堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第9話 狂える白鳥の歌


 世界の何もかもが停止してしまった。いや、世界そのものまでもが完全にその脈動を止めていた。何一つ動かない。息遣いも木々の息吹も、そして、自分自身の鼓動も聞こえなかった。まるで「無」の世界の感覚だった。見えないわけではない。だが、そこにあるのは、静止画と言うよりは、一枚の絵を見ているような感覚だった。自分が絵の世界に紛れ込み、そのまま動けなくなったかのような感覚なのだ。意識すらまったく動かなかった。
 初めて殺人を実行に移した瞬間、文成は今まで感じ得る事の無かった興奮で、精神が飛んでしまったようだ。あるいは単なる錯覚なのかもしれないが、少なくとも言えるのは、今、文成は身裡に眠っていた狂気によって完全に支配されていた。人を殺したい、原型を完全に破壊して消滅させたい。復讐の名を借りた虐殺の欲望が産み出す狂気は、それまで、嗜虐の対象にされて、屈辱と恐怖に打ち震えるだけでしかなかった脆弱な文成を魂魄もろとも変えてしまった。この瞬間の文成は身裡に隠れていた、自分ではまったく気づかなかった狂気という名の力に突き動かされる獣だった。双眸は憤怒と憎悪、そして破壊欲で血走り、開いた口からは餓えた獣のように涎が垂れ始めている。
「ひらい…………、どうゆうつもりだ…………?」
 後頭部を不意打ちされた喜田嶋が躯をふらつかせて、合わない焦点をどうにか合わせようとしながら、文成を見て不可解なものを見たかのような表情を向けると、文成の意識は元の世界に戻り、喜田嶋を視界に認めると再びバットを振り上げ、袈裟懸けのように打ち下ろした。今度は喜田嶋の左肩の付け根を強打した。表情の異様な歪みとともに、喜田嶋の口から激痛が生み出す絶叫がほとばしる。その絶叫が文成の耳に入った瞬間、まるで火に油が注がれたかのように狂気が暴走を開始した。なぎ払うように左側頭部を叩くと、喜田嶋がたたらを踏んだように足をよろめかせた。必死で踏ん張ろうとする喜田嶋に対して、今度は左の腿に向けてバットをたたきつけた。ジャストミートしたらしく、喜田嶋の大腿骨が折れる音が文成にも聞こえた。その折れた音がさらに文成の狂気を昂ぶらせた。大腿骨を折られたせいで左脚から崩れた喜田嶋に、次は横殴りで打ち抜くかのように背骨を殴りとばした。
「ごぷふぉっ!」
 今まで文成が聞いたことの無いような異音を発して、とうとう喜田嶋は前のめりに倒れこんだ。喜田嶋はまだ何が起こっているのかわからない貌をしている。それでいて、理解できない事態に対しての恐怖にまみれている貌でもあるのだ。
 文成はゆっくりと喜田嶋に近づくと、まるで不意打ちを防ぐつもりと言わんばかりに、喜田嶋の腰骨を六度も叩きつけ、喜田嶋の絶叫を絞るだけ絞った。そして、失神しかけている喜田嶋の頭を右足で踏みつけた。
「おい、なんでこんなところに呼び出されたのか、わかってんだろうなぁ、このクソボケ野郎」
 文成の口から極限にまでディストーションのかかった重低音でミキシングされた罵倒が出た。声変わりしても出そうに無い「デス声」である。
「なんで……、こんな事をするんだ……? おれたち、友達だろ?」
 頭を踏みつけられた喜田嶋が発した言葉に文成の怒りが全身を燃え上がらせた。
「まぁだ、言うのか、このボケェ!!」
 もう一度踏みつけて左耳の鼓膜を潰すと、つま先で顔面を蹴り上げた。さらに襟をつかんで間近にあった木に喜田嶋の躯を叩きつける。叩きつけられた喜田嶋の躯は、今度は座り込んだ格好になった。
「友達だぁ? 誰の事だよ? 教えてくれよ!? 誰と誰の事だよ。はっきりとわかりやすく言えよ!」
 怒り狂った絶叫が林の中で谺した。虐殺の欲望に取り憑かれた狂気の獣の咆哮が漆黒の闇に包まれた林を震わせた。ようやく、随分時間がかかった気がするが、喜田嶋は文成が何をするつもりなのか気づき、真の恐怖に慄いた。
