【研究論文】

(2)カンノン(キヤノン)の試作

 吉田五郎による国産初のライカ型カメラの試作機「カンノン」は、現存機が無い事から、機械的に機能するモデルが存在したか否かが、在野の研究者間で長い期間、議論されてきた。しかし「カンノン」で撮影された写真が存在する事と、内田三郎の子息(吉田五郎の甥)である内田一三の証言によって、機構部分においてかなりの成功を収め、昭和10年10月に発売された「ハンザ・キャノン」の直接的な原型機であった事が確認されている。
 その形態は、昭和9年(1934)の『アサヒカメラ』(朝日新聞社)6月、7月、9月号に掲載された広告と、『月刊カメラ』(ARS)9月号に掲載された広告、そして技術的内容は実用新案『「シャッター」ト「フイルム」トカ連動ヲナス装置』(昭和9年8月15日・第214536号)によって知りうるのみで、決して情報量としては多くない。

 現在、(株)キヤノンがカンノンと認定する機材が、キヤノン本社に現存しているが、『アサヒカメラ』誌や『月刊・カメラ』誌に掲載されたものと大きく形態が違い且つ、生前の吉田五郎は、その製作に自分は関与していないと断定し、見解が相違している。
 ここでは主に昭和9年当時のカメラ雑誌の広告と、実用新案からカンノンの技術的特徴と、開発経緯を考察するものとする。
 現在まで、多くの文献でカンノンについて推論が重ねられてきた。
 小倉磐夫をはじめ多くの研究者がカンノンを、ライカを基礎とし、その枠内の試作機であると推論し、議論を行ってきた。その一方で、粟野幹夫、内田一三(内田三郎の子息で、吉田五郎の甥)はライカを基礎とする説に根拠を置きつつも、ライカに影響を受けながらも、独自の開発を目指した試作機だったと指摘する。
 筆者は、現在までの議論を踏まえつつも、次の点について疑問がある。
 まず、カンノンの原型は、ライカだけであろうか?
 
 カンノンは、その外見的特徴からライカ以外に、ツアイス・イコン社製のコンタックスをモデルにしたとされている。
 筆者が注目するのは、昭和9年に3度おこなわれたカンノンの販売広告には、2種のフイルム、つまり35ミリフイルム以外に、ヴェスト判フイルムを使うモデルを販売する予告があるという点である。現在まで、小倉をはじめ、ヴェスト判フイルム使用のカンノンについて議論が行われたことは無かった。
 その意味から、ヴェスト判フイルム使用のカンノン開発を概念として想定することにより、ライカ、コンタックス以外にもカンノンのモデルとなったヴェスト判フイルム使用の機材が存在した可能性を考察する。昭和9年に3度にわたり行われた広告において、カンノンは35ミリフイルム用と、ヴェストフイルム用の2種類が存在し、6つの技術的特徴を強調する。 (→『アサヒカメラ』昭和9年6月号広告)

(1) 自動焦点(レンジフアィンダー)付き−レンズとレンジフアインダーとの連絡部分にはボールベアリングの鋼球ボールの装置が施している故、一ケ所のみ早く磨耗する心配がない。
(2) レンジ・フアインダー部に全部プリズムを使用してあるから、二重映像の恐れがない。
(3) フイルムは撮影終了後に煩わしき巻き戻しが不要で、直ちに新しいフイルムと入れ代え出来る。
(4) セルフ・タイマー装置はスロー・シャッターを幾分兼ねてゐる。
(5) Z式はフオーカルプレン・シャッターをゼラルミンにしてあるから、気候の寒暖乾湿に狂ひが生ずることなく、且つ耐久力がある。
(6) レンズは希望に依り任意のレンズ取り付けが可能である。
以上、6点である。

 カンノンの広告は、3回されており、3回全てに全て変化がある。 (→宮崎洋司著『キヤノンレンジフアィンダーカメラ』朝日ソノラマ刊より)
 ここでは、仮にカンノンの変化を(A)〜(C)とし、発達過程を検討する。

―共通する特徴部分―
 まずA〜Cに共通する特徴として、
(1)フイルム巻き上げノブとフイルム枚数計(カウンター)がカメラ前面に位置している。
(2)カメラ上面(軍艦部)に、セルフタイマーを兼ねたスローシャッター装置が付いている。
 とくに(1)の特徴は、ツアイス・コンタックスの外見的特徴と合致することから、コンタックスを真似たフイルム巻き上げノブ(兼シャッター巻き上げ機構)という印象を受けるが、(2)の特徴であるセルフタイマーを兼ねたスローシャッター装置を、カメラ上面に設ける為には、巻き上げノブとフイルム枚数計を、カメラ前面に設置した。

 このことからも、カンノンはシャッター機構をコンタックスの直接的な影響を受けたものではないことが判る。また、セルフタイマー兼スローシャッター機構をカメラ上面に設置しない場合、カメラ上面にフイルム巻き上げノブ(兼シャッター巻き上げ機構)を設置できるような設計になっていたことが、実用新案『「シャッター」ト「フイルム」トカ連動ヲナス装置』(昭和9年8月15日・第214536号)で確認できる。

