堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜

第6話 一夜明けて


 翌日、大会二日目の早朝、A.M.5:00。東の空の闇が徐々に薄くなってきた。夜闇を払う光の円環が現れる前のこの時間の空の色は、なにやら狂気に彩られたかのような蒼さである。それも心が冷え切っているかのような、醒めた狂気を感じさせた。文成はいつもこの時間に起きて、曙が浮かび上がっていない、〈蒼く醒めた狂気〉に彩られた東の空を眺めるのが日課だった。というよりは、A.M.5:00になると、自然と目が覚めてしまうのである。中学二年の秋からそうなってしまった。〈蒼く醒めた狂気〉に彩られた東の空を眺めては、己の内に秘めた狂気を目覚めさせ、悦に入っていた。残虐な笑みがさりげなく貌に浮かぶ。
「なんじゃ、もう起きとったのか、文成」
 聞き慣れた声が背後から掛かった。文成は振り向かずに背中を向けたまま答えようかと思ったが、相手が相手だけにそうもいかず、ゆっくりとわざとらしく振り向いた。
「おはようございます、監督」
 残虐な笑みをすばやく消して、頭を下げて挨拶した。
「おはよう。今日はデートでもあるのか?」
 老監督がそう言ってからかうと、文成は少し困った顔をしながらも、
「う〜ん。デートと言われると、確かにデートかも。相手は草薙遥だし」
 と、なんら悪びれる事無く言った。
「ほおぉ、草薙君か。確か文成、おまえのフィアンセじゃないのか?」
「なに言ってるんですか? 婚約を交わした覚えなんてありませんよ。向こうが勝手に思い込んでいるだけで、オレは何も約束していませんよ」
 文成はやや激したか、バカな事を言わないでくれと言わんばかりに否定した。
「しかし草薙君が言うには、双方の両親が決めていたそうじゃな。両親が認めているのなら、間違いないのじゃろう?」
「オレはその話、全然知らなくてね。遥に、いつ決まった話なんだと訊いたら、オレたちが生まれる前から両親が決めていたそうです。生まれた子供を結婚させようと取り決めてたそうですよ。もっとも、オレにはその当事者である自分の両親がもういないから、無効だと思うんですけどね」
 少し気分が暗くなったか、文成は声を落として語った。
「そうか……。ただ、これも草薙君が言っとったんじゃがのう。たとえ、おまえに両親がいなくても関係ない、平井君は私の婚約者だと言っている。両親も認めておるそうじゃぞ」
「知りませんよ。いずれにしろ、今のオレは結婚なんかまったく考えたくない。将来ということを考えるのすら、面倒くさいから」
 吹っ切るように文成は言い放つ。
「将来を考えるのは、まだ後でもええわい。で、どこへ行くんじゃ?」
「バレエ教室だそうです。近くにあるそうなんで、ひさびさに見せてと、誘われました」
「そういえば、もともとバレエをやっていたと言うとったなぁ。ひさびさと言うからには随分やってないのか?」
「最後にやっていたのは……、いつだったかな? はっきり言えるのは、家族が死んでからはまったくやっていない。骨も腑も抜けたから、あの時からしばらく」
 さっぱりと言おうとしても、声音に哀しさが残っていた。
「ふむ…………、で、何時から予定が入っておるのじゃ?」
 老監督がようやく話を区切るように言うと、文成もあっさりした声で答えた。
「9時までには来るようにって、言ってました。午前中で無いとダメだって先方が言ったらしくて」
「そうか、わかった、許可しよう。どうせ今日は練習を休みにするつもりじゃから、ひさびさに羽根を伸ばしなさい」
 老監督は例によって奇妙な理解を示して、文成がバレエ教室に行くことを許した。
「監督、ほんとにいいんですか?」
 文成は少しわだかまりを残しているような表情で監督に尋ねた。
「構わんよ、文成。朝からおまえと渡辺たちがいざこざを起こすより、よっぽど有意義じゃわい。あぁ、それから文成、今日からおまえは食事もここで摂れ。部員たちには独房に入れて反省させるといっておくから」
 言ってからニヤリと笑った老監督はどうやら文成が他の部員たちと衝突するのをどうあっても防ぐつもりのようだ。
「タヌキ」
 文成が老監督に向かって微笑みながら皮肉ると、
「ははは、外でトラブルを起こすんじゃないぞ」
 と言って笑いながら、部屋を出て行った。円環はすっかり昇り、夜闇を薙ぎ払っていった。