「た、たのむ! 許してくれ! 殺さないでくれ!! お、おれは……、ただ……、お、脅されていたんだ! あ、あいつらに、平井に近づいて友達に成りすませ、あいつが気を許したところで、おびき出せ。さもないと、今度はおまえをボロボロにしてやると、言われたから、仕方な、ごふぉ!」
 言い終わる前に文成はバットの先端で喜田嶋の胃の部分を突いた。喜田嶋は涙をとめどなく流し、股間から悪臭を放っていた。闇夜でもズボンの股間部分の染みが大きく広がっているのが見える。恐怖の末、失禁してしまったようだ。だが、臭いはそれだけではない。脱糞した匂いも漂っている。
「誰が、小便とクソを出せと言った、このクズ。オレは友達とは誰と誰の事だと訊いてるんだ。なんで、小便とクソ漏らして、見え透いた嘘をつくんだよ?」
 ドスの利いた、という表現が生易しすぎると思うくらい文成の声は極度に重く歪みきっていた。それに反応するかのように喜田嶋の全身は癲癇(てんかん)か瘧(おこり)にでも罹ったかのように、小刻みに震えていた。今にも恐怖で失神しそうだ。顔面は冷や汗と涙と涎でふやけそうになっている。
「おい、てめぇ、はじめっからあいつらと仲良かったんだろ? 早い話がオレを誘き出してズタボロにするためのスパイみたいなもんじゃないのか? そうでなければ、あの時、オレをボロボロにして穴に放り込んで、生き埋めにしようとした時のテメェの表情、完全に蔑んでいたよなぁ。あんな表情、脅された人間が出す表情じゃねぇぜ」
 言い終えてすぐに文成は喜田嶋の胸を水平に撲った。さんざん喜田嶋を金属バットで容赦なく打ちのめしたせいで、とうとう喜田嶋の口から悲鳴だけでなく、血が吐き出された。内臓の血管が破れたのだろうか。そんなことまで文成がわかるはずも無く、それにどうでもいいことだった。人を殺してこの世から完全に消滅させるのに、そんなことは些事にもならない。
 文成は喜田嶋の右側に回り、耳元でまた同じ事を訊いた。
「さぁ、言えよ。おまえはあいつらとはじめから仲が良かったんだろ。逃げ回っていたオレを誘き出すために近づいて、わざわざオレの楯になってまでオレを騙して、オレを自殺に追い込んで楽しむのが目的だった。間違いないな」
 まるでドラマの刑事が容疑者を犯人にするように文成は決め付けて言った。これ以上の口答えを許さんと言わんばかりである。
 精神がほとんど崩壊していた喜田嶋は取り付かれたように震える声で白状し始めた。
「そ、そうだ。俺は、本当は、山村とは昔からつるんでたんだ。山村からおまえを生き埋めにすると聞かされた時に、面白そうだと思って、計画に乗ったんだ」
 金属バットではなく、今度は文成の右拳が喜田嶋の鼻をめり込ませた。息絶え絶えの状態でも絶叫は枯れることなく迸り出た。
「てめぇ、口の利き方がなってねぇぞ! 誰に向かっておまえと言ってるんだ? 無礼なガキだ。分を弁えて、ものを言え!」
 そう言ってもう一度、今度は口を殴りつけた。前歯が4、5本折れ砕け、まるで熟れ切って裂けたトマトのように血みどろになった。
「昔からつるんでた? じゃ、1000万持って逃げるという話はどういう意味なんだよ? まさか、今夜の事、喋ったんじゃねぇだろうなぁ!?」
「しゃ、喋ってない! 1000万持って逃げるという話は本当だ! 1000万もあったらあんな奴らと付き合う必要なんか無い! しばらく遊んで暮らせる、そう思ったからここへ来たんだ!」
「じゃかましい!」
 文成は怒鳴りつけて、喜田嶋の頭を引っ掴み、後頭部を木に叩きつけた。
「た、たすけてくれ…、平井…、いや、平井君、一生のお願いです。殺さないで下さい……」
 泣きながら喜田嶋はあまりにも惨めな声で文成に命乞いをした。そんな喜田嶋を見て文成は初めて醒めた目を見せた。まさに侮蔑から出た醒めた目である。興醒めしたのではない。生かしておく理由も意味も無いと断定した目だった。
