「廃線と廃駅の調査」

第12回 神々の詩 第3部

〜尾道鉄道〜



[11] まとめ

GNG:お疲れ様でした。

ゑゐぢ:今回の調査は、何の計画もなく思いつきで突然実行され、しかも『廃線と廃駅の調査』では初の近畿圏脱出となってしまいました。山陽本線の尾道から山陽新幹線新尾道(栗原(くりはら)付近)までの未調査区間と「三美園(さんびえん)」の前後、「(はた)」の峠を越えてからの日没による廃線跡の見失いを除けば事前に計画や下調べすらなく、よくもまあ出来たものです。

ゑゐぢ:尾道鉄道については、壮大な計画をはたせず盲腸線に終わった鉄道という印象を持っています。末期には、営業係数106前後(100円の売上げに対して106円の経費がかかる)と健闘していました。旅客は通勤通学客をある程度確保していたんですが、貨物輸送は、尾道から西尾道の紡績工場(地元だった人の証言)、飼料工場(一部文献の記述)までの400m程を電車に引かれて不定期に走る国鉄の貨車を除けば全くなかったというのは厳しい状況だったと思います。今まで調査した加悦(かや)鉄道や鍛冶屋線もそうですが、貨物営業のある零細私鉄やローカル線は、貨物輸送がある限りは安定していたんですね。そんなわけで貨物輸送が皆無だった尾道鉄道は、旅客さえ自社経営のバスに持って行かれて、その結果、短命に終わったと言えそうです。
ここで歴史にあってはいけない「タラ・レバ」話をお許しいただいて、仮に尾道鉄道が陰陽連絡をなし得ていたとしても、「(はた)」の峠はもちろん「諸原(もろはら)」のスイッチバックや「栗原(くりはら)」から「三成(みなり)」にかけての勾配を考えると、幹線としての陰陽連絡は実現が難しかった可能性があります。
現状を見れば尾道から三成(みなり)までなら新幹線の駅や高校、工業団地などの通勤通学である程度存続できた可能性があります。しかし、尾道鉄道が廃線になったからこそ、その廃線跡を利用した陰陽連絡の主要国道が開通したわけですし、工業団地や新幹線の新尾道駅も作られたわけです。すなわち鉄道ではなく道路と言う選択肢を選ぶことによって、本州四国連絡道(しまなみ街道)や山陽自動車道のインターを獲得できたといっても良いでしょう。

GNG:そうやってまとめてしまうと何だかあっけないですね。


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