【研究論文】

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「高級35精密カメラとレンズ・システム」

 ライツ社には、レンズ設計者マックス・ベレク博士(Dr, Maxberek)をはじめとするレンズ設計者がおり、数々のレンズを開発した。
 ライカが発売された当時、同じドイツのカール・ツアイス(CarlZeiss)社のテッサー(Tessar)の特許が、25年の保護期間を終了したことで、その設計を使うことが可能となった。この時代、比較的に大口径で且つ良好な画像を得ることが出来、製造しやすく、且つ安価な製造コストのレンズは、テッサーだけであった。
 マックス・ベレクがライカ用に開発したエルマー(Elmar)50mmF3.5は、
テッサーに範を取った設計で、現在まで作り続けられるロングセラーレンズとなった。
 しかし、この時代ライツ社のレンズ開発能力は必ずしも高いものではなく、エルマー50mmF3.5以外は特に眼を見張る性能のものは無かった。

 特に1930年にレンズ交換が随意に出来る「C型ライカ」(Leica-C)が発売されると、その問題は顕著となった。(→C型ライカ・1930)
 ライツのレンズは他社に較べて大口径のレンズ、望遠、広角レンズでは劣っており、価格も高かった。35ミリフイルムを使うライカの優位性が評価されるにしたがって、他社はライカ用の高性能レンズを開発するようになり、ライカに使うための交換レンズの市場が広がった。



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「連動距離計機構の発明」

 1932年、ライツ社は距離計連動カメラ「ライカDII」(Leica-DII)を発売した。シャッターとフイルムの運動を連動させる機構に加え、更に光学的三角測量を行う連動距離計を組み込んだもので、フアインダーを覗き、ヘリコイドを操作すれば、フアインダー内部の二重像を合致させることにより、自動的に被写体とカメラ間の距離を合わせる連動機構を組み込んだものである。(→ライカDII・1932)

 連動距離計は1916年に、アメリカ・コダック社が3Aオートグラフィック・スペシャルコダックで初めて採用されたが、縦型で且つ機体が大きく操作が不自由で普及することがなかった。
その後、1931年のドイツ・アグフア社のアグフア・スタンダード、フランツ・コッホマン社のエノルデがあるが、シャッターとフイルムの運動を連動させる機構に加え、連動距離計機構を装備したものはライカが初めてだった。
 ここに、はじめて高級35ミリ精密カメラの機構条件が完成されたとされている。ライカの連動距離計は、日本で「冩真器鏡玉ノ距離調節装置」(実用新案・201490号)として、昭和9年6月30日広告された。後に、この実用新案が日本における高級35ミリ精密カメラ開発に大きな影響を与える。

 ライカDIIが発売されたのと同じ昭和7年、世界最大の光学企業コンツエルンであるツアイス・イコン社(ZeissIkon・AG)は、ライカが独占していた高級35ミリ精密カメラ市場に参入した。
ライカを越える性能のカメラボディと、それに伴う高性能のレンズ群をシステム化したカメラ、コンタックス(Contax)は、ライツとは比較にならない開発力を擁して数々のレンズを発売し、ライカの独占市場に挑戦し、激しく競合した。

 日本における高級35ミリ精密カメラの発売は、これに影響されて始まった。だが、この当時、35ミリフイルムは特殊な小型フイルムと見なされており、一般写真市場において普遍的だったのはブローニ判とヴェスト判である。そこで、パーフオレーションのないブローニ判、ヴェスト判フイルムを用いて、シャッターとフイルムの運動を連動させる機構を実現しょうとした。
 しかし、いずれも成功を収めることが出来なかった。何故なら、35ミリフイルムと違い、ブローニ判、ヴェスト判のいずれもがフイルムにパーフオレーション穴(送り穴)がなかった為に、正確で安定したフイルム送りが出来なかった為である。(→コンタックスI型・1932)


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