 結局、開発過程の中でカメラ前面にカメラ上面にフイルム巻き上げノブ(兼シャッター巻き上げ機構)を取り付ける計画は放棄され、フイルム枚数計のみが残された。カンノンの市販型であるハンザ・キャノンでは、カメラ正面にフイルム枚数計があることが、外見上の大きな特徴となる。
(←ハンザキヤノン・1935)
 これは、フイルム巻き上げノブ(兼シャッター巻き上げ機構)を正面に位置させた場合、カメラ内部に使用する動力伝達機構の傘型歯車が、当時の技術力では精度が出にくいと判断された為であり、それと共にセルフタイマー兼スローシャッター装置をカメラ上面に設置することが不可能となり、放棄された。
 このスローシャッター装置(広告の技術的特徴(4))は、原型となったライカ、或いはコンタックスにも該当するものは無い。
 この装置は、昭和7、8年頃にフランス・ルミエール(Lumier)社が発売していたエラックス(Elax)という、ごく珍しいヴェスト判小型カメラのスローシャッター装置に大変良く似ている。また、このカメラはシャッター幕が金属製であり、連動距離計こそ装備していないが、シャッター機構に関してカンノンの技術的特徴と共通点が多い。
 従来の研究では、カンノン発売予告広告に出ている技術的特徴Dの「Z式ジュラルミンシャッター」は、如何なるものだったのかを巡り、研究者は吉田の思い描いた画餅に過ぎず、ジュラルミンを使った金属幕シャッターは当時の技術では実現不可能という評価が先行している。

 しかし、筆者はカンノンのシャッター機構が、このルミエール・エラックスのものを範としていた可能性があると考える。
 ルミエール社は、一般写真用カメラのメーカーとしては無名な存在だが、映画機械では著名なメーカーであり、カンノンの製作者である吉田五郎が、もともと映画機械に広く通じた職人であったことは示唆的である。カンノンのモデルになった機材は、従来の研究者が主張するライカ・コンタックス以外にも、ヴェスト判フイルムを使用する小型カメラにモデルとしたものが存在した可能性があると考える。
 この時代、35ミリよりもヴェスト判フイルムが広く一般写真には普及しており、他にも全く同じ機構構造を持ちながらも35ミリ判、ヴェスト判フイルム用、2つのフオーマットで開発されたカメラとしてはドイツ・イハゲー(Ihagee)社製の小型一眼レフであるエクサクタ(Exakta)が広く知られている。

―共通しない特徴部分―
 次に、3回行なわれたカンノン販売予告広告(A)〜(C)の中で変化した特徴部分を考察する。これは、一般に軍艦部と呼ばれるカメラの上部構造、距離計連動部の変化に集中している。ライカの実用新案回避の為の開発の過程である。(A)と(B)のカンノンの連動距離計と、ビューフアインダーの構造は、ライカそのものであり、「冩真器鏡玉ノ距離調節装置」(実用新案・201490号)に抵触する危険性があった。吉田五郎も、それに気がつき(C)カンノンでは折りたたみ式フアインダーに変更となっている。よって、吉田が「冩真器鏡玉ノ距離調節装置」(実用新案・201490号)に気付いたのは昭和9年6月から9月までの間と期間であると考えられる。
 後に、吉田は開発その他の意見の相違から、昭和10年頃には開発から手を引いた。代わって製図工・時計職人によって引き続きカンノンの開発が行なわれる。

 その時には距離計連動部等の光学部分、カメラマウント、レンズの全てにわたって日本光学で開発が行なわれる。カンノンの市販型であるハンザ・キヤノンにおいてシャッター構造も金属幕式は放棄され、布幕フオーカルプレン式のライカ方式になった。(もっとも、ジュラルミンを用いた金属幕シャッターは試作の域を出ることはなかったと考えられる。)
 また、吉田が開発から手を引いた時点でヴェスト判の開発も中止になったものと考えられる。
 総じて、吉田は、このような経緯からライカに範を取った国産35ミリカメラ「カンノン」を試作し、完成させている。その開発経緯は、ライカのみではなく広範囲な同時代のカメラの機構を取り入れた複雑なものである。

 カンノン試作の経緯は、精密機械工作に限れば、民間の職人の技術で、ドイツ製(特にライカ)の完全な複製、機構的複製、それを基礎としたが開発が、昭和初期の民間光学工業でも可能な範囲であった事を示しており、それは更に昭和8年頃には、吉田五郎が部品の下請けに使っていた時計歯車等を製作する町工場でも、カメラ内部を構成する部品を作り得る水準に達していた事を示している。
 後に日本光学にレンズの供給を依頼する為に「カンノン」を持ち込み、技術評価を受けた際にも、相当の技術完成度を有していると日本光学技術部長・砂山角野から評価されている事からも、その完成度が伺える。
 つまり、昭和初期段階の日本においては、ライカ型カメラのボディ開発と市場参入に関して、精密機械工作と機構的複製に限れば、その技術水準における参入障壁は事実上、存在しなかった事を意味している。
 しかし、目途のついていない部分もあった。それは、高品質なレンズをどう供給するかというカメラの死命を制する課題である。



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