 独房……と言っても監督が寝泊りしている部屋のことだが、そこでひとり水を600ml飲み終えた文成は手早く準備して、宿舎を出ようとした。時間はA.M.7:35、充分余裕がある。玄関を出るちょうどその時、後方から文成を呼びとめる声が上がった。
「平井、朝からどこへ行くつもりなんだよ?」
 振り返ると、ロビーで中村康一が半袖のカッターシャツと黒のスラックスの格好で歩み寄ってきた。早い話が制服姿だ。
 中村康一は身長170cm、体重62kgと文成と大して変わらない体格をしているが、骨太なせいか文成よりもやや体格が大きく見える。頭を丸坊主にして、愚直なほど熱心に練習に取り組んでいるので、文成はたまに中村を、
「おまえはどこぞの寺で修行している小僧みたいだなぁ……」
 と、冷やかしては笑っていた。
 目は大きめだが、いわゆるどんぐり眼ではなく鋭くつり上がっているので、向こうっ気が強いように思われているが、文成と部員全体がいざこざを起こしているのを震えて見ているだけだった事でもわかるように、案外臆病である。
 文成と同じ外野の控えということで登録されているが、文成が右投げ右打ちであるのに対し、中村は左投げ左打ちである。一応レフトを希望しているらしい……。
「なんだ、康一か。見ればわかるだろ、散歩だ」
 しらばっくれる文成だが、康一は容赦なく突っ込んできた。
「散歩に行くのにカバンに荷物詰め込んでいく必要があるのか? 一体どこに行くつもりなんだ」
 だが、文成は平気な顔をして康一を寄せ付けようとしない。
「別に君に関係があるわけじゃないし、誰にも迷惑をかけるわけでもない。知りたかったら、監督に訊いたらいいだろう」
「そんなもん監督に訊きづらいだろう。それに今、おまえに訊いた方が早いじゃないか」
「気の弱い男だなぁ……、監督ほど何でもよく聞いて物分りのいい人間いないぞ。困った事があったら、なんでも監督に相談するといい。じゃ、オレは急ぐので」
「おい、待てよ、平井!」
 文成がほとんど自分にかまわず出て行こうとしたので、中村はあわててあとを追いかけようとして自分の靴を探したが、なぜか見つからない。
「くそっ、この肝腎な時に靴が見つからないなんて!」
 ひとり毒づく中村に対して、
「肝腎と言うほどのもんか? 大袈裟な……。靴と言えば、オレのカバンの中に知らない奴の靴が入ってるんだが……」
 と、文成がカバンの中から一足の靴を取り出して見せると、紛れもなく中村が普段履いている白のスニーカーである。
「あ、俺の靴。平井、てめぇ! はじめっから知ってって仕組んでたんだなぁ!」
「何が? 今日は休みだからね。休みなのに外に出られないかわいそうな奴が一人いたら面白いと思ったら、君の貌が浮かんだよ。しかし、こんなに朝早くから君に見つかるとは思わなかったね。少し興味深いね」
「何が、少し興味深いだ! 返せ!」
 激高する中村を意に介することなく文成は笑いながら外へ出て行く。
「返して欲しけりゃ、力づくで取り返せ!」
 そう言って、脱兎のごとく抜け出した。
「待てぇ!」
 靴下履きであるにも構わず中村は玄関から外へと飛び出していった。が、外へ出た途端すぐに立ち止まった。目の前に文成の背中があったのだが、同時にその向こうに黒山の人だかりを見つけたからだ。その異様な光景に中村は腰砕けになってしまった。
「平井、何だよ、この黒山の人だかりは?」
 中村がそう問いかけると、
「うーん。形勢逆転、一気に君が有利になったねぇ。ま、靴返すわ」
 ひそひそと小声で文成は中村に答えて、靴をあっさりと返した。中村は靴を履くとさらに問い詰めてきた。
「だから、この黒山の人だかりは何だ、と訊いてるんだ、俺は」
「見ればわかるだろ、大手の新聞、TVその他マスコミの皆々様だよ。残念ながらその中に、オレが愛読しているドイツの“ZEIT(ツァイト)”の記者はいないがね」
「なんか……、今にも飛び掛って来そうだなぁ。ハイエナとはよく言ったもんだぜ」
 中村は文成のギャグがわからなかったのか、それともわかっていて流したのか、文成のギャグに反応せずにつぶやいた。
「オレには蝿としか思えんね。まさに雲霞の如く、って奴だ。パパラッチの意味がよくわかる」
 文成は中村が自分のギャグに反応しなかったのをあまり気にもせず、自分の感想を述べた。
「おい、どうすんだよ、文成……?」
「どうするも何も無いだろ、もう来てるんだから」
