
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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水曜日の午前5時、文成は目を覚まして気だるげに躯を起こし、両腕を天井に突き上げて背を反らした。昨日に続いて今日も5時に目が覚めてしまった。今まで7時に起きていた文成にしてみれば随分と早起きになった。なぜそうなってしまったのか、理由はまったくわからないが、ひとつ言えることは何者かが自分をそうさせていると言う事だった。あの時目覚めた狂気の獣が夜明け前に目を覚まさせているのだろうか。そんなことを考えながら、文成は昨日と同じように、南に向いている窓のカーテンを開け、さらに窓を開けた。窓から顔を出すと、東側がやや白んでいるのが見えたが、全体的にはまだ暗い。ただその暗さは漆黒の闇の暗さではなく、まるで青色に灰色を混ぜたような色だった。そこにあるのは虚無と言いたくなるような醒めた色の風景だった。太陽が沈む頃に悪魔が現れ始め、太陽が昇る頃に神が現れると言う人がいるが、文成は蒼く醒めた風景を見ながら別のことを考えていた。太陽が昇るほんの少し前に現れる奴がいて、この虚無に彩られた世界に狂気の種を蒔いているのではないのだろうか。そしてその種は太陽が昇る事によって芽吹き、育っていっているのではないのだろうか。確固たる根拠はどこにも無い。ただ、そんな風に感じただけである。
文成はまだ曙が出ていない空を眺めながら、自分の裡にある獣性を活性化させていった。一体この殺戮を好む獣は生まれた時から自分の中にあったのだろうか。あの時初めて生まれたのだろうか。まさか父も自分と同じようにこの獣を抱えていたのだろうか……。思惟が止め処なく脳裏を駆け巡った。
文成は初めて人間を虐殺したあの夜の翌、月曜日以降も引き続き学校に行っていない。証拠隠滅作業とニュースのチェック、そして、次に誰をどこで、どうやって嬲り殺すかを考え続けていた。折れた金属バットと空の灯油缶は月曜日の夜に、春日井市の隣の小牧市の大山にある稚児神社付近で深く埋めた。盗んだバイクは途中で捨てた。いつまでも抱えていてはそのうち足が付く。
喜田嶋から奪った現金20万円はいろいろと使い道があるが、カードはさすがに使えない。使った瞬間、すぐに警察が自分を捕まえる可能性が高まるからだ。それは避けなければならないから、処分せざるを得ない。
喜田嶋に関するニュースは新聞とラジオ(文成のアパートにTVは無い)を見たり聞いたりした限りでは、一切報じられていなかった。だからと言って、安心はできない。家族が捜索願を届けてそれで警察が内偵捜査をしている可能性もあるから、下手に動くと警察の網に引っかかる恐れもある。だが、わざわざ喜田嶋の家族に訊くわけにもいかないし、そんなことをしたくも無い。学校に行けば、それとなくわかるかもしれないが、今、学校に行くと、自分の狂気に染まった貌を何かの拍子で見られる可能性もある。それはまだ避けなければならない。少なくとも山村たちにはまず見せられない。奴らに見せる時は殺す時だ。それまでもう少し様子を見なければならない。
そして次に殺す人間はもう決めていた。やり方は最初と同じく、金属バットで叩きまくってミンチペーストのようにして、焼き尽くす。基本パターンはそれでいい。問題は場所だ。また植物園と言うわけにはいかないから、どこか適当なところを探さなければならない。
文成は地図を眺め、それから実際に下見しながら調べあげたうえで、場所を決めた。文成の口の両端が吊り上り、残虐性の強い笑みを作り上げた。まるで獣の顎が開くかのようだ。そんな表情が自然と出るようになってきたところからして、今の文成は獣と化している。電話を取って次の獲物に連絡した。今度は1000万円の話は出さなかったが、内容はほとんど一緒だった。違ったのは待ち合わせ場所。今度の獲物の墓場は、内津(うつつ)峠だった。
