
堕天使 〜Prinzipal der Finsternis〜
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P.M.5:00頃、文成は弘成高校の選手宿舎に戻った。岩田といるときのほうが楽しいのだが、そうも言っていられない。ユニフォームはすっかり汗臭くなって気分が悪い。とっとと脱いでシャワーを浴びて着替えたい。2回戦まではかなりの期間休める。どうせ、スターティング・メンバーになることは無いから気持ちが楽である。そんなことを考えながら宿舎に入ろうとすると、誰かが呼び止める声が聞こえた。
「平井君!」
振り返ると、弘成高校野球部のマネージャーである、平野絵理子が後ろ手に組んで立っていた。三年生である彼女は学業優秀で、スポーツ、特にスプリントが得意だが陸上部には所属したことが無いという。スタイルは申し分なく、理知的な美貌が学校内の人気を独り占めにしていた。身長は173cmと、文成より2cm高い。文成を野球部に誘ったのはこのマネージャーだが、その時から彼女は文成を弟のように可愛がっていた。ただ、今は弟を見るような瞳では無くなっている。何かしら妖しい雰囲気が醸し出されている。白いブラウスから色香が漂っているような気がした。白磁を思わせる首筋がやけに眩しい。
「平野先輩?」
文成が気付いたときには、右手を取られていた。
「ちょっと、こっちに来て」
絵理子は平井の手を引くと、一目散に人に見られないよう、死角に連れ込んだ。
「こんなところで何をする気ですか?」
「何? 怖いの?」
「怖いですよ。見つかったら何言われるか」
「それがさっき、あんな傲慢な発言をした人のセリフ?」
絵理子はからかうように笑った。その微笑がかわいらしく思えた。
「先輩? まさか、こんなところで……」
「なぁに想像してるの? もう、いやん」
絵理子は声を潜めて、否定した。その割にはうれしそうな顔をしている。
「ねぇ、文成君。あなた、すごい爆弾発言したわね」
絵理子が顔を近寄せて、文成に言った。
「先輩、なんで、文成君になるんです?」
「いいじゃない。それより、あのインタヴューで、みんなから総スカン食らわされてるわよ」
「誰が?」
「あなた! 他に誰がいるの!?」
絵理子が少し語気を強めて言うと、文成はさっぱりした感じで、
「監督いたじゃない?」
と、すっとぼけたので絵理子はすっかり呆れてしまった。
「呆れた。よくそんな風にすっとぼけられるわねぇ。監督、何も言ってなかったわよ。とにかく、今あなたをシメルとか言って、みんな殺気立ってるわよ」
文成はそっぽを向いて、顔をしかめた。
「あぁ、やだやだ。力の無い奴の嫉妬ほど、醜いものは無いねぇ」
「なんだ、わかってるんじゃない。自分が何をやったか、何を言ったか」
「へ?」
「でも、無理ないわね。私、びっくりしたわよ。文成君があんなに大きなホームラン打つなんて、夢にも思わなかったわ」
絵理子が憧憬の念を籠めていった。なぜか瞳が陶然としている。気が付けば、文成の首周りに両腕を回していた。
「先輩? 何、考えているんです?」
「いや。二人きりのときは絵理子と呼んで」
「キャプテンに見つかったら、それこそシメられますよ、オレ」
「渡辺君のこと、そんなに怖いの?」
絵理子は挑発するように微笑みながら言った。
「怖くないですよ。バカマスコミに見つかるのは怖いけど」
「ふふふっ。今、あなたは、たぶん、日本中を敵に回しているわよ」
そう言われた文成は不敵に笑い、絵理子の背中に両腕を回した。絵理子の柔らかさと温もりが直に伝わってきた。二人の顔はこれ以上無いというくらい近づきすぎている。
「誰も、オレには勝てないさ。文句があるなら、オレより遠くへ飛ばしてから言って欲しいね」
「文成君、やっぱりあなた、傲慢ね」
言いながらも微笑んでいる絵理子は、目を閉じて、唇を半開きにした。
「キス、して。ずっと、キスして欲しいと、思ってたの」
声が少し、うわずっていた。かすれている様な気もした。殺風景な場所に合わない、艶かしい雰囲気に、文成も陶酔感を覚えだした。
