
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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人生は迷路のようなものだと、ある人は言った。迷いながらもゴールに向かって突き進むからだと言う。迷うことなく突き進められるものは、ほんの一握りだとも言う。ほとんどの人間はゴールするまで大いに迷うものだと言う。中には迷い込んだままゴールできずに生涯を閉じるものもいるだろう。
あるいは、人間にとってゴールと言うものは数限りなくあり、望みどおりのゴールにたどり着くものもいれば、そうでないゴールにたどり着くものもいるのだという。望外のゴールに喜ぶものもいれば、憮然悄然とするものもいると言う。
だが人間のゴールを決めるものは誰一人としていない。その人自身でも、他人が決めるわけでもない。ましてや、神が決めるわけでもないのだ。そもそもゴールを決めて、それに向かうと言う発想思考そのものが根本的に違うのかもしれない。少なくとも、自分の意志ですべてを決める事などできないことなのだから。
今、ひとりの少年が人生という、答えの見えない迷宮の中で、知らず知らずのうちに分岐点に立っていた。道は二つしかない。欲望の赴くまま、衝動的に虐殺を繰り返して血を啜る悪鬼のような生涯か、叛逆精神を宿し、知性と獣性を兼ね備えた誇り高き堕天使のような生涯か。運命の代理人はすぐそこまで来ていた。
10月の初めのある日の夕方。クラブ活動をしていない平井文成は定刻どおりに下校したが、まっすぐアパートには帰らず適当に寄り道をしていた。本屋に立ち寄ったり、CDショップを冷やかしに入ったりと何の意図も無しに時間をつぶしていた。しかし、その潰し方は意図的とも言えた。正確には作為的といったほうが良いだろう。あまりにも場当たり的なのだ。気まぐれな人間ではあるのだが、今日、と言うよりここ数日の文成の行動は、学校にいるとき以外はかなり作為的に行動しているのである。まるで何者かを撒くかのように。
そう、文成は撒いていたのだ。ここ数日、怪しげな二人組が自分を四六時中見張っている事に早くから気づいていたのだ。文成は9月中に自分を嗜虐の対象にしていた中学生12人を、想像を絶するようなやり方で殺戮して以来、異様に感覚が鋭くなっていた。誰が自分に興味を持っているのかを容易に嗅ぎ取る事ができるので、尾行者を感じ取るぐらい訳なかった。しかも二人組の尾行者はマヌケな事に、離れて行動すればいいのに、一緒に行動するものだから文成もすっかり侮蔑していた。
(なんなんだか……。随分バカにされたものだ。いまどき警察でもそんな馬鹿げた尾行はしないぞ。二手に分かれて尾行すればわかりにくいだろうに……)
今日もおバカな二人組を撒こうと考えていたが、そう思った瞬間、文成はこの二人組と直接話がしたくなった。ここまでマヌケな尾行をする二人組の正体を知りたくなったのだ。酔狂ながらも暇つぶしにいいかもしれない。そんなことを考えた文成は脱兎の如くアパートに向かって駆け出した。二人組の尾行者が慌てて追跡してくるのが気配でわかった。ド単純な奴らだ……。
アパートに駆け込んだ文成は鍵を掛けるとタオルで汗をふき取り、手早く着替えた。そして愛用のコルト・スーパー.38・ピストルに実弾を詰め込んでドアの鍵を開けた。そして部屋の床に座り込んで、38スーパー・ピストルを懐に仕舞い、二人組を待った。
尾行者の二人組が文成のアパートのドアを叩いたときには日も沈みかけていた。文成は待ちくたびれたのか、うんざりした声で言った。
「どうぞ」
ところが、何の反応も無かった。そしてもう一度ドアを叩く音がした。
「鍵開いてるから、勝手にお入りくださいな」
もう一度文成は声を掛けたが、またも返事無し。来訪者が3度目のノックをしたときには文成も苛立った声をあげた。
「お前ら散々オレを付け回していたんだろ!? わざわざ鍵を開けてやったんだから、勝手に入ってくればいいだろ!」
