
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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バレエ教室に入ると、そこにはブロンドヘアをアップにまとめた、35歳くらいではないかと思える講師の女性が10〜20人くらいの女生徒たちをレッスンしていた。女生徒たちは文成が見たところ、9〜14,5歳と言ったところだろうか。レオタードとタイツに身を包み、バーやセンターでプログラムをこなしていた。文成や遥に気づいていないのか、一心不乱に稽古している。本気でバレリーナを夢見ているのかもしれない。保護者らしき人間はどこにも見当たらない。ここ十年くらい、習い事ではだいたい親がついてきているものだが、このバレエ教室はそうではないようだ。実際、この教室の女生徒たちの保護者らしき人間は一人も見ていない。
遥が講師の女性に声を掛け、文成と引き合わせた。
「紹介するわ、先生。この方が平井文成、私のフィアンセで高校のクラスメイトでもあるの。今は野球部に所属しているけど、前にも言ったように6年前までバレエをやっていたわ。資質は最高よ。
文成、この方が私の先生であるマリア・シュテルニア。オーストリア出身で、以前はウィーン・バレエアカデミーの講師をしていたの。5年前からここでバレエを教えているんだけど、私はそれより前からマリアに教わっていたのよ。マリアからもミュンヘンに留学するようにと薦められたけど、断っちゃった」
遥の紹介で文成とマリアは挨拶を交わした。
「初めまして、文成。マリア・シュテルニア、マリアと呼んでね」
マリアが流暢で淀みのない日本語で話したが、所々でドイツ語っぽさが伺えた。「ふ」が「ふゅ」に聞こえた。
「初めまして、マリア。平井文成です。先ほど遥が僕をフィアンセと紹介したけど、訂正させてもらう。僕は遥と何も約束を交わしていないし、婚約指輪も交わしていない。僕は今、そして数年先くらい誰とも結婚する意志はない。マリア、それだけは理解してほしい」
文成はきっぱりとした口調で遥のフィアンセではないと否定した。外堀を埋めるかのように既成事実をでっち上げて周囲に触れ込み、強引に結婚に持ち込まれては堪ったもんじゃない。だいたい、遥には何も愛情を持っていない。愛していない女と結婚するほど、気まぐれではない。
だが、遥はそんな文成の態度を見ても、一向に応えていない。それどころか、引き締まった口元をつりあげて微笑むと不敵に文成に言った。
「文成、どうあがいても私たちが結婚するのは決定済みよ。変に運命に逆らうような事をしないでほしいわ」
遥にそう言われて簡単に従うほど、文成は柔弱ではない。却って挑戦状を叩きつけるような口調で遥に言い返した。
「未来図なんていくらでも変わる。決定事項だっていつでも白紙に戻る。僕は少なくとも承知できない運命や未来は白紙に戻す気でいるので、それだけは覚えてもらいたいね、遥」
言い合う二人を苦笑いしながら見ていたマリアだったが、二人が完全に衝突する前に止めに入った。
「あなたたちが将来、結婚するかどうかは、今の私には興味が無いわ。私が興味を持っているのは、文成、あなたのダンスがどれくらい素晴らしいのか、それだけよ。以前から遥に散々聞かされたわ。あなたがどれほど素晴らしいバレエダンサーであるかと言う事をね。ルドルフ・ヌレエフに匹敵するなんて言ったわね、遥。是非見せてもらいわ、文成。もちろん、今ここに来ている子供たちにもね」
マリアが微笑んで言ったが、それを聞いて文成は戸惑い、慌てだした。
「え、あそこにいる女の子たちにも見せろと言うんですか? 待ってください、遥が言ったとおり、僕はもう6年もバレエをやっていないんですよ、ぶっつけ本番で見せろと言うんですか? それはいくらなんでも無理ですよ」
文成は抗弁したが、遥もマリアもそれを聞いてクスクスと笑っている。
