエールの入ったグラスを受け取ると、一気に黄金色の液体を流し込んだ。
「すごい飲みっぷりだなぁ。覚えているかい、文成君。君と遥が5歳の頃、家族みんなで動物園に行ったけど、そのとき君は350ml缶のカナダドライを心からおいしそうに飲んでいたなぁ。あっという間に飲んで、おかわりなんて言うもんだから、みんな大笑いしたよ」
 懐かしそうに振り返る雪彦に対し、文成はゲップをしてから少し置いて喋り始めた。
「雪彦さん、いったい何がどうなっているんだ? オレはローゼンクランツとギルデンスターンから組織に入らないかと誘われて、ここへ来たんだ。あいつらの上司と詰めの話をするために。それが行ってみれば雪彦さんがいた。つまり、雪彦さんがオレを誘ったと言うことか?」
「ローゼンクランツとギルデンスターンとは、なかなか面白い綽名だな。有態に言えばそう言う事だよ。君をわが組織、BIBLIOMANEに加入させることにしたのだ」
「BIBLIOMANEって、どういう意味だよ?」
「ドイツ語で読書マニア、と言う意味さ」
「名前つけた奴のセンスを疑うぜ……」
「ははは。秘密組織は大体、他人にはわからない、関心の持たれない名前をつけたがるのさ。君だから言うが、正式名称は、BIBLIOMANE OKKULTIST COLLEGIUM(ビブリオマーネ・オクルティスト・コレギウム)。つまり、〈読書マニアとオカルティストの共同体〉と言う意味だ」
「BIBLIOMANE OKKULTIST COLLEGIUM……、B,O,C……。BOC! ブルー・オイスター・カルトからパクッただろう、雪彦さん!?」
 驚いて大声を上げる文成に対し、雪彦はからからと笑い否定した。
「文成君、BIBLIOMANEは200年以上の歴史を誇っている。ブルー・オイスター・カルトはせいぜい30年を超えた程度だ。我々のほうがはるかに先だ」
「じゃ、Dr.Musicは何なんだよ? あれって、BOCの曲じゃないか!?」
「私が音大の教授であることぐらい、文成君は知っているじゃないか」
「雪彦さん、博士号は持ってないだろう!?」
 容赦なく文成は突っ込むが、雪彦は夜中にも関わらずハイな気分で笑いながら軽く受け流した。
「プロフェッサーじゃ、露骨過ぎるだろう。そういえば、アラン・レニアは博士号を持っていたなぁ……」
「あのなぁ……。ったく、訊きたい事が多すぎて、何から話したらいいかわからねぇよ」
 呆れてしまった文成に対し、雪彦は落ち着き払って語りかけてきた。
「文成君。まずは食事が先だ。腹が減っては、戦はできぬ、さ。ただ、最初に聞きたいのが何なのか、私にはわかっている。私と組織の関係、というより、奈穂美や遥が組織の構成員かどうか、そのことが知りたいんだろう、真っ先に?」
 雪彦は文成のグラスにジンジャーエールを注ぎながら、逆に質問した。文成は再びジンジャーエールが注がれたグラスを取って今度は一口啜ってからテーブルに戻した。そしてまた一息ついてから言葉を返す。
「……遥がオレの殺人を見ていたことはわかっていたよ。あの時ブローチを落としていたのを見つけたからね。もっとも大して気にしなかったけど。川上先生から寝込んで休んでいると聞いたから、ピンと来たけどね。だから、オレを警察に訴えるのか、見てみぬ振りをしてオレが復讐を終えるのを待っているのか、それとも他の手段に訴えるのか。早く決めろといったのはそういう意味でね」
「ひどい男だ。やられたらやり返すのは良いが、なにも遥がショックで狂乱するほどやることは無かったのに……」
 雪彦は失望したと言いたげに文成を非難したが、どこか心がこもっていない感じがした。
「それは、のこのこついてきて覗き見した遥が悪い。それより、奈穂美さんや遥はあんたが言うBIBLIOMANEの構成員なのか?」
「よく言うよ、君のことを遥がどれだけ心配したことか。それはまあいいとして、奈穂美はそうだが、遥は違う。実を言うと、奈穂美が私を誘ったんだよ。BIBLIOMANEに入って世界を破滅させるために協力してくれとね。だが、遥は私と奈穂美の素顔まで知らないよ」