また沈黙が始まったが、それも20秒程度だった。ドアノブがガチャリと音を立てると、妙に長身の男が二人上がりこんできた。二人ともスーツを着ているがどう見てもビジネスマンだとは思えなかった。年齢は40代と30代といったところか。40代の男は瀟洒な口ひげを生やし、30代のほうは、年齢の割にはやや若く見える。が、顔を見ると微妙に皺が入っているから、思うほど若くは無いのだろう。
この二人の共通の特徴は外国人であることだった。文成の見立てではイギリス人だった。どうにもイギリス人特有の高慢さが伺えた。
「いつまで突っ立っているつもりなんだ? それとも、座って話をする習慣が無いのか?」
不機嫌に皮肉を言いながら文成が尋ねると、ようやく40代らしき男が口を開いた。
「座っていいのかね?」
英語を喋るかと思ったが、意外にも日本語だった。しかも、ぎこちなさが無く流暢で、温和な雰囲気を醸し出している。温和な雰囲気は演技かもしれないが。
「人を見下ろして喋りたいなら、勝手にすれば良い」
文成は不遜なしゃべり方を崩さなかった。さらに冷笑すら浮かべている。それを見た30代の男の方は一歩足を踏み出したが、40代の男に留められた。
「君にとって非常に重要な話を、我々は持ってきたのだ。かなり長くなると思うのだが、どうか付き合ってくれないか?」
40代の男は、文成にまともに相手にされなくても表情を変えず、柔らかな物腰で文成に接した。
「ふうん、長くなるのか。仕方ないな、茶を一杯進ぜよう。適当に座って待っていろ」
文成はやおら立ち上がって台所へ行った。それを見た二人組はようやくの思いで床に座った。正座ではなく、胡坐をかいていた。これくらいはできるらしい。
「わかってると思うが、オレは貧乏なので高級なお茶は出せない。ティーバッグで我慢してくれ」
文成は台所から二人に向けて言った。何気なく言ったつもりだったが、二人組は思わず噴出してしまった。文成がおどけて言ったように思ったのだ。だが、すぐに自分たちがかなり調査している事を見破られた事に気づいた。同時に、先程まであれだけ傲慢な態度を取っていた少年に心を和ませられた事にも驚いていた。人を見下すことをやめたわけでも無いが、自分たちが不快に思うような人間ではない事がわかったようだ。
「お待たせ」
文成は紅茶を二人分作り、それぞれにサーブした。自分の分は入れていない。
「君は飲まないのかね?」
40代の男が尋ねると文成はあっさり、
「今は飲む気がしないから。面白い話を聞かせてくれる予定なんだろ、イギリス人のおっさん?」
と、いきなり核心を衝いて来た。しかし、二人はなんら表情を変えず、黙って紅茶を一口含んだ。
「なぜ、我々がイギリス人だと思ったのかね?」
「なんとなくだよ。日本語喋ってるけど、訛りかたがアメリカ人っぽくなかったのでね。それになんか高慢そうだったから」
「それは君に言われたく無いね。私は君ほど、人を見下すことを当たり前だと考えている少年を見たことがない」
40代の男が憮然とつぶやくと、文成はさらに冷笑するようにからかう。
「随分世間知らずなんだな。で、あんたたち。一応、親からもらった名前があるんだろ? 聞かせてくれないか? それとも、名前を明かすことができない事情があるのか?」
そんな風に文成が質問すると、40代の男は笑いながら自己紹介した。
「ハハハ、そんな事情は無い。我々は至って平穏な社会人だ。私の名は、エドワード・ブランドフォード。隣に座っているのはアルバート・ソールズベリーだ。覚えておいてくれたまえ」
「覚えにくいなあ。シンプルにローゼンクランツとギルデンスターンにしろよ」
文成がわざとうんざりした声で二人を揶揄すると、二人の表情が凍りついた。ブランドフォードと名乗った40代の男は笑顔が引きつり、文成に対して初めから嫌悪感を示していたソールズベリーという名の、30代の男は目を怒らせて文成を睨みつけた。だが、文成はそんな二人に対してなお、冷笑を浮かべている。
「君、今の発言は意味を理解した上で言ったのだろうね?」
ブランドフォードが真顔で文成に尋ねた。沸き起こった不快感をどうにか抑えている表情だ。
「分かっているよ。だから、ブラックジョークになるんじゃないか。分からないなら言わないよ。余り、お気に召さないようで」