「文成、ぶっつけ本番で、甲子園で場外ホームランを打ったのは誰だったかしら?」
そう言って遥がからかうように言うと、マリアも一緒になって、
「私も見たわよ、文成。いくら練習をつんでも、あんな事は誰一人として出来ないわよ、普通」
と言って、文成の抵抗を抑えにかかった。女性二人掛りで責められて、文成はまるで苦虫を噛み潰したような表情を見せた。珍しく参りかけている。
「あのなぁ……。野球は今、やっているからできるのであって、バレエは6年もやってないんだぜ。勘が戻るわけ無いだろ」
「そうかしら。場外ホームランを打つほどの才能に恵まれているなら、6年のブランクを取り戻す事なんて、簡単なことじゃないかしら。それに……」
マリアは途中で言葉を切ると、唇を文成の耳に寄せて耳打ちした。
「天才的能力を有しているテロリストであるあなたなら、出来ない事なんてないんじゃないかしら?」
この瞬間、文成は双眸を大きく広げ、驚いた顔をマリアに向けた。マリアはなんの屈託も無く微笑んでいる。続いて遥の顔を見ると、遥も悪戯っ娘のように微笑んでいる。
(なるほど……。そういうことか)
遥がマリアに自分のもう一つの貌を教えたのだと理解すると、一瞬、まさにほんの一瞬だが、文成は残忍な笑顔を浮かべてすぐに打ち消して、はにかんだ顔を作った。
「わかりました。やりましょう。どこまで出来るかは自分でもわかりませんけど、あの子たちが感動するくらいのものは、やって見せましょう」
文成は女生徒たちのほうを指し示して、6年ぶりにダンスを見せる事を承知した。二つの瞳がいつもの傲慢さを湛えた瞳と言うより、挑戦的な瞳に変化して輝いていた。
「ありがとう、文成。それじゃ、準備してもらうけど、今日の課題はモーリス・ラヴェルの『ボレロ』、『LES UNS ET LES AUTRES 〜愛と哀しみのボレロ〜』のジョルジュ・ドンのヴァージョンでやってもらうわ。遥のリクエストよ」
フランス語の部分は文成でもわからなかったが、『愛と哀しみのボレロ』なら良くわかった。なぜなら、文成がバレエダンサーになろうと決心したきっかけの映画だったからである。文成はあとで遥に、マリアが言ったフランス語のタイトルの意味を尋ねると、
遥は呆れ顔をしながらも、
「ある人々と他の人々、という意味よ」
と、答えた。
「ジョルジュ・ドンかぁ……。確かに『愛と哀しみのボレロ』を親父と一緒に観てから、バレエを始めたけど、個人的には遥の言う、ヌレエフのほうが好きなんだぜ」
文成がそうこぼすと遥は、
「いいの。私はジョルジュ・ドンが好きなんだから。それに、『愛と哀しみのボレロ』でジョルジュ・ドンが演じたセルゲイ・イトヴィッチのモデルはヌレエフよ。意識しやすいんじゃないかしら?」
と言って、文成をあしらった。
「随分と物知りな事で…………、ということは、上半身は脱げ、という事か? 確かあの時のジョルジュ・ドンは脱いでたけど」
観念した文成は遥に念を押すように尋ねた。
「そうね……、その方が良いわね。文成の裸、すごくセンシュアルだし、それにすごくいい匂いがするし……、上半身裸でお願いするわ」
遥はなぜか、歯切れを悪くしながら文成の問いに答え、リクエストした。遥の心に微妙で複雑な感情の揺れが生じているのを、文成は感じ取ったが、あまり気にしなかった。
「それじゃ、遥……」
文成はそう言って、いったん言葉を打ち切り、そしてマリアが自分にやったように遥に耳打ちした。
「……あの時みたいに、君を失禁させるよう、舞って見せてやるよ」
ものの見事に遥の双眸が見開き、貌が紅くなっていた。遥は眦をきっと吊り上げて文成を見返したが、その瞬間、紅くなっていた貌が一気に蒼ざめた。耳打ちしたあと文成は、恐ろしく残酷な笑みを遥に見せたのだ。それは、以前遥が見た事のある、文成の残虐な貌だった。たちまち遥の全身が震え始めた。
遥の震えを見た文成はすぐに遥の躯を抱きしめて、また耳元でささやいた。
「冗談だよ、遥。真に受けるなよ。君を怖がらせるような事はしないから」