 だが、文成はすぐに答えを出さなかった。しばらく口をつぐんだあと、引き締まった口元を残虐に吊り上げて笑みを作り、おもむろに口を開いた。
「じゃあ、まずは有り金全部出してもらおうか。まさか、1000万が手に入ると思って、一銭も持たずに来たわけ、無いよなぁ……」
 不気味なくらい穏やかな口調で文成は喜田嶋をゆすった。声音に恫喝の響きが無いので、喜田嶋は少し安心したようだった。
「あ、ある。金は一応持ってる。全部、出したら良いんだな。だ、出したら助けてくれるんだな?」
 震えきった声で屹りながら、喜田嶋は念を押すように文成に尋ねた。
「有り金全部出したら、見逃してやってもいいぜ。出すのか、出さないのか?」
 文成は侮蔑の感情を押し殺したような声で喜田嶋にささやいた。それを聞いて安心しきった喜田嶋は懐から茶色の財布をさし出した。文成はすばやくその財布を取り上げた。暗くてよくわからないが、手触りからして、随分と高価な感じのする財布である。
「贅沢なガキだ。親からせびったのか?」
 文成の声音に侮蔑の色合いがにじみ出た。財布の中身を調べると、一万円札が20枚ほど、乱雑に入っていた。小銭入れには硬貨があまり入っていなかった。カード入れには銀行のキャッシュ・カードとクレジット・カードが一枚ずつ入っている。
「おい、まさか、これだけなんていうんじゃ、無いんだろうなぁ……」
 文成はゆっくりと、というより、奇妙にのんびりした声で喜田嶋に語りかけた。
「いえ、もうこれ以上、金はないんです」
 喜田嶋は助かりたい一心で文成に言った。
「あ、そう」
 そうつぶやいた途端、文成はバットを持ち直し、再び喜田嶋めがけて振り下ろした。恐怖にまみれた絶叫がまたも林の中で響き渡った。
「ひ、ひらい。約束が違う! 金を全部出したら俺を助けるといったじゃないか!? 約束を破る気か!?」
 気違いじみた声で非難する喜田嶋に向かって文成は冷酷に言い放った。
「いつ、そんな約束をしたんだ? オレはそんなこと、一言も言っていない。おおかた、オマエの気のせいじゃないのか? オレははじめっから、オマエを嬲り殺すつもりなんだよ。オレを絶望の底に叩き落したオマエを許して生かしておくほど、お人好しでもマゾでもない」
「そんな、そんなぁー!」
 文成の冷酷な死刑宣告に喜田嶋は完全に恐慌に陥った。再び、躯はマラリアに罹ったかのようにぶるぶると震え、汗が滝のように滴り落ちる。
「そ、それじゃ、お、おまえは……、や、山村といっしょじゃないか! 人を虐めて苦しんで泣き喚くのを楽しむあいつらと、一緒じゃないか! あいつらと同類じゃないかぁ!!」
 まるで堰を切ったかのように喜田嶋は文成を罵り始めた。文成を虐めた人間と同じだと言って非難する事で文成の良心を責めるつもりなのかもしれなかった。
 そうだとしても、もう文成に良心など存在しなかった。なじる喜田嶋に対して文成はさらに冷酷に笑みを浮かべ、バットで喜田嶋を叩きつけた。
「オレがあのクソどもと同類? だったら、まずオマエが責任とって死ねよ。オマエがオレをこんなにしたんだ。その責任をオマエが取れ。うれしいだろ、オレが人殺しになってよぉ!」
 ゆっくりと冷酷に喋っていた文成にまた怒りの炎が点火した。乱れ打つようにバットを振り上げては喜田嶋の頭、貌、首の付け根に向かって叩き下ろした。そうかと思うと両膝を叩き割り、両腿を潰さんばかりに打ち続け、二度と足腰が立たなくなるくらい、両脚を叩きまくった。いや、完全に両脚を叩き潰した。
「ひ、人殺し……、人殺しぃー!!」
 この喜田嶋の罵声が人生最後の絶叫となった。最後とあって、今まで一番の絶叫だったに違いない。
 しかし、絶叫するなら文成のほうがはるかに上回っていた。止まることなく殴りながら、憎悪に彩られた絶叫を吐き出した。