「や、やめてくれー! ゆ、ゆる……、許してくれー!!」
夜闇の中、鬱蒼とした森の中で、恐怖にまみれきった叫び声が響いた。言っている言葉からして、何者かに危害を加えられているようだ。しかし、単なるリンチとは思えない危機感がはっきりと声にでている。まるで殺されかかっているみたいだ。
「た、たのむ! 平井、許してくれ……、殺さないでくれー!!」
「じゃかましぃ、このクソボケ!! オレがおまえらにズタボロにされまくってそのまま自殺するとでも思ったか!! 助けてくれと言われて、はい、そうですかと、おとなしく引き下がると思ったか、クソガキ!!」
文成はえげつない言葉で罵って相手を金属バットで散々殴りつけていた。頭から腕、腰、そして脚と容赦無く打ちつけていた。全身が怒りの炎のように燃え盛っていて、ただ死に追いやるだけでは飽きたらず、存在の痕跡さえも消してしまう勢いだった。最初に人殺しをしたときと同じように。
文成が次に選んだ獲物は、学校で貌を合わせるたびに必ず貌を殴っていた滝田と言う同級生だった。やや垂れ下がった目が死んだ魚のそれみたいなこの男は、今は恐怖で表情が歪みきり、躯を丸めて文成の憎悪に満ちた打撃を受けていた。間断無く打ち込まれて段々と打撃に耐えられなくなったのか、丸まっていた躯が緩んできた。
一旦文成は手を緩めた。そしてわざわざ後頭部を爪先で蹴飛ばしてから、屈みこんで滝田の頭を引き起こした。
「おい、今まで虐めていた奴に虐められた感想を言ってみな。どんな気分だ……?」
暗く乾いた声が文成の口から出た。滝田の死魚のような目は、恐怖のあまり今にも飛び出しそうな気がしてきた。躯はマラリア患者のように震えきっている。
「………お、おまえ、こんなことしていいと思ってるのか? 人殺しがばれたら、死刑は間違いないぞ……」
滝田は震えながらも文成を脅しにかかった。その言葉には、文成が本気で殺すつもりはないと、高を括っている様子がありありと出ていた。
しかし、滝田はまったく知らないが、文成はすでに人間をひとり殺している。だから、文成が滝田のそんな姑息な脅しで揺らぐわけが無い。ニヤリと笑った文成は冷笑するように滝田に言った。
「たかが人間を1人や2人、いや、1億人殺したところでたいした事はねぇよ。1億人殺しても、まだ60億以上も人間がいるんだ。それを考えたら、おまえらが死んだところで、どうと言う事はねぇんだよ、このクズ!」
このクズ、の部分を吐き捨てるように言った文成は再び立ち上がって、滝田の右脇腹を蹴った。滝田の貌が苦悶と絶望で歪む。
文成ははっきりと言い放った。1億人殺したところでたいした事ではないと。さらに、まだ60億以上も人間がいるとまで言った。言い換えれば、人間の価値をまったく認めていない証明だ。そうでなければ、1億人殺したところで、などと言えるわけが無い。もっと言えば、文成は、その存在を許せないと思う人間が1億人いれば、本気でそいつらを皆殺しにするつもりでいるのだ。人類すべてが敵ならば、人類を絶滅に追い込む。そこまで考えが飛んだ瞬間、滝田は恐怖で凍りついた。全身から汗という汗がとめどなく流れ、股間からは失禁によって湯気が上がっている。
「まぁだ、オムツが取れないのか、小便小僧」
文成はこの時とばかりに強烈な嘲罵を浴びせた。また滝田の躯が震え始めた。それを見た文成の心に嗜虐的快感が広がった。仕返しを受けた人間が恐怖に震える姿を見るのが面白くて仕方なくなっていた。
だが、滝田が震えたのは恐怖だけではなかった。嘲罵を浴びせられた事によって怒りが生じた。
(なんでこんなやつに、ここまで言われるんだ……。こんな甘っちょろいガキに)