「性(たち)が悪すぎるジョークだ。我々を『ハムレット』に出てくる、登場してすぐに殺される端役に見立てるとは」
ブランドフォードはまた憮然として愚痴をこぼした。
「モンティ・パイソンのお国から来た人間とは思えないね。それにしても、ソールズベリーさんか。あんた一言も喋らないね。喋るより、ぶん殴る方が好きかね?」
文成はいきなり話をソールズベリーという男に振った。ソールズベリーは苦々しげな貌を文成に向けたまま、紅茶を手にした。ソールズベリーが紅茶を口元に持っていこうとした寸前、何を思ったか文成は不意に飛びかかりソールズベリーの背後を取ると、左腕を後手にねじり上げた。その拍子にソールズベリーは手にしていた紅茶を落とした。
「な、何をする!?」
ソールズベリーが叫ぶと、文成は左手首をねじった。ソールズベリーの手からナイフがこぼれ落ちた。こぼれ落ちたナイフを文成は足で抑える。
「お前こそ、そのナイフで何をするつもりだったんだ、ギルデンスターン? それよりも喋られるんだな、お前。だったら言ってくれればいいのに」
「なるほど。我々の予想をはるかに上回る腕だな。これは是非とも買い取らねばならんね」
予想をはるかに上回る、と言いながら、意外と冷静にブランドフォードは言った。
「紅茶を含むと見せかけて、オレに引っ掛け、怯んだところへナイフを投げようとは、子供だましにも程がある」
文成は見下げるように言い捨てた。
「傲慢さに比例して腕前が優れているのか、腕前が優れているから傲慢なのか、いずれにしろ、貴重な逸材である事には違いない」
一切表情を変えることなく、ブランドフォードは冷淡に喋った。
「えらく落ち着き払って言うなぁ……。あんた達、スカウトしに来たのか?」
「有態(ありてい)に言えば、そういうことだよ、平井文成君。我々は君を組織の構成員として迎えるべくスカウトしに来たのだ」
「さっき、我々は平穏な社会人だとか言ったなぁ。お前らのどこが平穏な社会人なんだ? 組織の構成員? マフィアか、おまえら? それとも、秘密組織か? 今どき秘密組織なんて流行らないぞ」
「秘密組織に流行り廃りは無いさ。人類社会が存在する限り、いや、人類の欲望が無くならない限り、秘密組織は存在し続ける」
「面白いこと言うなぁ、ローゼンクランツさん。伊達に歳をとっているわけじゃないんだ」
「わ、わかったから、この手を解いてくれ。痛くてしょうがない!」
文成にギルデンスターンと名付けられたソールズベリーが堪りかねたように悲鳴をあげた。ねじり上げられた左手首が、黒みがかった紫色に変色していた。
「いやだ。解いた途端、掴みかかるか吹き矢を飛ばすかして、反撃するつもりなんだろ? オレに危害を加えようとする奴はタダじゃおかない。この手首、ねじ切ってやる」
冷酷さを帯びた低音で文成はギルデンスターンを脅した。復讐していた時の極度に重く歪んだ声音では無いが、それでもギルデンスターンは十分に慄いていた。
「許してくれ! 俺はただお前の、いや、君の腕がどれほどのものなのか、試すよう言われたから試しただけだ! 決して害意は無い!」
ギルデンスターンは必死に弁解した。冷や汗が貌全体を覆い、ぽたぽたと垂れている。
「嘘つけ。だったらナイフなんかいらないじゃないか? 紅茶を避けられるかどうかで十分だろ? ナイフをかわせたら合格、死んだら失格。そのつもりでいたんだろ?」
「平井君、もうやめたまえ。我々は君を殺すつもりで来たのではない。君をスカウトしに来たといったはずだ。ここはどうか、アルバートを許してやってくれないか。君がその手を離したあとも、私がアルバートを抑える。約束する」
冷静な口調でブランドフォードは言ったが、額から冷や汗が流れていた。文成がこれほどまでに容赦のない少年だとは思わなかったようだ。
「………ま、隣の人間に騒がれたりしたら厄介だからな。ここは引いてやるよ」
と、文成は紙くずを捨てるような感覚でソールズベリーの左手を解放した。よほど痛かったのか、ソールズベリーは落としたナイフを拾わず、真っ先に右手で左手首をさすった。表情はゆがみ、涙目になっている。