 不安におびえる中村を尻目に文成は悠揚迫らぬ足取りでマスコミに向かっていく。普段から傲慢に振舞う文成だが、中村にとって、このときの文成の傲慢さは勇敢さに見えた。大勢のマスコミに囲まれても臆することなく堂々と立ち向かう勇気は、自分には無い。
(やっぱり平井はすごいなぁ……。どんなときでも堂々としている。野球部に入ってきた時から思ったけど、妙に大胆なんだよなぁ。あの傲慢さも実力に裏打ちされているからなんだ……)
 中村がそんなことを考えていると、文成に向かってマスコミの連中が、文成が言うようにまさに蝿の如く集(たか)って来た。まるで職務として当然の行為と言わんばかりに無思慮、無遠慮にフラッシュを浴びせ続ける。さすがの文成も顔をしかめて辟易している。
「君、弘成高校の野球部員だよね。平井ブンセイ君のことについて訊きたいんだけど」
 いかにもバカそうな男性TVリポーターが目的の選手の名前を間違えて尋ねてきた。調査不足もいいところだ。
「あなた、バカじゃないの? 平井ブンセイではなくて、ふみしげですよ。失礼ですよねぇ。ところであなた、平井ふみしげ君は今、何をしていらっしゃるのでしょうか?」
 今度は別のTV局の女性リポーターが他局のリポーターの間違いを指摘してから、質問してきた。しかし、文成の貌を全然知らないようだ。
 うんざりした文成ではあったが、ここで貌を上げて、きりっとした表情を作り、たかるマスコミに向かって言い放った。
「私が、平井文成だ。文で成ると書いて、ふみしげと読むんだ。中国南北朝時代の北魏の文成帝から取ったそうだが、そんなことはどうでも良いか。とにかく、私に質問したい事があるんだったら、人の名前と貌くらいはしっかりと覚えておくように」
 文成が言い終えると、あれほど騒いでいたマスコミ連中がしーんと静まり返った。まさか目の前にいる華奢でおとなしそうで、美少女のような貌をした少年が昨日、甲子園で代打逆転サヨナラ場外ホームランを打った平井文成だとは思わなかったからだ。
 呆然とするマスコミに構わず、文成は左足を少し開き、左手を腰に当ててポーズをとり、軽蔑するような眼で続けて言った。
「あんたたち、私に質問したいそうだが、何を質問したいか大体見当がついてる。が、敢えて訊こう。一体、私に質問とは何だ?」
 一人称は私、になっているが、傲慢な言い方は変えていない。昨日のインタヴューの時と同じように人を食った態度で文成が喋るものだから、夏の暑さにかかわらず、宿舎の前は凍てついた空気が流れ始めた。
「あ、あの……」
 どこからか女性の声が上がったのを聞いた文成はすかさずその女性に声を掛けた。
「はい、あなた。今、あの、と言ったあなた。私の前に来るように。さぁ、急いで急いで」
 文成に声を掛けられて現れたのは女性記者だった。淡い紺色のスーツに身を固めているが、似合わないなと文成は思った。紅いスーツを着たほうが似合いそうなんだが……。薄化粧はいいのだが、髪型がいわゆる、お河童である。気弱ではないのだろうけど、顔貌(かおかたち)の雰囲気が鋭角的なのではなく、丸みを帯びて柔らかいのである。暖かみがあるといえばそうなんだろうが、それだけに紺色のスーツは合わないと文成は思うのである。ま、平均以上の美人だから構わないのだけど。
「はい、まず君の名前は?」
 女性記者が目の前にやってくると、文成はいきなり名前を訊いてきた。女性記者はもちろん、他のマスコミ連中も文成が質問してくるとは思わなかったから、唖然とした表情をした。
「君、われわれが君に質問したいんだ。君が質問する事は無い」
 どこかの大新聞のスポーツ部記者らしき大柄な男が文成に文句を言ったが、それで怯むような文成ではない。それどころか、大柄な記者に向かって逆に厳しく言い放った。
「今は私が質問する番だ。君が、質問をする番ではない!」
 君が、を強調して文成が大柄な記者の勢いを封じた。同時にこの場を制することにもなった。今、この場の主導権を握っているのは文成であった。
「さて、君。君の名前は何というんだい?」
 文成は女性記者にほとんど密着するように近寄ると、改めて名前を訊いた。
「は、はい。石沢ゆかりです。『イブニングス』の記者です」
 石沢ゆかりと名乗った女性記者は臆せず、詰まることなく名乗りあげた。
「夕刊紙?」
「はい」
「そう、で、年齢は?」