こみ上げた怒りが滝田に力を取り戻させた。さんざん金属バットで殴られて躯の自由が利かなかったはずだが、怒りのエネルギーで痛みも何もかも消し飛んだのだろう。それでもよろめきそうだが、どうにか立ち上がった。
「なんだ、まだ立てるのか。やっぱり、両膝を叩き折ってからにしないといけないな」
文成は再び金属バットを握り締め、わざとらしく軽い失望の声を出した。本気で憮然とした表情をしてはいない。それが滝田の怒りに火を注いだ。
「おまえなんかに……、おまえなんかにやられてたまるか!」
まるで自暴自棄になった子供のように滝田が反撃にかかった。右拳で文成の貌を殴ろうとする。右拳の一部がまるで反射するように一瞬光った。
対して文成はこのとき奇妙な冷静さで滝田の反撃をかわすどころか、逆に踏み込んで、バットの先端で滝田の鳩尾部分を気合とともに突きこんだ。鳩尾を突かれた滝田はそのまま悶絶状態になって後方にひっくり返った。
そのとき、滝田の右拳が開き、中から何かが落ちた。落ちた瞬間、微妙に重みのある音がした。文成はそれを拾い上げて、確かめてみた。金属の棒のようなものが二本、留め金らしきもので固定され、閉じた格好になっている。色はシルバーだろうか、暗くてあまり判らない。
これを見て文成はまさか、と思った。慎重に棒のような部分を開いてみると、中からナイフの刃のようなものが飛び出した。いや、これはナイフの刃だった。
(これがバタフライナイフという奴か。バタフライというほどきれいじゃないな)
文成はそう思いながらもニヤリと笑い、滝田の傍によっていって、滝田の髪の毛を乱暴に引っ掴み、バタフライナイフの刃を滝田の鼻に当てた。
「おい、これはなんだよ? なんでこんなもん、持ってるんだ?」
感情を殺すようにひどく冷めた声で文成は言った。だが滝田は小刻みに震えるだけで何一つしゃべらない。
文成はナイフをもった右手を軽くスナップした。あっという間に滝田の鼻が削ぎ飛んだ。
「ぃぎゃーっ!!」
再び、滝田は喚き散らした。普通の人間が聞いたら聞くに堪えない、気分が悪くなる声が、文成を裡から突き動かしている者にとっては心地良く感じられた。今度は削ぎ落とした鼻の痕にナイフを突き立てる。その様はまるで、阿鼻叫喚を搾り出すかのようだった。
「どうやら、もうまともに喋る事はできないみたいだなぁ……」
突然、嘆息するかのように文成がつぶやいた。そして、滝田の背後に回りこむと、ナイフを深々と刺しこみ、思いっきり引っ掻き回した。そうやって滝田の恐慌を搾りきるつもりだった。文成は見ていないが、これで滝田の貌の原型は完全に潰れた。
何十回転かナイフを回した後、文成はナイフを引き抜き、滝田の後頭部を持って引きずり、近くにあった樹の幹に叩きつけた。そして、またも金属バットで後頭部を執拗に打ち抜いた。頭部を完全に破壊しきった後、文成は死体と化した滝田の躯を乱雑に解体し、最初と同じく、穴に放り込んで焼却処分した。
左手首につけているデジタルウォッチがA.M.2:27と表示していた。まぁだ夜明けまで3時間くらいある。文成は内津峠を下りると、そのまま歩いて帰ることにした。往路は、またも盗んだ原付バイクで行ったのだが、今回は乗らずに捨ててきた。盗んだバイクを何度も使っていると、そのうち面が割れそうだ。
それはともかく、今の文成は誰もが貌を背けそうな残酷な微笑を浮かべて家路をたどっていた。
人間を殺すと言う事は、虫けらを殺すのとはまったく意味が違うようだ。虫けらを殺しても、なんの感興も起こらない。たまに、不快感が残る事もある。だが、人間を殺すと、自分はどんな事も必ずできる絶対的なものだと思い込んでしまう。自分より恐ろしく、強い奴なんていない、そこまで思い込んでしまう。強烈な勘違いだが、その勘違いが心を傲慢にして、不遜なものにする。もっと言えば、怖いもの知らずになる。だが、怖いもの知らずになっても、他者の脅威が無くなるわけではない。怖いもの知らずと無謀は紙一重である。