 雪彦がさりげなく言った言葉に文成は驚いて双眸を大きく広げた。あれほど美しく優しい女性が世界を破滅させるために協力してくれと言ったのだ。そして雪彦もそれに二つ返事で協力したと言うのだから、なんとも身の毛のよだつ話である。
「……美しい女性ほど恐いものは無いな。美しさの裏に潜む恐怖ってか」
「一人前のセリフを言ってくれるじゃないか」
 雪彦がにこやかな表情で文成をからかった。文成はそれに反応せず、質問を続けた。
「で、オレの家族に近づいたのは、どういうことだったんだ? まさか、親父も組織に引き入れるつもりだったのか?」
「とんでもない。私も奈穂美から聞かされて驚いたのだが、和弘君はそれこそ、15歳のときに組織に入っていたのさ。今の君より1年遅くね。私が入る決心がついたのも和弘君が既にいたからさ。何せ彼は組織の中で最強のテロリストだったからね。小学校以来の友人だったが、いつの間にテロリストになっていたのか。正直震えたね」
 文成は自分の父がテロリストだと聞いて凍結した。明るくやさしいあの父が、誰からも好かれていて、そして何一つ翳というものが無かったあの父が、人殺しを生業としていたのだ。そしてその血が自分に受け継がれたのかと思うと、運命の皮肉を思わざるを得なかった。小刻みに躯が震えだした。
「…………言葉が出ないよ。とても人殺しをするような貌に見えなかった。狂気じみた所をまったく見せなかったのに……。なるほど、最強のテロリストかもしれないな。家族にそういったところを見せないんだから」
「妙に落ち着いているな、文成君」
「ショックだぜ、結構。親父が人を殺しまくって、その血をオレが受け継いで、今、開花している。恐くてしょうがない。そういえば、親父とママは駆け落ちしたとか言ってたな。ママが教えてくれたんだ。詳しくは言わなかったけどね。ひょっとして、親父は……」
「君の思うとおりだよ。和弘君は倫子さんを連れ戻そうとした美馬家の親族たちを返り討ちにした。その中には倫子さんのお兄さんもいたそうだよ。二年くらい逃げてたのかな。私と奈穂美も陰ながら支援したよ。連れ戻そうとした一族、特に一人息子を殺されたのが応えたのか、倫子さんの父である毅彦さんはショックで死んでしまったそうだ。正直、和弘君の身裡にあれほどの炎が詰まっているとは、私も想像できなかったよ」
 淡々と話している雪彦だが、冷房が効いている部屋であるにもかかわらず、額から汗をにじませている。
「……しかし、その最強のテロリストもママと久美子を道連れに事故死じゃ……」
 嘆息するようにつぶやいた文成に対し、雪彦はまったく予想外のことを言った。
「いや、文成君。あれは事故死じゃない。間違いなく暗殺だ。誰が否定しても、私は暗殺だとしか思えない」
「なに!?」
 文成は驚きのあまり、ソファから勢いよく立ち上がった。いや、立ち上がった勢いでソファが後ろにひっくり返ってしまった。
「誰だよ? いったい誰なんだよ!? 親父やママ、久美子を殺したのは誰なんだよ、雪彦さん!? 教えてくれよ!!」
 部屋中を振るわせんばかりに叫んだ文成は回りこんで雪彦に近づき、左隣に座り込んで目前に迫った。黒い瞳から劫火が巻き起こっていた。
「文成君……、残念ながら私の力では犯人を突き止められなかった。周到に証拠隠滅していたよ。証拠隠滅をしたことがわかったから暗殺だと思ったが、その証拠が何にも無いから、誰がやったか、現時点ではわからない。ただ、和弘君を忌々しく思っている人間は腐るほどいるから、暗殺されないほうがおかしいのかもしれない。誤解しないでくれ。私だって悔しいんだよ。〈刎頚の友〉をあんな形で失ってしまったんだ。できるものなら私が復讐したいくらいだよ。だが、私はワンマン・アーミーではないんだ。あくまでエージェントでしかない。友人が暗殺されたとわかっても、私情を押し通すことはできない。それが組織の人間であるということなんだ。