 文成はさらに質問を続けた。あくまで自分のペースで引っ張るつもりらしい。
「25歳です」
 動揺することなくゆかりは答える。
「ふぅん、9歳年上。それで、身長体重、スリーサイズは? 正確に答えなさい」
「159cm、52kg。B84,W57,H83です」
「なに、52kg!? 体力無さそうだなぁ、まだ3kgぐらい体重が要るぞ。こう言う仕事は体力勝負だろう。力負けするんじゃないのかぁ?」
「肺活量は3200ccです。ちなみに背筋力は105kgあります」
「ふぅん、力負けはしない、と言いたいわけだ。じゃ、次、好きな男性のタイプは?」
「あなたが私の質問に答えてくれたら、その質問に答えましょう」
 いともあっさりとゆかりは文成の質問をかわした。これには文成も苦笑いした。
「おい、平井。いったい、さっきから何言ってるんだよ?」
 文成の左斜め後方から声がしたので振り返ると、いつの間にか中村がすぐそばに来ていた。
「あぁ、中村君か。皆さん紹介しよう。こちらは中村康一といって私と同じ一年生だが、控えながらもベンチ入りしている選手だ。私を最も理解している親友でもあるんだ」
 珍しく文成が慇懃丁寧に中村を紹介した。中村は緊張しながらもマスコミ連中に対して挨拶した。
「それで、『イブニングス』の石沢さんといったかな。私に対してどういった質問を?」
 文成がゆかりに対して質問を促すと、ゆかりは文成が予想していた質問をぶつけてきた。
「はい、それでは質問します。昨日の試合のあとのヒーロー・インタヴューで、私が思うにはかなり傲慢な発言をしましたが、一体あなたはどのような意図を持ってあのような発言をしたのでしょうか? お聞かせください」
 ゆかりは丁寧ながらもストレートに文成の昨日の発言について突っ込んできた。それに対して文成はニヤッと笑いながら、
「あれはシナリオどおりに言っただけだ」
 と、訳のわからないコメントを返した。たちまち、その場にいた全員がざわめきだした。こいつバカか? という声まで聞こえてきた。
「中村君、君が答えなさい。君が一番よくわかっているから」
 いきなり文成は中村にコメントするよう差し向けてきた。急に話を持ってこられた中村は訳がわからず、目をぱちくりさせている。
「何言ってんだよ、平井。君が答えればいいじゃないか、君があの時いったんだから」
「君こそ何を言っているんだ? あのインタヴューは君がシナリオを書いてこのように喋りなさいと言うから、私はその通りに喋ったのじゃないか。どういう意図なのか私は知らない。君が説明してくれ」
「平井君、一体シナリオどおりとは、どういうことなんですか?」
 ゆかりがたまらず尋ねると、文成はさっと向き直り、
「皆さん、あの発言について知りたければ、この中村君に訊くように。彼は私を本当に理解している代弁者だ。すべては彼に訊けばよくわかる。では、中村君、後をよろしく頼む。私は急用があるので、道をあけてもらいたい」
 と言って、さっさと逃げ出した。どうやらマスコミを中村に押し付けて、かわすつもりだったようだ。マスコミはなぜかもう文成に見向きもせず、中村に向かって集中砲火を浴びせ始めた。中村はしばらく状況を飲み込めず唖然としていたが、すべて文成の陰謀と気づいた途端、
「ひ、平井の奴、謀りやがったなぁー! 卑怯者ぉー! おまえを頼もしいと思った俺がバカだったぁ〜!!」
 と、絶叫を上げて悔しがった。が、時すでに遅し。このあと中村は騒ぎを聞きつけた森田老監督と弘成高のナインに救い出されるまでしばらく集中砲火を浴びる羽目になった。
 一方、文成に質問した石沢ゆかりはマスコミが中村に向かって質問攻めするのとは対照的に少しの間、文成が言った言葉の意味を考えていたが、文成が自分たちを撒いたとわかった瞬間、悔しさの為、頭に血が上った。
「しまった、はめられたわ! あの子、よくも誑かしてくれたわね!」
 ゆかりは血相を変えて文成が逃げたと思しき方向へ向かって走っていった。後ろから『イブニングス』のカメラマンである国友が追いかけてきた。
「ゆかりちゃん、どこ行くんだよ。弘成高校を取材に来たんだろ?」
「あんな泡沫キャラ、どうでもいいわ! 平井文成よ、平井文成! 彼の話取れなきゃ、帰れないわよ!」
 登場したばかりの女性キャラに“泡沫キャラ”と言われた中村が随分かわいそうだが、それはともかく、ゆかりとカメラマンが文成を探して走っていくと、広い通りでタクシーに乗り込もうとしていた文成を発見した。