さらに文成は遥の背中を軽く叩いて、慰撫した。
「文成、早く準備しなさい。あとはあなただけよ」
向こうでマリアが文成に呼びかけたので、遥の躯から離れて、
「じゃ、ゆっくり観ていて」
と言って、文成はマリアのところに向かった。
マリアの前に来ると、文成は早速、簡単な打ち合わせを始めた。
「さて、オレがジョルジュ・ドンで踊るのはいいとして、CDは何を使うんだ?」
「もちろん、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニック・オーケストラよ。1985年12月、ベルリンで録音したものがあるわ。それにあわせて踊って頂戴」
「それ、ドイツ・グラモフォン・レーベルの奴じゃないのか? オレも持ってるよ」
思わず苦笑いしてしまった。
「そういえば、確かカラヤンがモデルと思われる指揮者が出ていたなぁ。ニューヨークで公演したけど拒否されたと言うエピソードもちりばめてたっけ」
文成がそんなことをつぶやくと、マリアが微笑みながら確かめるように言った。
「そう、だから私も君も、『ボレロ』はカラヤンに限る、と思ってるんじゃないの?」
マリアの言葉に少し和んだのか、文成も微笑み返した。
「まぁ、カラヤンは名前や存在からして、インパクト強いけどね」
「ふふふ、そうね。じゃ、文成、早く準備しなさい。そんなに時間は取れないわよ」
マリアに促されて、文成は控え室へと足を向けた。
先ほど、『愛と哀しみのボレロ』のジョルジュ・ドンのように踊ってくれと、遥がリクエストしたが、『愛と哀しみのボレロ』で振付を担当したのはモーリス・ベジャールである。ジョルジュ・ドンはモーリス・ベジャール・バレエ団のスターだったということから、こんな配役になったのだろうが、それはともかく、振付がモーリス・ベジャールなんだから、別にジョルジュ・ドンでもルドルフ・ヌレエフでも、ジョッシュ・パーミターでも構わないのだが、文成がヌレエフに憧れていても、遥はジョルジュ・ドンが好きだと言うのだから、仕方が無い。おそらく遥は文成にジョルジュ・ドンを見出しているのかもしれなかった。ヌレエフに匹敵する資質と言ったのは、遥なりに文成の気持ちを汲んでいるのかもしれなかった。
準備を終えて戻ってくると、女生徒たちは横一列にならんで両膝を立てて座っていた。「三角座り」の体勢である。そんな彼女たちの表情を見ると、口を真一文字に引き結び、瞳の奥から好奇の波動が流れてきている。今時本当に珍しい少女たちだ。これほどの真摯な態度の少女を文成はほとんど見たことがなかった。ただ彼女たちが発する好奇の波動に関しては、やや苦笑せざるを得なかった。が、それも仕方ないと思ってしまう。なぜなら、今の文成の外見は、『愛と哀しみのボレロ』のジョルジュ・ドンとほとんど同じである。入念に化粧を施し、上半身は裸、黒のタイツを穿いて、素足なのだ。髪型こそ、あの時のジョルジュ・ドンほど長くないのでそのままだが、それでもジョルジュ・ドンに負けないほどの魅力を発している。
文成はマリアに向かって、
「先に1分ほど、瞑想するから。1分経ったら、BGMをかけてくれ」
と言って、センターのまさに中央部にふわりと座り込み、座禅の形をとった。両手は股間の上で組んでいる。水を打ったように静まり、ぴんと張り詰めた緊張感が漂う。20秒リラックスしたあと、腹式呼吸を三度繰り返して集中力を高めた。三度目の呼吸が終わったそのとき、マリアが件の『ボレロ』をかけ始めた。小太鼓とヴィオラ、チェロのピチカートによって刻まれるボレロのリズムに続いて、フルートが弱音で明るい主題を奏でる音に合わせて、文成はゆっくりと踊り始めた。さながら花の蕾が膨らんで咲くイメージで踊る様は真にセンシュアルだった。今にも花の香りが漂ってきそうな雰囲気だ。いや、実際に香りが漂ってきていた。女生徒たちは異変に気づいたが、それでも怪訝な表情はしても、周りを見回すようなことはしなかった。真剣な眼差しで文成のダンスを観ている。別の角度から観ているマリアと遥は口を手で隠しながらささやき合っている。
