堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第8話 UNDERNEATH DESPAIR


 その日のことを文成は永遠に忘れる事はない。それは、その日が日本現代史においても衝撃的だったあの航空機墜落事故が起きた日と同じだからではなく、「平成の大横綱」と謳われた力士の誕生日と同じ日だからでもない。幸せな日々が終わりを告げた日であったからだ。同時にそれは文成の純真な心が死んだ日でもあった……。
 文成が10歳の時の夏休み。このとき文成は林間学校に行っていた。3日間とは言え、文成が初めて家族と離れて、過ごす事になったのである。久美子と離れるのが嫌だった文成だが、母から、
「久美子のために立派な人間になるといったでしょ。そのための訓練よ」
 などと言われると、現金なもので、すっかり上機嫌になって行ったのである。
 そして、何事も無く時間は過ぎ、林間学校三日目、最終日の午前10時頃、夢にも思わなかった知らせが文成の元に届いたのである。
 担任の倉下先生から呼ばれて、ひとり別の部屋に入れられたときは、自分が何か悪い事でもしたのか、と不安な気持ちになった。だが、呼んでおきながら彼女はなかなか口を開かなかったので、文成が堪りかねて尋ねると、若くてきれいな担任はつらさを堪えるように告げた。
「平井君の、お父さんとお母さん……、そして、久美子ちゃん……、交通事故で亡くなったの」
 亡くなった、と聞いて、文成はきょとんとしてしまった。
(なくなった? 誰が? パパ、ママ? 久美子? どういうこと?)
 現実感がまるで無かった。人が死ぬ、ということを余り見ていないという事もあった。しかも、亡くなったのが自分の家族だと言うのだ。何かの間違いだと思った文成は無邪気に先生に言った。
「先生、何かの間違いじゃないんですか?」
 だが、先生は悲しい目を向けて、首を横に振り、
「間違いじゃないの、平井君。家族の方から連絡があって、今朝、温泉旅行から帰る途中で、交通事故に巻き込まれて、亡くなったの。つらいけど、本当のことなのよ」
 といって、俯いてしまった。
「それじゃ、パパやママ、久美子はもう、いないんですか? もう二度と久美子と一緒にいられないんですか?」
 そう質問する文成に、先生は頷くだけだった。情が深いのか、事務的に淡々と言う事ができないらしい。
「もう二度と………、久美子に逢えない。久美子をおよめさんにできない………」
 ひとり取り残された悲しみより、久美子を喪った事が重くのしかかった。そして、その重さに潰されるように、目の前が暗転し、文成は失神してしまった。
 意識を取り戻してからは泣きじゃくるばかりで、周囲が何を言っても、泣き止もうとしなかった。それどころか、余計に声を上げて泣いた。ただその時文成が、泣きながら絶叫したのが、妹の久美子の名前ばかりだった。両親ではなく、ひたすら久美子の名前を叫んでは号泣していた。両親が死んだことより、久美子を喪ったことのほうが彼には信じられず、耐え切れない出来事だったのだろう。
 数日後に行われた家族の葬儀でも涙を堪えられず、とてもその場にいられなかった。見るに見かねた遥の父、雪彦が文成を別の部屋に連れ出し、二人っきりになって、文成を諭した。
「文成君、つらいのはよくわかる。だが、いつまでも泣いてばかりではいけない。君がそんなことでは、あの世でパパやママ、なにより、久美子ちゃんが悲しがる。君を見て久美子ちゃんまでずっと泣きっ放しになるぞ。久美子ちゃんを泣かせるような事をしてはいけない。君は久美子ちゃんのために立派になると誓ったのだろう。だったら、もう一度、久美子ちゃんのために立派な人間になると、ここで誓いなさい。くじけそうになったら、おじさんやおばさん、それに遥がいるから、安心しなさい」
 久美子のために、と聞いて、ようやく文成は泣き止み、改めて、久美子のために立派な人間になると誓った。
 しかしながら、このことがきっかけで、文成は虚脱してしまった。孤児になった文成は和弘の弟にあたる、隆市叔父の元に引き取られたのだが、「穢れなき天使」のように美しいと言われた瞳は虚無に彩られた酷寒の冷気を漂わせるようになった。
 文成の叔父、隆市は兄の和弘と違い、あまり活発的な人間ではない。はっきり言って、おとなしいのである。優しいのであるが、兄の優しさとは違い、人と争う事が嫌いで、あまり波風を立てることを好まない人間だった。だから、文成の虚無から発せられる冷気が漂う瞳をまっすぐ見ることができなかった。