だが、勘違いと雖も、思い込みが激しすぎると、これがまた厄介な事になる。その思い込みの強さが力になることもあるのだ。今、人通りのない道を、顎を突き出し、胸を張って背を少し反らし、ズボンのポケットに親指だけ突っ込んで、貌に侮蔑的な微笑を浮かべながら、悠然と歩いている文成はその典型かもしれない。たった二人の、しかもガキしか殺していないのに、もう自分は何者も恐れる事はない、自分にできないことは何一つないといわんばかりに傲然と歩いている。傍若無人、と言った方が良いだろうか。ほんの1週間前まで涙を流して自分を憐れむ事しかできなかったことを思えば、あまりにも激しすぎる変容である。
そんな状態だから、自分が歩いている道の向こうからやくざ者らしい人間が肩で風切って歩いてきている事にも気づかなかったし、自分の左肘がそのやくざの左肘とぶつかっても、まったくわからなかった。
「おい、こら、ちょっと待て」
お約束と言おうか何と言おうか。やくざ者が文成の背に向けて、独特の口調で文成に呼びかけた。が、文成はまったく応えない、と言うよりか、聞こえていないかのように、悠然と去っていこうとする。
「ちょっと待たんか、こら! 人が呼んでるのを無視するんか、ワレ! それとも、ツンボか?」
威嚇するようにやくざが呼びかけるのを聞いた文成は立ち止まると、ゆっくりと首を後ろに回し、作ったかのような不機嫌な表情を見せた。そして不満そうに、
「あぁ〜あ?」
と、答えたが、それがやくざの神経をかなり逆撫でしたようだ。
「なんじゃ、最近のガキは口の利き方がなってないのぉ。ちょっとこっち来い」
異様にしわがれた声でやくざは文成を呼びつけたが、それに対して文成は振り返ると、また顎を突き出して、ゆっくりと首を傾けた。何を言ってるんだ、このバカは、とでも言いたげに、わざとらしくやってのけるものだから、それがやくざをさらに怒らせた。
「こら、大人が声掛けてんのに、その態度はなんじゃい? 素直に言う事聞かんかい!」
それを聞いて文成は吹き出しそうになったが、どうにか堪えた。息を吐き出し、やや間を置くと、ニヤリと笑いながら、
「お説教するんでしたら、もっと落ち着いたところでお願いできませんか? そこの公園でも」
と、気味悪いほど丁寧な口調で言った。ただ、言っている事はかなり挑発的である。言われたやくざもそうとしか受け取らなかった。
「ちと、世間というもんを、懇々と教えてやらな、あかんのぉ。骨の髄まで教えてやるから、こっちに来い」
そう言ってやくざはもう一度、文成を呼びつけたが、文成は立ち止まったまま動こうとはしなかった。それどころか右手小指をやくざに向けて、おまえが来い、と言わんばかりに、小指を何度も自分に向けて折り返した。文成とやくざの間隔は約3mぐらいだろうか。街灯の明かりもあって、文成の侮蔑的な表情と態度はしっかり見える。
「われ、えぇかげんにせんと、飛ばすぞ!」
微妙に訳のわからない脅し文句を吐いてやくざが近寄ってきた。そして文成の奥襟を右手で掴んだ。だが文成もすかさず左腕を回して、やくざの左腰の部分のベルトを掴んだので、やくざは少し動揺した。その隙を突いて、文成はさっさとやくざを公園へ連れ込んだ。公園へ連れ込み、誰も見ていないのをさりげなく確かめると、文成はつかんでいたベルトを引きつけて、左脚でやくざの右足を絡めると、腰を落として、やくざに投げを打った。相撲で言う裏掛け投げの要領だ。やくざの躯は大きく回転して、背中から地面に叩きつけられた。