「じゃかましい、このクソボケェー! オマエみたいなクソが生きている事自体が間違ってるんじゃあ! オマエらみたいな奴がのさばっているから、世界が腐るんじゃあ! 死ねぇ! 死ねぇー! 死に腐れぇー!! 消えて無くなれ! 二度と蘇えるなぁ!! 永遠に消えろぉー!!!」
 叫んでいる途中から声が極端に甲高くなった。それはまるで完全に精神が狂いきったニジンスキーが世界を壊さんばかりにありったけの力で絶叫しているかのようだった。文成は喜田嶋を消滅させるつもりで、乱打した。十発、二十発、三十発……。一体何度金属バットを打ちおろしたか判らなくなっていた。喜田嶋が何の反応も示さなくなっても、まったく気づかずバットで殴りまくった。
 何百回叩いたのだろうか、文成が喜田嶋の頭に渾身の力で叩きつけた瞬間、金属バットは真ん中よりやや上の部分で、バキリと、完全に折れてしまった。折れた先の部分が右方向へ飛ぶのが視界に入った時、文成はようやく我に返った。荒々しく肩で息をして、喜田嶋を見ると、それはほとんど人間の形をしていなかった。頭はぶよぶよに腫れ上がり、いや、膨らんだ挙句に破裂したような印象だった。両腕は紫どころか黒く染まっており、腹の部分を蹴ってみると、まるで、ミンチペーストを蹴っているかのような錯覚を覚えた。
 文成は手に残った金属バットの下半分で、折れた部分を先にして、喜田嶋の胸に杭を打つように思いっきり刺した。何一つ反応が無かった。殴り続けている間に絶命したらしい。喜田嶋が死んだことを確認すると、残り半分の金属バットを取りにいき、再び折れた部分を先にして、今度は顔面に叩き込んだ。今の文成は狂気という狂気をすべて呼び込むかのようだった。

 新聞紙で棒状のものを作り、ライターに火をつけて穴の中に放り込むと、穴から炎があがった。勢いは良いが、文成が思ったほどのものではなかった。人間を燃やす時は空を焦がすほど火の勢いが強まると思っていたが、実際にやってみると、それほどでもなかったようだ。多少がっかりした文成ではあったが、すぐに気分を変えた。死体が完全に消えればそれでいい。ここに証拠になるものをすべて残してはならないのだ。死体が見つかれば殺人事件だが、見つからなければ行方不明で片付けられる。どこぞの工作員に拉致されたとでも思われるだろう。
 文成は深さ1mほどの穴を掘って喜田嶋の死体を放り込み、十二分に灯油を撒いて焼灼した。喜田嶋から奪った現金とカードは自分の財布にしまいこみ、財布は死体と一緒に燃やした。火の勢いが弱まるたびに灯油を注いでは死体を燃やし続けた。それを何度も繰り返していくうちに、ついに灯油が切れた。灯油缶を穴に放り込むわけにはいかないので、そのまま傍らに置いた。
 炎を眺めながら、文成は表現しがたい陶酔感に酔っていた。復讐とはなんと都合の良い言葉なんだろうか。本質的には歪んだ形の欲望に過ぎないのに、これほどまでに自己満足の出来るものがあるのだろうか。どんなに自己正当化しようが、美化しようが、復讐はどこまで言っても欲望でしかない。オレはただただ、自分を虐め抜いた奴を殺したかっただけだ。ただ、殺すんじゃない。自分がやられた分の何倍にも返して、嬲り殺したかったんだ。そのために金属バットも灯油缶もバイクも盗んだ。自分が味わった絶望を味わわせてやる。泣き喚かせて命乞いさせて、奈落の底に叩き落してやる。最後はミンチペーストにして、灰すらも残らないくらい焼き尽くしてやる。その怨念と憎悪でまずは喜田嶋をこの世から消した。二度と蘇えるなと、呪った。奴はもうオレの目の前に現れることは無い。もう存在そのものが完全に消えたからだ。オレはとうとうやってのけた。自分の中に眠っていた狂気という名の獣を喚(よ)び起こした。この獣はオレを突き動かし、何もかも破滅に導く。いや、オレ自身が獣そのものなのだ。獲物を噛み殺し、断末魔を聴きながら食らい尽くす、狂気という名の獣だ。理性も慈悲も何も必要ない。欲望と狂気で十分だ。この二つがオレの新しい魂魄だ。これでオレを虐め抜いた奴らをみんな消し去ってやる。それだけじゃない、オレを避けたもの、遠巻きに眺めて悦んでいた奴、なんの手助けもしなかった奴ら、みんなまとめて焼き殺してやる。オレよりも深い絶望の底に叩き込み、さんざん涙と悲鳴を搾り取って殺し尽くし、燃やし尽くしてやる。自分に都合の悪い奴は皆殺す。己の欲望と狂気の赴くままにやり尽くしてやる。オレはそのために生まれてきたんだ。世界を燃やし、何もかも燃やし、最後は神をも燃やしてやる。これがオレの夢だ……。