 それに対して、隆市の妻、有美子は文成と積極的に向き合い、まるで実の子のように愛した。ある日、文成は以前母に対してしたように、有美子の乳房を触った。すると、驚いた有美子は、
「もう、まだ乳離れできないの。甘えん坊さんね」
 と言って、文成を抱き寄せて、自分の乳房の谷間に文成の顔をうずめさせた。叔母の唐突な行動に狼狽した文成だが、母よりも豊かな乳房に挟まれてそのうちうっとりとした。
 だが、なぜかこの頃から、学校では男女を問わず、虐められるようになったのである。
 無視される程度なら自分から関わらなければ良いと思うようになっていたから、その程度なら問題なかったが、陰湿な嫌がらせは常態化し、ほとんど毎日のように集団リンチに遭った。
 中学校に進学してからはさらに悪化、山村をリーダーとする不良グループからまず集団で暴行を受け、これ以上虐められたくなかったら、自分たちのグループに入れと脅された。文成はその度に拒否して、そして更なる暴行と嗜虐を受けた。あるときはすれ違いざまに殴られ、昼休みにいきなり連れ去られて、裸にされて殴られ蹴飛ばされたりもした。それに対して、クラスメイトや教師は見て見ぬ振りをし、中には面白半分なのか、どさくさに紛れて暴行を加える生徒もいた。学校内にとどまらず、休みの日でも、文成の家に押しかけて暴行を加えた。叔母の有美子が子供の頃から嗜んでいた剣の腕で追い払った事もあったが、叔父の隆市は何一つ対策を立てず、及び腰になっていた。これで文成はこの叔父に対して、心を開かなくなったのは、当然の成り行きであろう。とうとう文成は草薙雪彦の元に逃げ込んだ。そして、相談の結果、雪彦が所有しているアパートを隠れ家にして生活する事になったのである。そして、ついに学校へ登校しなくなった。虚脱と屈辱、そして恐怖におびえる毎日に文成は涙を枯らす日が無かった。そんな時、文成は両親に向かって、こう嘆いた。
(パパ、ママ……、僕は、本当は「みにくいあひるの子」なのか……?)

 中学2年の時、文成に喜田嶋(きたじま)という同級生が近づいてきた。貌の彫りが少し深いこの少年は何のために近づいてきたのか? 文成が猜疑心を湛えた目で喜田嶋を睨むように見ると、喜田嶋は苦笑して言った。
「おいおい、そんなに睨むなよ。何も君を傷つけるために来たんじゃない。むしろ、逆だ。君の友達になりたいんだ。君を必ず護る。あいつらに手出しはさせないよ」
 そう語る喜田嶋と言う少年に対して、文成は猜疑の目を崩さずに言った。
「本当に僕を護ってくれるのか? 今、ここで誓えるのかい?」
 すると、喜田嶋は屈託の無い貌でさらりと言った。
「あぁ、誓う。一生をかけて君を護るとね」
 そういって、邪気の無い微笑を浮かべた。
 最初は信用しなかった文成も、不良グループから必死に文成を護る喜田嶋を見て、心を許すようになり、ともに行動する事が多くなった。夏休みになると、二人で初めて名古屋に行き、名古屋ボトムラインで行われた、日本のロック・バンドのコンサートも楽しんだ。文成は夏休みが終わるまでまったくいじめを受けなくなった。文成はここにきてようやく、純真な心をほとんど取り戻しかけていた。
(僕はやっと、前を向いて生きていく事ができる……)
 だが、文成は自身にとって信じられない形で絶望の底に叩き落されることになる。
 二学期の始業式の後、いつものように喜田嶋が文成を誘った。次はどのバンドのコンサートを観に行こうか、と言ってきたのだ。喜田嶋を完全に信頼していた文成は、まんまと誘い出されたと言っていいだろう。喜田嶋が指定した場所に行くと、そこには……、
「待ってたよ、平井君」
 と、気持ち悪いくらい猫なで声で話しかける山村がいた。あっという間に囲まれると、なんと落とし穴に叩き落とされ、生き埋めにされかかったのである。
 突然の出来事に訳がわからず、混乱した文成だが、生き埋めにされてはかなわないと、必死で脱出しようとしたが、そのたびに棍棒で叩かれ、突き落とされた。何度も何度も脱出しようとするが、そのたびに頭や手を殴られ、穴に戻される。
 一瞬、文成の視界に喜田嶋の表情が見えた。そしてこの瞬間、文成はわが目を疑った。なんと喜田嶋は文成を見て助けないどころか、嗜虐の悦楽を楽しんでいる山村の横で、侮蔑的な笑みを浮かべていたのである。
(あいつ……、裏切った……!?)