「バレたら、後が怖いぜ」
そう言いながらも、文成は絵理子と唇を重ねた。舌を絡ませ、互いの唾液を貪りあう。情熱を交わしあっている様な感覚だった。やや冷えていた体は炎があがるように、一気に燃え盛った。文成が絵理子の腰から背中、髪にかけて撫ぜ回すと、それに合わせて絵理子も文成の背中に回していた両掌を文成の両頬に回して挟み込んだ。段々と意識が陶然としてきた。
だが、こんなときでも文成は落ち着いていた。絵理子が体中を撫ぜ回し、ついには左手が股間へ向かうのをはっきりと認識していた。すぐさま文成は躯を引き剥がした。
「いやん。やめないで」
絵理子が甘えた声で、再び求めようとしたが、文成は拒んだ。
「ここじゃ、やっぱりだめだ。交わしたいのはやまやまだけど、終わってからの楽しみにするよ。そうしたら、また君を悦ばせてあげる。それまで待って、絵理子」
文成は白い歯を見せながら、絵理子に微笑んだ。それで満足したのか、絵理子は感激した面持ちで、また文成に抱きついた。
「約束よ、必ず私を抱いて。あなた以上の男なんて、いないんだから」
「あぁ、必ずな」
ようやく二人は離れた。文成は何食わぬ顔をして、選手宿舎に戻っていった。去り際に絵理子が、
「気をつけて」
と、言った。そして自分はロビーにあるトイレに向かう。
(……キャプテンの、ガールフレンド、か)
また文成は不敵な笑みを浮かべた。
(2か月前までの話、だったんだな……)
弘成高校の選手が泊まっている部屋に入った文成は部屋の中にいる部員全員が自分に中指を立てている感覚を覚えた。見回すまでも無く、みな殺気立っている。
だが、文成は気にする事無く、それどころか愛想笑いまで浮かべた。
「ただいま、戻りました」
文成は明るく言ったが、気持ちは全く入っていなかった。
「平井、ちょっと話がある」
3年生でキャプテンの渡辺敬仁(たかひと)が不快感を押し殺しながら文成を呼び止めた。何の話か、事前に絵理子から聞かされていなくてもわかった。態度があからさま過ぎるのだ。
だが、文成は意に介しないように拒んだ。
「すいません。後にしてもらえないでしょうか?まだ、シャワー浴びてないんで」
全く敬意を表さない言い方だ。もっとも、文成は意識的に言っていた。平たく言えば、わざと侮蔑するように言っていたのだ。
「いや、今すぐお前に言わなければならない話だ」
聞いた途端、文成は壁を背にすると、腕を組み、顎を突き出して、キャプテンに視線を向けた。ますます侮蔑的な態度だ。
「平井。なぜ俺の前に来ない?」
落ち着いた口調で喋っているが、内心の腹立ちは抑えられないのだろう。左拳をきつく握り締めていた。
「キャプテンをはじめ、皆さんがまるで集団強姦するような目つきなんでね」
どうにも平井文成という少年は毒気を持って喋る性質なのか。この一言で室内は、斬り合い寸前、と言いたくなるような、殺気立ったムードに包まれた。
「オレはそんな気ねぇよ! そんな目を向ける必要も何も無いじゃないか!!」
端のほうから、不意に文成の言葉を否定するように声を上げた部員がいた。文成が目をやると、同級生で文成と同じく今日の試合で控えに入っていた中村康一だった。顔が少し、蒼ざめていた。
だが文成は中村に向かって愛想無く、
「あぁ、そう」
と、返した。
「じゃ、康一以外はその気なんだ」
文成は、また毒気を撒いた。
「なぜ、そんな風に考える? 心当たりがあるのか?」
「さあ?」
「いったいお前は何様のつもりなんだ?」
キャプテンの渡辺はかなり苛立ってきていた。ついさっきまでおとなしくしていた1年生の控え選手が、今では、自分以上のものはいないと、言わんばかりの態度を取っているせいだ。他の部員たちは尚更苛立っていただろう。
しかし、文成は部員たちのその態度に、却って冷笑を浮かべた。文成言うところの、力無き者の嫉妬を嗤ったのだ。
「今すぐ、ここで話さなきゃならないことって、何ですか? 早く話してくれません?」
まるで、戦争の火蓋を切って落とすかのように、文成は言い放った。
(ダブルヘッダー、第2試合開始、か?)
