【研究論文】



映画の発明と写真技術への応用

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「映画におけるシャッターとフイルムの運動を連動させる機構の発明」

 35ミリカメラの発明は、映画の歴史と深く関係しており、2つの契機がある。
まずは35ミリ映画用フイルムの発明であり、そしてシャッターとフイルムの運動を連動させる機構の発明の、2点である。
 映画の発明は、フランスのルミエール兄弟と、アメリカのT・エディソンと助手のW・エディクソンによって行われたのは広く知られている。ルミエール兄弟が、55ミリ幅のフイルムを用いたのに対して、1890〜91年にかけてエディソンとエディクソンは、キネマトグラフカメラ(シネカメラ)の試作の為に、70ミリ幅のフイルムを縦にカットして均等な2本のフイルムとし、パーフオレーション(送り穴) を空け、端と端を繋いで1.4インチ(35ミリ幅)のフイルムを作った。画の寸法は18×24ミリで、それぞれの画面はフイルムの端に近い4つずつの正方形のパーフオレーションを持っていた。

 この35ミリの寸法が、現在まで映画の標準として採用され、今日まで続いている。
 映画は連続撮影を行う為に、正確且つフイルム面が安定した高速のフイルム送り、さらにシャッターとの連動が必要になる。その為に、テレグラフ(電信)のペーパーに使われていたパーフォレーション(送り穴)が採用されていた。これは、もともと電信技士だったエディソンとその助手、エディクソンの35ミリ幅フイルムに採用されていたことは、技術発達史上、重要である。このパーフオレーションの存否が、のちに小型カメラにおける35ミリフイルム規格が全面的に採用される鍵となった。

 2つ目は、機械的な技術革新としてフイルムループ、鎖車(スプロケット)断続フイルム送りを生み出すための歯車、そして重要なのはシャッターとフイルムの運動を連動させる機構である。映画の場合、撮影カメラと映写機の機構が非常に似通っているが、1895年、ハーマン・カズラーの発明した撮影用カメラであるバイオグラフ・カメラ、1901年にチャールズ・F・ジエンキンズと、トーマス・アーマットの発明したヴァイタスコープ(U.S.Patent#673.992)動画映写機の機構は、映写機のみならず撮影カメラにも大きな影響を与えたものであると考えられる。
 これによって、撮影・映写ともに必要な高速で確実なフイルム給装、正確な画面位置と、安定したフイルム面が得られた。
それは、通常の写真(スティル)を対照とした技術ではなかったが、やがて映画関係の技術者が、この機構を通常のカメラに応用し、技術革新を行うことになる。




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「写真におけるシャッターとフイルムの運動を連動させる機構の発明」

 静止(スティル)写真における、シャッターとフイルムの運動を連動させる機構の発明は、1912〜13年頃に、ドイツのオスカーバルナック(OskarBalnack)が35ミリフイルムを使う静止画専用の“シャッターとフイルムの運動を連動させる機構”を持ったカメラ「Ur-Leica」を発明した。
 バルナックは、ウエツラー(Wezlar)のエルンスト・ライツ社(Ernst-Leitz Gmbh)に所属する映画機材の高級機械工だった。
 仕事では、映画カメラの開発を行っていたが、趣味で静止写真撮影を行っていた。バルナックは生まれついて小柄な体格と喘息の為に、1900年代初頭頃に主流であった13×18cmの大型のフイールドカメラと、ガラス乾板フイルムを持って歩くのが苦痛で、35ミリフイルム使用の静止画像カメラ開発を考えついたとしている。

 これは「バルナック・カメラ」(Barnack-Kamera)または「ウァ・ライカ」(Ur-Leica)と呼ばれ、は1912〜13年頃にかけて2台製作され、1台が現存している。特徴は、フイルムループ、鎖車(スプロケット)により断続フイルム送りを生み出すための歯車、そしてシャッターとフイルムの運動を連動させる機構である。
 映画用35ミリフイルムを使用するが、画面規格は映画用の24×18ではなく、24×36ミリとした。縦長24×18ミリではあまりに画面サイズが小さく、大きな引伸ばしに画質が耐えられないと考えられた為である。これは後にライカ判と呼ばれ、35ミリ静止画像カメラの標準となった。これによって、バルナックの製作した35ミリカメラは、縦長の映画カメラと違い、横長の形態となった。

 ここに、フイルムループ、鎖車(スプロケット)、断続的にフイルム送りを生み出すための歯車、そしてシャッターとフイルムの運動を連動させる機構を持った横長のカメラ、つまり、現在に続く35ミリカメラの原型が完成した。
(Ur-Leica, ? LEICA.A.G, Germany. 1912〜13) 
 シャッターとフイルムの運動を連動させる機構については、フイルム送りは映画用カメラ・映写機に近い機構を用いたが、シャッターは当時、一般的だった布幕を用いたフオーカルプレン・シャッター(ロールブラインド・シャッター)を使用した。
 これによって、シャッター機構はカメラ本体側に内蔵され、シャッターとフイルムの運動を連動させる機構の実現が容易になった。少なくとも1914年、第一次大戦勃発ころには、機構的に安定したものとなっていたと考えられる。第一次大戦の勃発で開発は中止されが、第一次大戦後の経済不況下で、エルンスト・ライツ社は従来の顕微鏡中心の光学機器生産に加え、営業上の新規開拓の為にバルナックの試作したカメラを基礎に工場試作機が作られ、市販型の「A型ライカ」(Leica-A)を1925年に販売する。

 A型ライカの機構的特徴は、単にフイルムループ、鎖車(スプロケット)断続的にフイルム送りを生み出すための歯車、そしてシャッターとフイルムの運動を連動させる機構を持った静止画像用カメラにとどまらず、高精度の引伸ばしシステムを構築したところに特徴があった。A型ライカ以前にも、似通った35ミリフイルム使用カメラが何種類か存在したが、この点が決定的に違っていた。(→A型ライカ・1925)

 24×36ミリの画面密着では、とうぜん一般鑑賞には耐え得ない。1900〜1920年代もっとも一般的だったポストカードサイズ程度まで引伸ばす必要があり、引伸機が開発された。それは、スライド用幻燈機の機構を応用したもので、数倍から数十倍の倍率で原画から印画に引伸ばされる。その機構は映写機のものと似ている。
 注目すべきは、撮影・現像・引伸ばしのシステムが、映画の撮影・現像・映写のシステムが、非常に共通点の多いシステムであることである。
これによって、大型カメラに匹敵する印画を得ることが可能となった。それには、とうぜんカメラに高度な機械的精度とレンズ精度が必要とされた。


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