「さすがね、彼。とても6年のブランクがあるとは思えないわ。それよりも彼の躯からすごく良い匂いが漂ってくるのだけれど」
「あれが彼の魅力なんです。男なのにまるで男の匂いがしないでしょ。女の匂いのようで。でもそれだけじゃないんです。今みたいに花の香りのような匂いを漂わせたりするんです。私、子供の頃からずっと文成を見てきたんですけど、あの匂いだけはどうしてもわからないんです」
「ジョルジュ・ドンは素晴らしいダンサーだったけど、これほど女の子宮に訴える匂いを発したことはなかったわ。彼、人類史の奇跡じゃないの?」
「そうかもしれませんね、マリア」
明るい主題に続いていくらか暗い雰囲気の副次主題があらわれ、二つの主題が楽器の組み合わせを変えながら、繰り返し演奏され、そしてそれがクレッシェンドしていく。それにあわせて文成のダンスも力強く、情熱的になっていく。文成から発せられる匂いが陶酔的な刺激を強めていった。女生徒たちは陶酔感に溺れまいと必死に文成の舞を見つめていた。
文成は舞いながら、かつて自分がコールタールのようにドス黒い暗黒に墜ちていた事、暗黒を振り払う為に“虐殺の刃”を振るったこと、そしてそれが、“堕天使”になることに繋がっていったことを脳裏に思い浮かべていた。
平井文成は愛知県春日井市に生まれた。生まれた時はまだ日本で、いわゆる“バブル景気”が続いていたようだ。もっとも、あっけなく崩壊するとはほとんどの人間が思っていなかったようだが。誕生日は文成が敬愛してやまない、リッチー・ブラックモアと同じ誕生日である。父、和弘はごく普通のサラリーマン、母、倫子(ともこ)は専業主婦だった。知り合ったきっかけは、奈良県にある大学に通っていた和弘が何かの偶然で高校三年生だった倫子と知り合ったと、文成は聞かされていた。さらに偶然なのは、和弘が通っていた大学の付属高校に倫子は通っていたのである。互いに一目惚れした彼らは、その後何度も逢瀬を重ね、出逢って3ヶ月足らずで男女の交わりを結ぶようになった。和弘はすぐさま結婚を申し込み、倫子もそれに応じた。しかし、倫子の両親がそれを許さなかったので、ある日の深夜、二人は駆け落ちした、と言うより、和弘が拉致同然で倫子を連れ出した。そして、約2年の逃避行の末、愛知県春日井市に逃れたと言う事らしい。この二人は周囲がうらやましがるほど、容貌が美しかった。そしてお互いを非常に愛していた。
父の和弘は文成が生まれたとき、まだ23歳になっていなかったが、昨今の青年に見られるような幼さがまったく無く、包容力の大きい、立派な大人だった。陽気な性格で誰からも好かれていた。ただ、その顔貌のせいか、どこか異邦人の雰囲気を醸し出していた。文成はそんな父の背中を大きく感じ、そして憧れていた。
母の倫子は20歳を迎えていなかったが、なぜこの世界にこんな女性が、と思われるほどの美女だった。ショートボブの髪型が彼女の神秘性を際立たせていた。だが近寄りがたい雰囲気は無く、誰とでも仲良くなれる特性で、いつも人が寄り集まっていた。
文成はいつもこの優しい母に甘えていた。物をねだるようなことはあまりしなかったが、何かにつけて母に付いていた。なかなか乳離れせず、離れてからも母の乳房を触ったり、吸い付いていたりしていた。そんな文成を母は叱るものの、疎ましく思う事は決してなく、優しく包み込んでいた。
文成の貌の美しさは生まれつきであったが、今も多くの人間から羨望と嫉妬を呼び起こす黒瞳は、幼い頃は周囲から「穢れなき天使の瞳」と言われて可愛がられていた。そして、のちに数多くの女性を蕩けさせる文成の、女のように馨しい躯の匂いはこの頃から発散されていた。しかし、当時は良い匂いのする赤ん坊としか思われず、まさか文成しか発しない特異なものとは誰一人として認識していなかった。