すかさず文成はやくざの目を左掌で覆うように押さえこんで、喉元に滝田から奪ったバタフライナイフを突きつけた。いささかの粗漏もない、滑らかで見事な動きだ。バレエをやっていたせいなのだろう、まさに舞い踊るような動作だ。力はさほど無いのだが、リズムとテンポが良いのだろう。それが攻撃において常にイニシアティヴを握る事ができるファクターなのかもしれない。
「誰がおとなだ? 何を骨の髄まで教えてやるって? おまえが何か教えることなんてあったのか?」
文成は言った。その声はなぜか、冷たく乾いた声ではなく、奇妙に熱と湿り気を帯びた声だった。まるで性的に高揚した女のようだった。実際、文成の貌は不可解といっていい程、恍惚としている。殺戮の欲望と性的欲望が重なったとでもいうのだろうか。
「われ、いったいなに、しさらすんじゃ、このガキ!」
押さえつけられながらもやくざが文成に向かって毒づいた。関西弁が下手すぎると、文成は思って、やや呆れるように言った。
「あのさぁ、別に死んでもらうからいいんだけど、関西弁ヘタクソ過ぎるなぁ。もう少し上手く喋れねぇのかよ。ま、いまさら遅いけどね」
かなり間抜けな物言いだが、洒落がまったく通じないこのやくざは青筋を立てて怒鳴り散らした。
「やかましい、このガキ! おのれ、どこのグループの悪ガキや。ええかげんにせんと、弾き飛ばすぞ!」
「やれるもんなら、やっ……」
やってみな、と言おうとして文成は途中で言葉を切った。やくざが左懐に右手を突っ込んでいるのが見えたからだ。
文成は咄嗟にナイフをやくざの胸部に突き刺した。喉元に立てていたのに、胸部に刺したところに、文成の慌てぶりが垣間見られたが、それでも冷酷に胸部を刺すところは恐るべき、というべきか。いずれにしろ、この冷酷な文成の攻撃にやくざは絶叫を吐き出した。
文成は念のためにやくざの右手首も刺し貫いて使えなくすると、やくざが取り出そうとしたものを探った。中から出てきたのは、この闇夜にも青く輝く拳銃だった。暗がりなので実際の色などはわからないが、形からしてオートマティック・ピストルである事には違いない。
文成は拳銃を手に取った瞬間、異様な興奮に見舞われた。その興奮は文成の下腹部から沸き起こっていた。早い話が勃起していたのだ。
幼い頃から母の裸、特に乳房を見たり触ったりして陰茎が硬くなる事はあったが、これほどの興奮を覚えた事は今まで一度も無かった。性的興奮とはまったく異質な興奮が沸き起こっていた。なのに、今の文成は拳銃を手にしたことによる興奮で勃起しているのである。あるいは文成の裡に蠢く虐殺に餓えた獣がそうさせているのか。
「なんか、すげぇもん、持ってるなぁ。おもちゃにしてはリアリティありすぎるぜ」
ますます文成の声は性的興奮に見舞われたかのように熱を帯びてきた。貌がもう汗ばみ始めている。
「わ、われ…………、それ、返せ。ガキの、おもちゃと……、ちゃうんじゃ」
やくざが息も絶え絶えに、文成に言った。
「死ぬ奴に返してもしょうがないだろ。これはオレが戴くよ。安心して死ね」
文成は冷淡にやくざに言った。そして、まるで扱いに慣れているかのように弾薬を薬室に装填し、撃鉄を起こしてやくざの顔面に向けて両手で構えた。
「お、おまえ……、な、なんで? 拳銃撃ったこと、あんのか?」
どう見ても中学生くらいとしか思えない子供が手馴れた感じで扱うのを見て、やくざは驚きと疑いの目を向けて言った。
「ん? 本物を持ったのは初めてだぜ。おもちゃなら撃ったことはあるけど。やばっ、もう我慢できない! とっとと死ね」
文成はまるで射精寸前と言わんばかりに拳銃の引き金を引いた。乾いた音とともに、やくざの貌が鼻から貫通していた。即死していた。このとき、文成は下腹部に今まで味わった事のない快感を覚えていた。なんと発砲した瞬間、生まれて初めて射精したのだ。拳銃は一発だったが、文成の銃身は何度も脈打って発砲していた。