そう思いながら、文成は心の中で苦笑いした。
「じゃぁ、言おうか。平井、あのインタヴューは何なんだ?」
渡辺はややヴォリュームを上げて文成を詰問した。
「え? なに?」
「しらばっくれるな! 何が、眠かっただ? 何が、わざとだ!? 最後はなんだ! 出たくないだと!? ふざけるのもいい加減にしろ!!」
完全に渡辺は激昂した。他の部員はと言うと、中村を除いて、皆、文成を睨みつけている。
「何? あれ? くっだらねぇ〜!! 人を呼び止めて、何話すのかと思ったら、その話ぃ? 大した事ないじゃないか。どうでもいい話しないで、もっとためになる話してくれよ」
呆れ返ったように喋る文成の態度は完全に人を侮蔑していた。もとより、文成はその場にいる全員を侮蔑しきっている。
「貴様ぁ!! ちょっとばかり、逆転ホームラン打ったからといって、いい気になるんじゃねぇ!!」
今度はエースの黒田が突っかかってきた。今にも殴りかかる勢いだった。
「待てよ。ちょっとばかりだぁ? 笑わせんな! 場外ホームランをちょっとばかり扱いするな! おのれは打てるのか、おい!? どうしても170mは飛ばさなきゃいけないんだぜ! ろくすっぽ打てなかった奴が、えらそうに言うな!」
文成は目を怒らせて、言い返した。
「まさか、あのホームラン、まぐれだと思ってるんじゃねぇだろうなぁ? まぐれで場外飛ばしてみろよ。あの時の清原和博以上のホームラン打ってみろ!! あんなBクラスピッチャーにいいようにやられていたお前たちが打てるわけがないだろうがなぁ!!」
野球部員たちは皆、うろたえた。特に3年生のうろたえぶりは尋常ではなかった。華奢なお嬢様のような文成をシメルつもりが逆に言い負かされてしまったからだ。確かに、誰一人として、逆転サヨナラ場外ホームランなんて離れ業を、やってのけるものはいなかった。
そんな部員たちに、文成はなお追い撃ちをかけた。
「これだから、力のない奴の嫉妬は見苦しいんだ。だいたい、勝った瞬間、オレに感謝の一言も無いんだからな。笑わせるぜ。勝って喜ぶどころか、殊勲者を嫉むんだから、冗談じゃないぜ!!」
「ちょっと待て! 問題が違うぞ! 俺達はお前がインタヴューのときに取ったあの態度が許せないと言ってるんだ!」
渡辺が怒気をよみがえらせて、再び文成を責める。
「何、言ってんだか。オレはインタヴュー受けるつもりなんざ、無かったんだぜ。それを監督に言ったら、監督は、お前が受けないならワシも受けないって、言ったんだぜ。受けなきゃしょうがねぇだろう。念のために好き放題言って良いですか?て、訊いたら、監督、何て言ったと思う?放送禁止用語さえ言わなければ良いだろう、だぜ! だからオレは×××とか、○○○とか、M田Y一とか、言わないように気をつけて、言いたいことを喋ったんだぜ!! それで腹を立てても、それはお前らの問題であって、オレの責任じゃねぇよ!!」
文成は、相当マニアックなギャグを入れながらも、怒号をあげてまくし立てた。
これにはとうとう渡辺がぶち切れてしまい、文成に掴み掛かった。
「言わせておけば。平井ぃ!!」
「そこまでじゃ!」
振り向くと、小柄な老監督が、文成と渡辺の間に入っていた。
「あ、監督」
文成が気の抜けたマヌケな声で言った。実際、怒気も失せたのだろう。
「そこまでじゃ、渡辺。暴力沙汰は絶対に許さん。ここは手を引け」
だが、渡辺は引き下がらなかった。
「監督、しかし…!」
「渡辺」
監督がじろりと、渡辺を睨みつけた。不満は消えていないが、渡辺は引き下がった。
「平井。意味もなく、人を罵倒するな。それと、暴力の種を蒔くんじゃない。良いな」
監督は文成にも訓告した。このときの監督の眼は、本気で睨んでいた。
「監督。お言葉ですが、オレを嘲笑う人間は、相手が立ち直れないくらい罵倒するつもりでいるんで。あと、暴力の種を蒔く気はありません。向こうが勝手に蒔くので」
文成は静かに、それでいて真剣に監督に言い返した。
「平井。少なくとも、優勝するまでは揉め事を起こすな。わかったか?」
監督がさらに語気を強めて、文成に釘をさした。だが、文成はきょとん、とした表情を監督に示した。
「え? 優勝するまで? ……監督、やる気になったんですか?」
「お前がせっかく、ドでかいホームランを打って勝たしてくれたんじゃ。このまま帰るのは勿体無いじゃろう。最後まで登り詰めようじゃないか」
そう言った森田監督の目が光った。よく見ると、なにやら全身に気のようなものが満ちてきている雰囲気があった。