文成の幼馴染、草薙遥は文成が生まれてほぼ3ヵ月後に生まれた。遥の父、雪彦は和弘と同い年で、しかも小学校以来の友人だった。音楽家としての才能にずば抜けてすぐれていた雪彦は高校卒業後、単身ウィーンへ留学。ウィーン・コンセルヴァトワールで自分の資質を磨いていた。このときに出逢ったのが、のちに遥の母になる、奈穂美である。奈穂美は雪彦と同い年で、ウィーン・バレエアカデミーに在籍していたバレリーナだった。遥がバレリーナになったのはこの母の影響である。
雪彦と奈穂美は、逃避行を続けていた和弘と倫子を陰から支援していた。そして、この二人が春日井市に逃れたと知ってすぐに帰国、この二人の隣に住んだのである。戦友的友情を持った両家は互いに子供が生まれたら、その子供同士を結婚させようと約束したのである。だから、生まれた時から文成は遥と顔を合わせているので、自然と遥と過ごすようになっていた。
そこに変化が訪れたのは、文成が生まれた2年後である。妹、久美子が生まれたのだ。生まれた時から愛くるしい貌をしたこの妹を文成は可愛がった、いや、溺愛した。久美子が生まれてまだ1歳にもなっていないのに、3歳の文成は両親に対して無邪気に、
「ぼく、おおきくなったら、くみこをおよめさんにするんだ」
と言って、両親を苦笑させていた。そんな時、母の倫子は、
「それじゃぁ、おにいちゃんは久美子のおむこさんになれるよう、りっぱな人にならないと」
と、冗談のつもりで文成に微笑んで言った。だが、文成はこの言葉を真に受けてしまった。この時から、文成の久美子に対する愛情は尋常ならざるものとなった。何をするにおいても、久美子の傍を片時も離れなくなった。遊ぶ時はもちろん、入浴、そして、寝るときも同じ布団に入ってくっついて眠っていたのである。まさに四六時中、この兄妹は一緒だった。妹の久美子も兄と一緒にいることが当然と思うようになり、自分を可愛がる兄を心から好いていた。しかし、見ようによってはやや異常ともいえるこの兄妹の仲の良さを複雑な思いで見るものもいた。他ならぬ遥である。
文成が4歳の時に、遥に誘われてクラシックバレエを習い始めたのは前述したとおりだが、2年後、久美子もクラシックバレエを習い始めたのである。当然、文成と遥が通っているバレエ教室である。久美子にしてみれば、兄に憧れて自分も習いたいと思っただけなのだろう。あるいは兄といつも一緒にいたいだけなのかもしれなかった。
だが、遥は久美子以上に文成と一緒にいることが当然だと思っている。いくら血の繋がった兄妹とは言え、私より後から生まれて、どうして文成を自分のものにしてしまうの、という思いが心の片隅にあった。その思いが、文成と久美子が寄り添っているのを見るたびに表に出てきて、複雑な気持ちになった。久美子が嫌いなわけではない。むしろ、好きだ。でも、文成を独り占めしないで、と言いたくなる事が少なからずあったのだ。姉として振舞おうと思ったりもしたが、文成は遥にあまり振り向かなくなった。それだけ久美子に夢中になっていたのだ。
文成はしかし、遥のそんな複雑な心に気づかなかった。文成にしてみれば、遥は可愛らしいお友達なのである。そういう意味で、遥を好いてはいる。が、あくまで、「およめさん」にするのは久美子なのだ。久美子のために自分は立派な人間になろうと思ったのであり、遥のためではない。まだ何もわかっていない、幼い感情ではあるのだが、この頃の文成は幼いなりに真剣だった。幼さゆえの真剣さかもしれなかった。それが遥ではなく、妹に注がれた事がややこしくなってしまっているのである。これは高校生になった今でも、文成と遥の間に微妙なずれが生じているのである。
とは言え、文成は幸せな家庭の中で育っていった。自分が享受している幸せは永遠に続くものだと信じて、疑う事がなかった。
しかし、その幸せは思いがけない終焉を迎えた。
第8話へ続く
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