信じがたい快感にうっとりとした文成はまたこの快感を味わいたくて、もう一度発砲した。弾丸が乾いた音とともに銃口から飛び出し、死体と化したやくざの眉間を打ち抜いた。またも下腹部の銃身が勢いよく発砲した。
もう一度この快感を味わおうと思ったが、誰かに見られるとまずい、という思いが、文成を冷静にした。文成は拳銃を自分の懐にしまいこみ、自分の七時方向に大きめの岩を見つけると、両手で持ってきて、貌を打ち抜かれたやくざの顔面に落とした。これでこのやくざの顔面は完全に潰れただろう。文成の貌に再び、狂気に満ちた残虐な笑みが浮かんだ。
文成はやや腰をふらつかせながら公園を去った。やがてふらつきは治まったが、大量に射精したのか、躯が前屈みになったままだった。もっとも、そんな文成の姿をどういうわけか誰一人として目撃していなかった。
帰宅して、さっそく着ているものを脱ぎ捨てて全裸になった文成は穿いていたバーバリーのチェック柄のトランクスを裏返して見た。案の定、股間全体が精液で染みになっていた。初めて嗅いだ匂いに噎せた文成はバケツに水を入れて、その中に精液まみれのトランクスを放り込んだ。
それから台所へ行き、水を薬缶に入れてガスコンロのつまみを回した。ボールに水を張り、薬缶の湯を入れて加減してからタオルを入れて浸し、絞って水分を落とすと、前身を拭き始めた。股間を拭く時、やたらと丹念に拭ったが、そのうちまた欲情を覚えてしまったのには、思わず苦笑した。
文成はマレーシア製のオーディオプレイヤーに一枚のCDを入れて、リモコンの再生ボタンを押した。シンセサイズされた、ポップだがどこか哀しさと渇いた曲が流れてきた。ブルー・オイスター・カルトが1983年に発表したアルバム、『THE REVOLUTION BY NIGHT』の2曲目に入っていた、7分11秒に及ぶ大曲、「SHOOTING SHARK」だ。
パティ・スミスが作詞し、ドナルド・ローザーが作曲したこの曲は洗練されたサウンドが特徴的なキャッチーな佳曲だが、どこか哀しさと寂しさを覚える。そして文成はこの曲を聴いて恍惚とした表情を浮かべている。右手にはやくざから奪った拳銃が、弾倉(マガジン)を抜かれた状態であった。スティール・ブルーにあしらわれたその銃身には、両前脚を上げた馬のデザインとともに、“COLT SUPER.38 AUTOMATIC(コルト・スーパー.38・オートマティック)”と刻まれていた。
大藪春彦の『蘇える金狼』の主人公、朝倉哲也の愛銃として名高いこの拳銃は、1928年、コルトM1911A1・ガヴァメント・モデルに続くコルトオートピストルの2本目の柱とすべく発売された。スーパー.38ピストルは、45ACPと同長でありながら口径38と細いカートリッジにし、軽量高速弾頭により高い貫通力と装弾数の増量を狙った物である。
こんなクラシックどころか、アンティークとしか言いようの無い拳銃を持っていた奴も大概なものだが、それを奪って陶然としている文成もかなりのものかもしれない。
文成は銃口を自分の右のこめかみに押し当てた。そして、ドナルド・ローザーが
「Three times I’ve seen the shooting shark. Lighting up the sky」
と、情感込めて歌った瞬間、引き金を絞った。弾丸が出るわけがないが、文成は白目を向けて舌をだらりと垂らし、ゆっくりと、まるでスローモーションのように横に倒れこんだ。そしてそのまま、ピクリとも動かなかった。どうやらトリップしてしまったようだ。1曲リピートに設定されていたプレイヤーからは、「SHOOTING SHARK」が何度も繰り返して演奏されていた。
第11話へ続く
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