 文成は欲望と狂気をとことんまで高め上げて燃やしながら、静かに、そして段々と声をあげて、まるで気が触れたように笑い出した。あまりにも陰惨な笑いだった。もう彼の瞳は誰からも愛された「穢れなき天使の瞳」ではなかった。欲望を剥き出しにして破壊に走る、狂気に彩られた野獣の瞳だった。

 死体を焼き尽くしたのを確認した文成はさっさと穴を埋めた。腕時計を見ると、もう午前4時を回っていた。漆黒の闇が少し薄れてきている。早くここを出ないと人に見つかる可能性が高くなる。月曜日は休園しているこの植物園だが、管理している人間が来ないとは限らない。さすがに余計な殺人をやるほど文成は愚かではない。文成は虐殺の痕跡が無くなったことを確信すると、この林から出て行こうとした。
 その時、文成の背後、五時方向に草がすれる音が聞こえた。風はまったく無い。ということは……、
(見られた!)
 文成の表情に驚愕の色が浮かんだ。決して見られてはならない、狂気に染まった貌を見られた。そう思った文成は草ずれの音が聞こえた方向へ駆け出した。
(オレの貌を見た奴は、生かすわけにはいかない)
 すっかり人殺しの貌になった文成だが、表情は焦りと不安で少し歪んでいた。たった一人しか殺していないのに、それが知れてしまったら、もう文成はこの世界に居られない。両親同様、逃避行しなければならなくなる。そうなるのはまだ早すぎる。
 必死に捜しまわった文成だが、全然見つからなかった。痕跡らしきものも見当たらない。あるいは文成の内心の不安が呼び起こした錯覚だったのだろうか?
(気のせい、だったのかなぁ……)
 ふうっと、ため息をつき、足元を見ると、わずかながらも光っている何かが見えた。屈みこんで手に取ってみると、それはエメラルドグリーンのブローチだった。シンプルなデザインだが、これは文成にとって思いの深いブローチだった。なぜならそれはある人物にプレゼントしたものだったのである。それがここにあるということは、その人物が文成の初めての虐殺の一部始終を見ていた決定的な証拠なのだ。あるいは最初から最後まで全部見ていたのか。
 ふと目線をあげると、目の前にやたらと幹の太い大樹がそびえていた。この太さなら隠れて見ることは可能だ。ここで見ていたのは間違いなかった。樹をよく観察すると、根に近い幹の部分が微妙に湿り気を帯びていた。夜露か? 匂いはまったく感じられない。しばらく文成は考え込んでいたが、何事か思い至ると、苦笑いした。
(はぁーん、なるほどねぇ……)
 草ずれの正体を確認した文成は夜明けが近い事を肌で感じながら、植物園を脱兎の如く抜け出した。

 A.M.4:52。文成はまんまと隠れ家にしているアパートに戻ってきた。このアパートは遥の父、雪彦が文成をかくまうために用立てた部屋である。隆市叔父がまったく頼りにならないので、文成は雪彦の庇護を受けていたのだ。
 アパートとは言うものの、六畳二間と、割と結構な隠れ家である。父の和弘が大学時代に下宿していたアパートの部屋が六畳一間だった事を考えると、文成は恵まれているほうだろう。