 4年間、すごく長かったよ。たった4年がものすごく長く感じられた。表と裏の二重生活を送りながら和弘君たちの仇討ちをいつも思っていたよ。もちろん、君を庇護しきれない私自身にも腹立たしさを覚えていた。無念を噛みしめながら生きていたある時、遥が塞ぎこんでしまった。こんなときに遥までと思いながら、遥に塞ぎこんだ理由を聞いてみたら驚いたよ。君が今まで自分を虐めていた中学生を逆に嬲り抜いて惨殺したというじゃないか。まさかと思ったが、遥が真剣に言うから確信したよ。同時に思った。親の仇は子供に討たせるべきだとね。
 文成君、両親や久美子ちゃんを殺した張本人を徹底的に復讐してくれ。そして、君を無理やり孤児に追い込んだこの人間世界を破滅に導いてくれないか? 人類すべてに責任を取ってもらおうとは思わないか? 私が君に望んでいるのはそれなんだよ」
 雪彦がひとしきり話すのを黙って聞いていた文成はソファに背もたれてふぅーっと、ため息をつくと、おもむろに喋り始めた。
「まるで、自分の部族が滅んだのは神や悪魔、そして生きとし生けるものすべての責任だといって、破滅の炎を燃やしたインドの仙人みたいだな。いいぜ、徹底的にやってやるよ。人類絶滅か、面白いじゃないか。絶滅した瞬間、神になった気分になるんだろうなぁ。実際、たった二人しか殺してないのに、何でもできると思い込んでしまうくらいだもんな。どうにもオレの中に獣が棲んでいるような気がしてたけど、親父から受け継いだものとは、驚いたよ。
 やるよ、雪彦さん。組織が人類絶滅を目論んでいるのなら、喜んで加入するよ。期待に応えてやるさ」
 文成は笑顔を見せながら、ここ最近発していなかった快活な声で雪彦に答えた。とてもついさっきまで恐くて震えていたとは思えない声だ。
「ありがとう、文成君。あの二人も言っていたが、君はとてつもない巨魁になるかもしれないな。あぁ、巨魁とは大物という意味だと思ってくれ。しかし、派手にやりすぎるし、ずいぶん足がつくようなことばかりしているな。後始末が大変だったんだぜ」
 そういって雪彦は苦笑いした。
「え、後始末? どういうことだよ?」
「君の事は生まれたときから組織が監視していたんだが、もちろん平井家、草薙家全体で監視されていたがね。最初から6人くらいまではどうすることもできなかったけど。7人目から12人目は殺人の証拠が結構残ってたから、処理班に片付けさせたんだよ。最後の病院址なんか、木っ端微塵に爆破して、死体そのものを完全に消したんだぜ。金が掛かるよ」
 苦笑いしながら語る雪彦を見ながら、文成は奇妙に複雑な表情を作って苦笑いした。どうにも苦笑いの好きな二人だ。文成は話を変えた。
「で、オレを選んだ理由はオレが親父の子供で、12人も人殺しをしたからなのか? 現役のテロリストなら探せばたくさんいるだろうに。それに、雪彦さんがどうして動けなかったんだ? どんな手を使ってでも、親友の仇を討ちたいとは思わなかったのか?」
 雪彦は炭酸が抜けたジンジャーエールを胃に流し込んでから、一呼吸おいて答えた。
「暗殺術ならそれなりに心得があるさ。だが、私自身の仕事はレコード会社のA&Rみたいなもんさ。プロスペクト(有望な新人)を発掘して組織に加入させたり、テロリストの仕事をマネージメントしたりするのが、本業なんだ。本業逸脱は許さず、でね。それに、現時点なら、即戦力のテロリストはいくらでもいる。だけど、すぐに裏切りやすい。人類絶滅を目的としているから当然なんだけど。
 それにね、文成君。確かに君が和弘君の息子であるのも選んだ理由だが、もっと根本的な理由もあるんだ」
「根本的? なにそれ?」
「一人前のテロリストになったら教えてあげるよ」
 雪彦は文成に肩透かしを食らわせた。が、文成は突っ込むどころか、ふぅ〜ん、と言って気にしなかった。代わりに別の質問をした。
「あのさぁ。アルバートが口を滑らしたんだけど、シーマってなんだ?」