「情けない奴だなぁ。それで秘密組織の構成員だと言えるのかよ。おっと、また変な事考えるんじゃねぇぞ。考えたら、今度は大騒ぎになるからな」
そう言って文成は懐に忍ばせていた38スーパー・ピストルをすばやく取り出し、ソールズベリーの額に向けた。ソールズベリーは瞳孔を広げてぶるぶると震えだした。文成は銃口を向けたまま、ゆっくりと元いた位置に戻った。
「なるほど、銃を手に入れていたのか。道理で12人ほどの少年が短期間に失踪したわけだ」
ブランドフォードがわざとらしく、声を潜めていった。
「こいつは2人目を殺した後でヤクザを殺してから奪い取ったものさ。今時、こんなものを持っている奴も珍しいけど。そんなことより、そろそろ本題に入ってくれないか。ウチに入れという話だったよな」
文成はまるで、なにも警戒していないような口ぶりで、ブランドフォードに言った。その無警戒ぶりに、二人は互いの顔を見合わせた。
「話がわかるのか無警戒なのかよくわからんが、我々の要望に応えてくれると言うのかね?」
「無理にでも応えさせるつもりだろ? 不可能なら、その場で処分か?」
「君のような人材はまず手に入らない。あたら有望な人材を無駄にするほど、我々は愚かではない」
「うまい事言ってとことんまで利用するつもりなんだろ? 利用価値が無くなったらお払い箱、よくある話だ」
「利用価値が無くならないよう、しっかりと鍛えて育成するつもりだ。君にはやってもらいたい事がたくさんあるからな」
「やっぱりイギリス人だな。ユーモアの効いた言葉がどんどん出て来たじゃないか。じゃ、細かい話を詰めよう。案内してくれ」
なぜかうれしそうに文成は笑って、ブランドフォードを促した。
「我々はここでも構わない。人に聞かれる心配はない」
「周到に準備できたら最高だろ。そちらのご期待に添う事にするよ」
文成は信じられないくらい無防備にイギリス人の要望に応えた。ソールズベリーはまるでキツネにつままれたような顔をしている。理解を絶すると言わんばかりの貌だ。
「なにマヌケな貌をさらしてるんだ。とっととあんたたちの泊まってるホテルにでも案内してくれ」
文成は立ち上がって、まだ動顛している二人を促した。
「君、本当に我々の目的を理解した上で言っているのかね?」
「基本合意に達してるんだ。有意義で興味深い詳細は、落ち着いて何の心配もすることなく喋りたいだろ?」
文成の言葉に呆気に取られていた二人だったが、自分たちにとって都合のいい展開に進んでいるならば、何の不足もない。それならばと、ブランドフォードはソールズベリーを促し、文成をここから連れ出す事にした。ソールズベリーは、先程自分の手首をねじり上げて脅した少年が進んで自分たちについてくることが信じられないらしく、事情を飲み込めていない貌をしている。
「おい、いつまで情けない貌をさらすつもりなんだ? とっとと仕度しろ!」
まだ文成の意図が飲み込めないソールズベリーに向かって急き立てるように言うと、ソールズベリーは恐る恐る文成に向かって尋ねた。
「君、自分から組織に入るつもりらしいが、自分が何を言ってるのか、わかって言ってるのか?」
「ごちゃごちゃ言わんと、さっさと動け!」
ソールズベリーが奇妙に躊躇する態度を見せるので、とうとう文成は激昂した。物分りの悪い奴は嫌いだ。
「互いの利害は一致しているんだ。オレは今の状態に不満を持っている。変化が欲しいんだ。そしてあんたたちはオレを欲しがっている。オレは変化を求めて、あんたたちに応じると言ってるんだ。願ったりかなったり、だろ?」
そう言われてもまだ得心のいかないソールズベリーだが、文成が自分たちと行動を共にする事を意思表示しているのなら、そのことが重要なのだから、文成の思惑にいちいち拘っている場合ではないと、判断できたようだ。
「そうだな、君を組織に入れろとシーマが言っているのだから、君が応じてくれるのは、願ったりかなったりだ」
ソールズベリーが嘆息しながらつぶやいた。
「アルバート!」
「どういう意味だ、おい?」
ほぼ同時にブランドフォードと文成が言葉を発した。
「あ、いや、その……、なんだ、今、君が知ることではない。大人になったらわかる」
思わず口を滑らせたソールズベリーは慌てて、誤魔化そうとした。普通だったら執拗に追及されるところだ。
