昭和初期の日本の写真業界と「ライカ・コンタックス論争」
明治末〜昭和初期にかけて、国内市場では写真産業が成長し、写真とカメラは大衆化していった。大手卸売り問屋の小西六兵衛商会(現・コニカ)が国産カメラの開発販売を行っていたが、海外カメラの模倣であり、レンズはドイツ・アメリカからの輸入に頼っており、一貫した純国産化は成し遂げられていなかった。
また、高級なカメラは輸入品(主にドイツ製)に占められ、且つ高価だった。
大正末期から昭和10年頃にかけて、写真業界で最も顕著に現れた変化は、フイルム感光剤の変化である。それはガラス乾板から、セルロイドベースのロールフイルムへ全面変換が起こったことである。
ライカの登場は、小型カメラでも大型カメラに匹敵する画像と、比較にならない速写性能、長巻フイルムを使用することによる写真1枚当たりのコストの低下、経済的・時間的に高効率な撮影が可能になったことを意味した。それによって、写真表現に変化が起こり、小型カメラが流行した。それに伴い、ガラス乾板使用カメラは市場で人気が落ち、昭和9年頃には国産・輸入品を問わず、在庫処理の為に、度重なる値下げが行われている。
昭和7年、ライツ社は新型の距離計連動カメラ「ライカDII」を、ツアイスイコン社は「コンタックス」を発売した。世界最大の光学企業であるツアイスイコン社が、それまで高級35ミリ精密カメラ市場を事実上独占していたライツ社に対して、対抗機種を出したことで、激しいシェア争いが始まった。
特に日本での販売競争は激しく、主なユーザーであるアマチュア写真家は昭和6年ライカ倶楽部が発足させ、昭和10年にはコンタックス倶楽部が発足した。これは、世界的にみても、かなり早い時期の成立である。このような小型カメラの流行は、販売会社のみならず、ユーザーを巻き込んだ論争に発展した。
昭和10年8月、アサヒカメラ誌上に端を発する「ライカ・コンタックス論争」は戦前における日本の小型カメラブームを象徴する事件である。
この論争は、ライカとコンタックスの性能(機材性能・光学性能)の優劣を論じた論争である。この事件の詳細を知る資料は以下の通り−。
朝日新聞編『アサヒカメラ』昭和10年8月号・K・K・K(佐和九郎)著「ライカとコンタックスどちらが良いか?」
潟Vュミット商会編『降りかかる火の粉は払わねばならぬ』(昭和11年3月)―(ライカ擁護派の主張)
叶沼商会編『最新型コンタックスの進歩したる点』(昭和11年3月)―(コンタックス擁護派の主張)
この論争が起こった当時、国産の高級35ミリ精密カメラはおろか、35ミリフイルムさえ国産品は無く、全て輸入に頼っていた。ライカ・コンタックス等の高級35ミリ精密カメラは総じて高価で、最も安価な標準レンズのセットで550〜600円、高価な標準レンズセットで1000円程度、更に広角や望遠などの交換レンズ、現像・焼付け・引伸ばし機材を包括したものでは数千円、ときには1万円にも達した。
当時、「ライカ1台、家1軒」と云われ、写真材料店ではライカ・コンタックスを1台売ると、利潤は1ヶ月分の収入に相当したとされ、相当の利益が見込めた。ライカ・コンタックスを研究する専門書も数多く現れ、主な著作者には吉川速雄、堀江宏、森潤三郎、江頭良助が著名である。
総じて、これらの著作者は、営業写真家ではなくアマチュア写真家であり、写真雑誌への作品投稿家である。営業写真家でライカユーザーであった木村伊兵衛も、今までに無いスナップ・ショットによる写真表現を行った新しいタイプの営業写真家である。
また、市中で「ライカ・コンタックス論争」に加わった人々の多くが、高価なライカ・コンタックスを、経済的に所有出来ない人々だった。このような、小型カメラブームを底辺で支えた人々の渇望が、やがて国産35ミリカメラの需要を喚起したと考える。
日本写真興業新聞社『日本写真興業通信』昭和9年〜15年―カメラ業界の反応によれば、昭和11年2月号において
「小型カメラ製造熱たかまり、粗製品の市場氾濫憂慮さる」
という記事が見られる。それは35ミリフイルムを使用しない、外見だけライカに似せたものである。
また、ライカは昭和初期の風俗に浸透していた。小林彰太郎編『写真で見る昭和のダットサン』によれば、歌手の藤山一郎は、昭和10年頃の日産自動車「ダットサン」の販売キヤンペーンで「当節は、ライカ・手風琴・ダットサン」というフレーズがあり、昭和初期のモダニズムを象徴するステイタスシンボルだったと証言する。
この「ライカ・コンタックス論争」は、昭和初期〜10年代にかけての写真ブーム、小型カメラブームを象徴する事件であり、結果的に日本における高級精密35ミリカメラ製造を促した事件でもあると考える。
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