 雪彦は苦味を含んだ微妙な貌を作った。先ほどまでの陽気さがすっかり消え失せている。そんな雪彦に向かって文成はとんでもないことを言ってのけた。
「シーマって、確か……、ダイナナホウシュウの父だよねぇ?」
「いったい、君のお父さんはどういう教育を施してたんだ!?」
 雪彦は思わず大声で突っ込んだ。雪彦にとっては肩透かしどころか、けたぐり、いや、飛びちがいとも言うべき、外し方である。こんな転ばされ方も無いだろう。
「いや、親父、競馬大好きだったから。と言っても、いつも、昔の競馬の話しかしなかったけどね」
「そりゃ、昭和56年の秋の天皇賞のときか。私はモンテプリンスが好きでプリンスが勝つと言ったら、和弘君はホウヨウボーイが好きで、ホウヨウボーイが勝つと言って、お互いケンカしたよ。結局、ハナ差でホウヨウボーイが勝ったけど、TVの前で二人揃って絶叫して親に怒られたよ。今となっては懐かしい……って、そういう話をしたいんじゃないんだろ?」
 雪彦が懐かしそうに言った後、じろりと文成をにらみつけながら言った。
「シーマって、頂点とかそんな意味だったよな? サミットと同じ意味だっけ。そのシーマがオレを入れろと、アルバートが言ってたけど、シーマと言う奴はオレに関心があるのか?」
 文成は挑むように質問した。
「無いわけは無いだろう。君はわが組織にとってはプロスペクトなんだ。ま、根本的理由も関係しているのだが……、それはいずれわかることになるだろう。その話をするのは今じゃない」
 雪彦はさらりと質問をかわした。やや不満な気持ちになって文成は舌打ちしたが、すぐに気持ちを切り替えて新たな質問をした。
「で、雪彦さん。この後オレをどうするつもりなんだ?」
「君には超一流のテロリストになってもらうさ。その訓練を受けてもらう」
「それはわかるけど、どこでやるんだ?」
 すると雪彦はうっすらと笑って言った。
「どことは言えないが……、明日の早朝、この日本を脱出してもらう。まぁ、少なくとも来年の3月いっぱいまで日本に帰れないと思ってくれ」
 文成は唖然として声が出なくなった。まさか日本を脱出することになろうとは。
「君が犯した犯罪はいくら未成年でも死刑相当だからね。ここに留まらせるわけにはいかん。それにわがBIBLIOMANEには世界最高のテロリスト養成施設が海外にあるから、そっちで鍛えたほうが良い」
「来年3月いっぱいと言うことは……、中学校を中退か?」
「いや、学校には転校届を出している。もちろん私の都合でね。今の君の後見人は私だ。私がウィーンの音楽学校に勤める事になったからと言ったら、校長が少し驚いていたよ。表向きは、君は遥とともにウィーンの日本人学校に転校したことになっている」
「いやだなぁ……。まさか、遥もテロリストの訓練を受けるの?」
「いや、遥はウィーンに移る。でも、君だけは違う。史上最強のテロリストになってもらうさ」
 雪彦はすっかり気の抜けたジンジャーエールをそのままにして、新たに一本取り出して、栓を抜いた。そして文成のグラスに注いだ後、自分のグラスにも注いだ。
 二人は無言でグラスを合わせた。そしてゆっくりと飲み干していった。
(ボーイ・ソルジャーならぬ、ボーイ・テロリスト、か。なんとも皮肉な運命だ……)
 文成はぼんやりと考えながら、これから先の自分自身の未来図について想った。14のオレがどこかわからないところで朽ち果てるのだろうか? いや、必ず日本に帰ってくる。そして、親父やママ、久美子を殺し、オレを絶望の底に叩き落した奴を消滅させる。人類絶滅、面白い夢だ。組織がなぜそう願うのか知らないが、やり遂げる価値があるかもしれない。そのために獣になるのもいいかもしれない。さしずめオレは“黙示録の獣”かな……。
 そう考えて文成は薄ら笑いを浮かべた。



第15話へ続く



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