 文成の心に戻りかけていた純真さは、このとき完全に消し飛んでしまった。そして、人間的な成分が完全に蒸発した。
 このまま生き埋めにされてしまうかと思ったが、生き埋め寸前で保健室の川上先生と草薙遥に助けられた。川上先生も有美子叔母と同じく、剣道をしており、六段の腕前だと聞いたことがあった。また、彼女が警察にも通報したので、山村たちも逃げ去り、文成は九死に一生を得た。
 生き埋め寸前で救い出された文成だが、暴行を受けている最中の喜田嶋の侮蔑の表情を忘れる事ができなかった。このとき文成は初めて、怨念と憎悪を生み出した。怨念と憎悪が化合して、復讐が生成された。そしてそれは、虐殺の欲望へと、あっという間に発展していった。
(殺してやる……、オレをこんなにまでした奴らを、後悔してもしきれんくらい、虐め抜いて……、何もかも消してやる……。復讐するオレを否定する奴らがいるなら、そいつらもみんな、消してやる!)
 このときから文成は人間の皮を被った、おぞましき獣と化した。

 獣と化した文成の躯の傷が治るのに、12時間も掛からなかった。始業式の翌日から文成はまた登校しなくなったが、それは逃げ回るためではない。文成は復讐から発せられた虐殺の欲望の牙と爪を丹念に研いでいた。この復讐は必ずやり遂げる。奴らだけではない。小学校の時に虐めた奴らも必ず殺してやる。そう心に誓う文成の黒瞳からは世界を焼き尽くすかのような紫の炎が発せられていた。
 文成は三日かけて、復讐の計画を練った。絶対に殺しがばれない場所、殺す手段、殺した後の処理、なにより、どうやって誘き出すかが問題だった。文成は真剣に考えた。
(これができなければ、オレは生きていく事すらできなくなる……)
 それまで、僕、と言っていた一人称が、オレに変わっていた。精神が変わると、一人称まで変わるものなのだろうか? その辺りは良くわからないが、それはともかく、文成は考えに考え抜いた。準備はある程度整ったが、誘き出す方法が出てこない。焦りが怒りとなって湧出してきた。
 文成はすでにどこからか盗み出していた金属バットを取り出し、スイングを始めた。構えて踏み込んでは大きく振った。それをすっきりするまでやるつもりだったが、振れば振るほど、すっきりするどころか、怒りが沸いてくる。文成は振って振って、振りまくった。
 何百回振ったあとだったろうか、文成が思わず、
「あ、ベストスイング!」
 と、声をあげた瞬間、脳に閃光が駆け抜け、視界が一瞬光った。そして文成は、見るものすべてが凍りつきそうな残虐な笑みを浮かべた。
 文成は電話を取り、忘れたくても忘れられない人間の携帯の電話番号を押した。相手が出ると、努めて平静に意向を伝え、約束を取り付けた。相手は二つ返事で承諾した。
 受話器を下ろした文成は再び残虐な笑みを浮かべた。
(いよいよ、始まるんだ……。喜田嶋、楽しみにしてろ……)

 9月最初の日曜日、午後10時。文成は春日井市にある広大な植物園の人工林の中に身を潜めていた。植物園と言うよりは小山と言ってもおかしくないくらいのスケールである。この植物園は、午後6時には閉園されている。そして、月曜日が休園日なので、一般の人間が次に来るのは火曜日になる。その間に管理する人間が来ないわけではないのだが、そう簡単にわかるわけは無いと、文成は自信を持っていた。
 文成は暗くなるのを待って、この植物園に忍び込んだ。梅園近くの竹林の奥手の林が目的の場所だ。誰も来そうに無いことを確認すると、文成は目印の木の根の部分をシャベルで掘り起こした。中から、金属バットと灯油缶が出てきた。あらかじめ文成が運んで隠していたものである。運ぶ時は原付バイクを盗んで使った。一切の躊躇いも罪の意識も無くなっていた。あるのは虐殺という名の破滅的欲望だった。
 最初に殺すのは喜田嶋だった。文成に友人になろうと言って近づき、裏切った男だ。あの男だけはまず最初に殺し尽さなければ治まらない。文成は喜田嶋の携帯に、
「1000万円出すから、もう虐めるのはやめるように頼んでくれ。この話は僕が1000万円を君に払ってから、話してくれ。もちろん一人で来てほしい。引渡し場所は、そうだな、植物園があるだろう。あそこの中の梅園に近い方の竹林のさらに奥のほうの人工林で待っている。目印があるから迷わず来れるよ」
 と言って、誘い出した。もちろん1000万円を出す金なんてどこにも無い。普通に考えて引っかかりそうに無い嘘だが、1000万円を出すと言う文成の言葉を聞いて冷静な判断を狂わされたのか、喜田嶋はまんまと誘いに乗った。