「あ、こらあ、待ちなさい、平井文成!」
 ゆかりが文成に向かって叫ぶと、文成は振り向いてゆかりたちに向かって手を振って微笑んだ。そして、ゆかりたちがやってくるのに構わず、タクシーに乗り込んだ。
「待て、平井文成! ちゃんと質問に答えなさい、逃がさないわよ!」
 なおも追いすがるゆかりに対して、文成は車中から不敵な笑顔を浮かべて傲慢に言い放った。
「石沢ゆかり君、いつかオレが君を必要とするときが来るだろう。その時が来るまで楽しみに待っているように。では、十年後に逢おう」
 相手が年上である事にも構うことなく、また訳のわからないことを言って笑いながら文成はタクシー・ドライヴァーに出発を促した。タクシーが去っていくのを眺めながら、ゆかりはひとりつぶやいた。
「……平井文成、必ず君の傲慢な鼻を明かしてやるわ。その時まで覚悟していなさい」
 この時この瞬間、未来図が変わった事に文成もゆかりも気づいていない。文成はどのような形にしろ、いずれゆかりを必要とするつもりでいたのだろうが、自分の予想以上に深く濃く関わることになるとは欠片にも思っていない。そして、ゆかりも平井文成が自分の人生に想像以上に深く濃く交わるとも思っていないし、そして文成の“闇の貌”に触れることも、そして自分も文成と同じ存在になることさえも、夢にも思っていない。
 だがその話はまたの機会に回そう。

 タクシーが目的のバレエ教室に到着すると、文成は20代と思しき男性ドライヴァーに2万円を渡した。
「こんなに戴いては……」
 ためらうドライヴァーに文成はなんの屈託も無く、
「いいんだ。タクシーの中にいる間、心地良い気分になったからね。その分のお礼も入っている。私の気持ちとして受け取ってくれないか?」
 と笑って言った。
「どうもありがとうございます」
 若いタクシー・ドライヴァーは感激して2万円を受け取った。
 タクシーが走り去ったあと、文成がバレエ教室に足を向けると、玄関の前で一人の少女が立っているのが見えた。玄関にもたれて腕を組み、微笑んでいる。鳩尾の裏の部分にまで伸ばしているロングヘアが美しくキラキラと輝いている。文成同様にスレンダーで、妖精的魅力を有している。
「遅かったじゃないの、ダーリン」
 妖精的な少女が文成に声を掛けた。二重瞼がかわいらしいその少女に文成は少し苦笑いしながら答えた。
「そうかな、まだ15分前だけど、遥」
 文成に遥と呼ばれたその少女こそ、文成の幼馴染であり、文成の婚約者だと言い張っている草薙遥である。文成の両親と遥の両親は二人が生まれる前から仲が良く、いずれは自分たちの子供同士が異性なら結婚させようとしていたのは、文成が語っていた通りである。遥も子供の頃からそれがわかっていたのか、4歳の頃、先に始めていたクラシックバレエに文成を誘い込んだりして、文成と接近していた。その後、小、中学校とも同じ学校に通い、文成が弘成高校に入学することが決まると、ミュンヘン州立バレエアカデミーに留学する事が早い段階で決まっていたにも関わらずそれを取り消し、文成と同じ高校に入学したのである。
 クラスも文成と同じになったのだが、クラス最初の自己紹介の場で遥はなんと、
「私は平井文成の婚約者(フィアンセ)です」
 と言ってのけ、クラス全体を唖然とさせたのである。入学式の時は遥の方が有名人で文成は物静かでおとなしい美少年としか見られなかったが、遥のこの発言で文成は一気に校内指折りの有名人になってしまった。
 エピソードはこの程度にして、遥は文成が自分の傍まで近づくと、両手で文成の右腕を捕まえて絡め合わせ、べたべたと擦り寄ってきた。
「あのなぁ、遥。そうやってべたべた擦り寄るのはやめてくれないか。ネコじゃあるまいし」
 ややウンザリ気味に文成が文句を言ったが、遥はまったく応えていないと言わんばかりに無邪気に笑いながら言った。
「あら、いいじゃない。婚約者なんだし、私はあなたのプッシーキャットなんだから」
「プッシーキャット言うなぁ! 人が聞いたら誤解されるぞ!」
「そんな大声で言わないでよ、私の方が恥ずかしいわよ」
 そんなことを言いながらも二人は目的のバレエ教室へ入っていった。



第7話へ続く



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