だが文成は追及しないどころか呆れたようにため息をつき、二人に向けて皮肉を言った。
「あんたたち、帰ったら本当に処刑されそうだなぁ。子供一人連れてくるのが最後の仕事になるとはねぇ……」
ソールズベリーは冷や汗が止まらなくなっていた。それとは対照的にブランドフォードは落ち着いた声で文成に言葉を返した。
「そんなことで処刑されるくらいなら、世界中に根を張ることなんてできやしない。それに君が心配することではない。仮に処刑されたとしても、君が知ることはない」
それを聞いた文成は急に無愛想な表情になった。そして、
「Ah,so」
と、なぜか英語で言って、つかつかと外へ出て行った。
「早く行こうぜ。とっぷりと日が暮れちまっている。待たせてるんだろ? あんたたちの上司を。とっとと行かないと……、ん?」
ぶっきらぼうに二人を急き立てていた文成だったが、喋りながら何の気なしに左斜め方向を見やった瞬間、四つ辻に不審な車が見えた。前部しか見えていないその車は、街灯に照らされているので黒色のセダンとわかった。なにやら奇妙な雰囲気をまとっているように、文成には思えた。
「どうしたのかね、平井君?」
ブランドフォードが平穏な喋り方で尋ねてきた。
「おっさんたち、今日一日、オレがどんな行動をしていたか、今ここで全部言えるか?」
文成は声を低くして質問した。言い草は無礼だが、声音はかなり緊張している。
「そんなことすべて言えるわけがない。と言うより、今日は君を迎えに来たのだから、もう調べることなんか無い。いったい、どうしたと言うのかね?」
文成の質問に答えてから再びブランドフォードは尋ねた。
「そうか……、という事は、あいつら警察のようだ。どうやら、オレに目をつけたようだな」
文成はひとり納得した口調でスカウト二人に言った。ここ最近、自分をつけまわしていたのはこの二人だけではなかった。警察も内偵していたのだ。そして今日尾行していた二人組は今、黒い車の中で張り込んでいる。これは文成にとって予想外だった。日本の腐敗した警察にバレる訳が無いと、高を括っていたが、どうやらそれは文成の思い上がりが生んだ油断から来る注意不足だったようだ。思わず唇を噛む。
「うぅん、思ったより日本の警察は優秀だなぁ。九年間も監禁された少女の事件やストーカーに殺された女性の事件についてはロクに動かなかったのに」
ソールズベリーがそう皮肉を言うと、文成は失笑した。
「今の皮肉はなかなか面白いけど、どうもそれどころではないぜ、ギルデンスターン。日本で処刑されるのは避けなければならんぜ」
文成はすぐに真剣な表情になった。さすがに今ここで騒ぎは起こせない。かと言って、まごまごしていると相手に感づかれてしまう。この時ばかりは文成も悪知恵が浮かばなかった。
そんな文成に向かって、ブランドフォードが鷹揚に言った。
「何をへの字口にして苦虫を噛みつぶしたような貌をしているんだ? 彼らの目を逸らすくらい、水道の蛇口をひねるより簡単なことだ。もうすぐ、向こうから勝手にここを去っていくよ。見ていたまえ」
ブランドフォードはまるで見せ付けるように口髭をいじりながら、落ち着いて黒のセダンを指差した。
「あのなぁ、赤子の手をひねるの間違いじゃないのか、おっさん? 大体、どうやったら向こうが勝手に……、あ、あん?」
文成が柵の上にあごを乗せて呆れたように突っ込んでいたら、なんと、ブランドフォードの予言どおり、10分もしないうちに黒のセダンが赤色回転灯を上に乗せてサイレンを鳴らしながら発進して、文成のアパートの前をそのまま通過すると、どこかへ去ってしまった。思わず文成は呆気にとられた。
「なんだよ、いったい。オレより興味深いものを見つけたというのか?」
「そういうことだよ、平井君。つい先ほど、行方不明になっている中学生の遺留品が出てきたと、警察に通報したのさ。現場は名古屋市守山区の小幡緑地としておいたよ」
そう言ってブランドフォードは文成に向かって髭をいじりながらウィンクしてみせた。このあたりはイギリス人らしく、さまになっていた。