 部屋の中は絶望の底に沈んでいたにしては、きれいさっぱりとしている。かといって、家具の類がないというわけではない。机や椅子、ベッドが揃っており、比較的大きな本棚が二つもあった。一つは、バレエの本に野球関係の本がびっしりと埋まっていた。もう一つは、音楽CDで隙間なく埋められていた。300枚は超えているだろうか。見るとすべて洋楽である。クラシックもあるが、90%以上はハード・ロックやヘヴィ・メタルだ。すべて父の形見だった。幼い頃から文成は父とともにハード・ロックやヘヴィ・メタルを聴いては首を振りまくっていた。父がリッチー・ブラックモアの物まねをしたときは一緒になって真似たりしていた。
 文成は不快感を覚えて着ているものをすべて脱いで洗濯籠に放り込んだ。汗が乾ききって肌がベトついていた。全裸になった文成はタオルを取り出して台所にいき、水を薬缶に入れて沸かし始めた。沸騰寸前でガスの火を止めると、今度はプラスチックのボールに水を半分弱ほど入れる。その後、薬缶のお湯を注ぎ、頃合いの良い湯加減になると、タオルを入れて十分に絞った。水気がなくなったのを確認して、文成はそのタオルで自分の躯を拭い始めた。風呂の付いていない部屋では、それなりに知恵を使わなければならない。
 全身を丁寧に拭った文成はタオルを残り湯で洗って絞り、洗濯籠に入れた。そして、何も着ないで裸のまま、パイプベッドに腰掛けた。そして、CDが入ったままのオーディオプレイヤーに向けて、リモコンの再生ボタンを押した。マレーシア製のプレイヤーからゲイリー・ムーアの名曲、「THE LONER」が流れてきた。ゲイリー・ムーア独特の「泣きのギター」を堪能できるこの曲は、もともとコージー・パウエルが1979年に発表した最初のソロ・アルバム、『OVER THE TOP』に収録されたマックス・ミドルトンの作曲で、ゲイリー・ムーアが1987年に発表した『WILD FRONTIER』で、新たに中間部を加えて生まれた曲だが、今なおこの曲は「泣きの名曲」の最高峰と謳われている。
 文成はこの名曲を聴きながら、目をつぶり、左手で押さえた。心の底から悲しみが沸き起こる。気が狂うくらいの悲しさに声をあげて泣きたくなった。そして、文成の脳裏に、父と母、そして愛らしい久美子の貌が浮かんだ。文成は亡くなった家族に向かってつぶやいた。
「親父、ママ。オレはもう元に戻る事ができなくなってしまった。もうオレは人間なんていう、この世で最もくだらない生き物として生きていきたくはない。これからは自分の欲望のためだけに生きていく。邪魔する奴はどんな奴でも殺し尽くす。人間を嬲り殺す事に目覚めたオレを許してくれ。そうでなければ、オレはもう生きていけないんだ……」
 そして文成は、全身全霊をあげて愛した妹に向けて、訥々と力なく、語りかけた。
「久美子、お兄ちゃんを許してくれ。もうオレは……、久美子の………」
 こみあげるものがあったのか、途中で言葉を詰らせた。欲望にまみれた狂気の獣と化した文成の双眸から涙が溢れ出した。
「もう、久美子の、大好きなおにいちゃんじゃない。おれはもう、好きこのんで人間を殺し尽くす獣なんだ。もういちど、久美子に逢えたとしても、もう抱き上げられないんだ。この、血にまみれきって汚れた腕でおまえを抱き上げる事はできないんだ。もうオレは……おまえのおにいちゃんじゃ、ないんだ……。久美子……、くみこ……」
 文成はうずくまって押し殺すようにすすり泣いた。泣けば泣くほど、涙が溢れた。死ぬまで涙が止まらないかと思ったが、そう思ったとたんに、涙は枯れた。
 この日、平井文成は悲惨な自分を憐れんで泣く事を完全にやめた。そして、涙が消え失せると、自分を悲惨な状況に追い込んだ者たちすべてに復讐するための牙と爪を研ぎ始めた。涙が消えた代わりに、その美しい貌に現れたのは、虐殺の欲望を満たす事に快感を覚えて陶然と残虐に笑う、餓えた獣の貌だった。
 文成の頭の中で、「狂える白鳥の歌」が何度も何度も再生され、響き渡った。もう、ゲイリー・ムーアの泣きのギターはまったく耳に入っていなかった。



第10話へ続く



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