 身を潜めて、喜田嶋が現れるのを待つあいだ、文成は時間の流れがあまりにも遅く感じられる事に、奇妙なくらい焦慮を覚え、表情に浮かべた。二つの眼球が異様に血走ってきた。全身の脈と言う脈がすべて波打っているみたいだ。心拍は300を超えているんじゃないかと言うくらいのハイペースを刻んでいる。汗が止まらない。金属バットを持つ手が汗のせいで滑りやすくなっている。何度もズボンにこすり付ける。植物園に忍び込んで以来、ひっきりなしに尿意を催す。持参していた尿瓶に何度も尿を注ぎ込む。これから人を殺すのかと思うと、今まで味わった事の無い緊張感と恐怖が文成にのしかかる。もう引き返すことも逃げ出す事もできない。誰にも虐められずに生きたいのなら、邪魔する奴を殺すしかない。知らず知らずのうちに文成の口元から涎が垂れ落ちてきた。何度も舌で拭い取って飲み込んでも、滞ることなく唾が分泌され、口から漏れかかろうとしている。
(クソが……、とっとと来やがれ)
 焦りが最高潮に達しかけていたのだろう。文成は心の中で罵った。頭の中では、映画『SUSPIRIA 〜サスペリア〜』のメインテーマ、「SUSPIRIA」が静かに流れてきた。
 1977年に公開された、イタリアのホラー映画の巨匠、ダリオ・アルジェント監督の『SUSPIRIA 〜サスペリア〜』のメインテーマ、「SUSPIRIA」は当時、クラウディオ・シモネッティを中心にイタリアの腕利きのセッション・ミュージシャンが集まって結成されたGOBLIN(ゴブリン)がこの映画のために作曲したのだが、静かにゆっくりと、そして、不気味に美しいメロディから始まるイントロが何とも言えない恐ろしさを醸し出している。そして、低く濁った男声が子守唄を歌い始め、さらに恐怖を煽る。中盤からアップテンポになるのだが、それが今、この瞬間、文成の焦りと恐怖にシンクロナイズしていた。酸欠状態に陥った人間のように、呼吸が異常に荒くなっている。全身の汗はまったく止まりそうな気配が無い。
 頭の中で流れていた「SUSPIRIA」が終わったと思うと、まるで、1曲リピートのようにまた流れ始めた。文成の呼吸はさらに荒くなり、激しい発汗と排尿の繰り返しで、気分が悪くなった。
(野郎……、さては逃げやがったぁ……)
 文成が怒り狂いかけたそのとき、どこからともなく足音が聞こえてきた。少しずつ足音が大きくなっていく。喜田嶋か。まさか、この植物園の関係者が見回りに来たんじゃないだろうなぁ……。関係者が来たとなれば、そいつまで殺さなければならない。しかし、その間に喜田嶋が異常に気づいて逃げ出すかもしれない。そうなると、この後の文成の計画が完全に狂う。復讐を達成する事は不可能同然だ。焦りから脂汗が止め処もなく流れ、下着を重くした。感触があまりにも気持ち悪い。
 誰でもいいから先に殺してしまおうか、それとも、もう少しだけ様子を見るか。文成が逡巡を繰り返していると、足音のする方角から文成を呼ぶ声が聞こえた。
「平井、来てるのか? 約束どおり来たぞ」
 間違いなく、喜田嶋の声だ。怯えているわけではないのだが、心なしか声が小さく、しかも震えている。しかし、まだ油断できない。一人で来たかどうかだ。一人で来たと思わせて、例の不良どもを潜ませていないか、それでは文成に勝ち目は無い。文成は言い知れぬ圧迫感に見舞われながらも喜田嶋に問いかけた。
「約束どおり……、一人で来たのか? 誰にも言わず……、一人で来たよな?」
 声がかなり震えていた。殺気を読み取られるかもしれない。文成の焦りは臨界点に達しかけていた。いきなり呼吸が停止しそうな恐怖が文成を押しつぶそうとする。
「あぁ、ひとりだぜ。1000万円、あんな奴らにくれてやる必要は無いからな。もらったら、とっととこの街から逃げるつもりだ。」
 文成の震える声を聞いて怯えていると思ったのだろうか、喜田嶋は蔑むように落ち着いた声で文成の問いかけに答えた。
 これを聞いた文成は重圧から一気に解放された。
(よし、勝った! オレの勝ちだ!)
 冷静な感情を取り戻した文成はゆっくりと音を立てずに喜田嶋の背後に回りこみ、徐々に近づいた。喜田嶋はなぜか文成がどこにいるのか気づいていないようだ。
(今だ!)
 文成は一気に駆け寄った。そして、両手で持っていた金属バットを喜田嶋の後頭部めがけて力一杯、振りかぶって叩きつけた。その瞬間、文成の内で眠っていた狂気という名の獣が完全に目覚め、破滅の咆哮をとどろかせた。



第9話へ続く



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