「ガセネタをタレこむとはやるなぁ、おっさん。亀の甲より年の功とはよく言ったもんだ。でも、こうもご都合主義で進むと、何人かがクレームを寄こしてきそうだなぁ」
笑いながら文成がブランドフォードを褒めた。しかし、その後でわけのわからないことを言ってきた。
「誰が誰にクレームをよこすのかね?」
ブランドフォードが不審に思って言った。
「ん? あんたがたの知らない人達。ま、どうでもいいことだ。さ、行こうぜ。すっかり暗くなってる。これ以上、待たせられんだろ?」
文成はずいぶん適当なことを言ったあと、アパートに鍵を掛けて、階段をまるでタップダンスを踊るかのように降りていった。
「なんか、彼の言動は何もかも癖があるというか、変わってますね、エディさん」
ソールズベリーがつぶやくと、ブランドフォードもひと呼吸してから感想を述べた。
「おそらく彼は二百年に一人の奇人だろう、アル。さあ、いくぞ」
スカウトのふたりは階段を降りていった。文成とは違い、やや駆け足だった。ふたりが降りきると階段下で待ちかまえていた文成が尋ねてきた。
「二百年に一人の奇人とか言ってたけど、じゃ、今から二百年前にいた奇人って、誰なんだい?」
豪(えら)く耳の良い少年だと二人は思った。感心しながらブランドフォードが淡々と答えた。
「ハノーファーのフィンセントだ。もっとも、私もアルバートも名前だけしか知らないがね」
その答えを聞いて文成は、この二人は本当のことを隠していると思ったが、あえてそれ以上訊かなかった。それを知ったところで何かの役に立つわけではない。今、文成が求めているのはこれから起こることなのだ。
しばらくして、文成とブランドフォードの前に黒のトヨタ・クラウンが現れた。運転しているのはソールズベリーだ。
「乗りたまえ、平井君」
ブランドフォードに促されて、文成は何の遠慮も無く乗り込んだ。
「インテリア、すごいなぁ。クラウンの中でも随分高値の奴じゃねぇのか?」
相変わらずぞんざいな喋り方で文成は質問した。
「クラウンロイヤル・3.0ロイヤルサルーンG、だそうだ。この日本では500万円以上掛かると聞いた。それだけの価値があるかどうかは私にはわからないがね」
助手席に乗り込んだブランドフォードがつぶやくように言った。
「あ、そう」
文成は愛想無く答えたあと、両掌で貌を擦ってから、シートに背もたれて言った。
「じゃ、オレ寝るから。着いたら起こしてくれないか」
まったく予想外のことを言ったのでスカウト二人は驚いて互いの貌を見合わせた。
「君、あまりにも無防備すぎるぞ。少しは注意力を持ったほうがいいね」
ブランドフォードがやや不機嫌そうに注意したが、文成はそれにも構わず本当に眠そうな声を出して言った。
「ここんとこ、寝てないんだ。これから人と会って話をするのに、話の途中で寝てしまうようなことがあってはならんだろ。少しでもいいから疲れを取らせてくれ。こんなオレを無用と思うなら、今からでも処分するがいい」
そう言ってシートを倒すと、そのまま眠り込んでしまった。すやすやと寝息まで立てている。
「いったい、彼はなんなんですか? 豪胆というか、無防備すぎるのか。それとも、どこかおかしいのかなぁ? どう思います、エディさん」
ソールズベリーが首を傾げると、ブランドフォードは嘆息してつぶやいた。
「まったくもって理解しがたい。が、はっきりと言えるのは……、この少年が将来、途轍もない巨魁に成り得るかもしれない、と言うことだ。我々がそれを見届けることができるかどうかは非常に疑わしいがね、ギルデンスターン」
「あ、ひどい! 性(たち)の悪いジョークと言っていたのに、自分が使っているじゃないですか、ローゼンクランツさん!」
「平井君に逢った人間は、ブラックジョークに馴染むようになるのかな?」
「あっ!」
言われてソールズベリーはハッとなった。気がつくと、文成に対する嫌悪感は消えていたようだ。それでも、心から好意を持つようになったわけではないらしい。少し苦笑いしたソールズベリーはおもむろにクラウンロイヤルを発進させた。目的地は西の方角にあった。
第14話へ続く
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