「そこまで言うなら、行き着くとこまで行きましょう。大して役に立たないけど」
文成がまたおどけると、
「心配するな。有効に使ってやる。切り札を持っている以上、うまく使わないとな。甲子園に行けるだけでもと思ったが、勝てるとわかったら、やらなきゃならんじゃろう」
と言って老監督は、今度はニヤリと笑った。
「監督がやる気になってくれたのはうれしいですけど、他の連中は全くやる気が無さそうです。なんか、もうお家に帰りたいみたいな顔してますけど」
なおも文成は揶揄して部員たちを挑発した。
「仮に2回戦で負けても、過去最高の成績じゃからのう……。なにせ、今まで甲子園に出ることなんてなかったのじゃから、それなりに健闘は讃えてくれよう。が、史上最高のホームランを打った選手がいる高校が次の試合であっさりと負けたんじゃ、あまりにもマヌケじゃろ? おまえたちはそれでも良いのか!? 控えの1年選手は素晴らしいが、レギュラーは箸にも棒にも掛からぬほど大した事のない連中と思われても良いと思ってるのか!? それなら、今から帰り支度をするが良かろう。そんな連中に、ワシは興味が無い。どうなんじゃ!」
小柄な老監督が、どこにそんなエネルギーがあるのかと思うくらいの大音声を張り上げて部員全員を怒鳴りつけた。まさに破れ鐘のような大声で、部員全員が震え上がった。先ほどまで文成相手に殺気立っていた、渡辺を筆頭とする3年生連中はすっかり意気消沈していた。それどころかまるで、瘧(おこり)にでも罹ったかのようにぶるぶる震えている。
(この親爺……、気功の達人かよ。とんでもねぇ隠し球持っていやがった。このオレが冷や汗を掻くとはなぁ………)
傲慢不遜、怖いもの知らずの文成でさえこんな気持ちになるのだから、他の連中は、推して知るべし、だろう。
「簡潔に訊く。おまえたち、優勝する気はあるのか、無いのか? どっちじゃ?」
今度は抑えた声で老監督は部員たちに訊いた。が、迫力に圧倒されたか、誰一人として何も言わない。声が出なくなったのだろうか。
(情けな。なんでこんな連中とこんなところにいるんだろ……?)
文成は心中、部員たちを侮蔑し、同時に自分自身を嘲笑った。少し気持ちが惨めになってきた。
「平井、おまえはどう思ってるんじゃ?」
老監督が、埒が開かぬと言わんばかりに文成に訊いてきた。
「オレ? オレは優勝する気でいるぜ。と言うか、負けるのが嫌だからあの時逆転サヨナラホームランを打ったわけで。優勝する為にここに来たんだから、できなきゃ何の価値も無い」
傲然と答えたものの、内心の震えは止まっていなかった。必死に隠そうとするが、冷や汗は止まらない。
「平井は優勝する気でいる。おまえたちはどうなんじゃ? 答えられんのか?」
老監督が改めて部員たちに尋ねた。これ以上の逡巡は許さぬと言わんばかりに睨みつける。
「か、監督、俺は優勝するつもりでいます! いや、絶対優勝したいので、そのために頑張ります!!」
ようやくという感じでキャプテンの渡辺がまるで宣誓するように声を張り上げて言った。実際、宣誓しているつもりだったのか。
「俺たちも優勝目指して頑張ります! このままで帰りたくありません!」
渡辺が言ったので勇気付けられたのか、他の部員たちも一斉に優勝を目指す事を誓った。
「よし、わかった。そうと決まったら、優勝する為に徹底的にしごいてやる。いいな!」
「はい!!」
全員が声を揃え、直立不動で答えた。もっとも、文成は答えないどころか、醒めた目でそんな光景を見ていた。
「平井、今からワシと一緒に来い。おまえにはちと、説教が必要じゃ。諄々とねぎ諭してやる」
老監督が文成に向けて静かに低く言った。渡辺以下、他の部員全員が、ざまあ見ろといわんばかりの表情を出した。
「えぇ? 監督、オレまだシャワー浴びてないんですけど」
文成が不平を言うと、
「何を言っとるんじゃ。風呂なら今からワシと一緒に入れ! 説教なんざ、どこでもできるわい」
と言って、老監督は文成の文句を受け付けない。
「なんで、爺ぃの背中流さなきゃならんのだよ」
「なに、背中流してくれるのか? 嬉しいこと言うじゃないか。今時、年寄りの背中を流そうと言う若者はおらんからの。よし文成、早速風呂へ行ってワシの背中を流せ」
随分うれしそうに言って、老監督は文成の腕をつかみ、風呂場へ連れて行った。仕方なく、文成はこの端倪すべからざる老監督に引っ張られていった。
第5話へ続く
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