周防説などは佐々木小次郎のその後を伝える!!
 佐々木小次郎に関する情報には色々あって、特に出生地を巡る議論は実に喧(かまびす)しい。  TOPへ
 
 ところで、越前説(高善寺説、浄教寺説)、岩国(周防山口)説、豊前説などに出てくる佐々木小次郎はそれぞれ別人であろうか?そうではなく、岩国説や豊前説は越前・富田勢源道場で勢源の弟・治郎右衛門景政と勝負してこれに打ち勝ち、その後、剣の修業に旅立って行った小次郎のその後の人生をそれぞれに伝えているように思われる。

1.高善寺説(福井県今立町)
 高善寺の第11代住職・教光坊善空法師は佐々木四郎高綱の末裔である。第17代住職・宗善法師の6男に生まれた佐々木小次郎は宇多源氏の血を引いてか、幼少より高綱の武勇に憧れたのか仏門を嫌った。当時の越前国主・朝倉氏の剣術師範を務めていた直線距離にして8Km程の富田勢源の道場に通い、ツバメ返しの秘術に開眼した。小次郎は18歳の時に幼少より愛用していた五郎八茶碗を割り「剣の道に一生をかける。二度と寺には戻らぬ。」と誓って出たとの言い伝えが寺にある。小次郎公園には直木賞作家・安西篤子氏の撰文による記念碑が建てられている。

2.浄教寺説(福井市)
 
宮本武蔵の伝記である『二天記』(豊田景英、1755年)は次のように伝える。

 
・・・・・岩流小次郎という剣客あり。越前宇坂の庄、浄教寺村の産なり。同国の住人・富田勢源の家人となりて稽古を重ねる。長ずるに及んで勢源の打太刀を勉める。勢源は一尺五寸の小太刀で三尺余りの太刀に勝つ事をなす。高弟小次郎に及ぶ者なし。勢源の門弟・治郎右衛門と勝負してこれに打ち勝つ。依りて勢源の下を去って自ら一流を建て岩流と号す。・・・・・

  富田勢源の道場跡とされる田畑(福井市西新町)と富田勢源の菩提寺・盛源寺
はすぐ近く(100m余り)である。
 
                                                                                                                       越前・若狭紀行

3.その他の生誕地説や伝承
◎周防説
 岩国の錦帯橋でツバメ返しに励んだという。小次郎が生きた時代に錦帯橋はなかったので錦帯橋に絡めるのは間違いであるし、小次郎につながる物証や傍証が何もないようでは出生地とは考えられない。しかし、ツバメ返しの修業にはそれなりの時を要しただろうから岩国にも滞在していた可能性はある。

◎豊前説、筑前説
 「筑前名所図会」(1821年、奥村玉蘭)には四つ目結いを羽織った小次郎が弟子の稽古を見守っている様子が描かれている。小倉で道場を開いていたという言い伝えは事実である可能性が高い。
  
 先祖が佐々木小次郎では、と言われる方々がおられるというが、「先祖が佐々木小次郎の人」はいてもおかしくないし、ましてや宇多源氏は相当に栄えた氏族であるから宇多源氏の後裔は今の日本社会にも幾万人もいると思われる。佐々木姓の人が多い地域があるという話も耳にするが、家紋が四つ目結いで代々佐々木氏を名乗る家系ならその可能性はあるが、家紋の使用については法的な規制があるわけではないので家紋で断定することはできない。

 下図は宇多源氏の繁栄を表している。生国・越前を発った佐々木小次郎は周防、豊前、筑前など各地で栄える宇多源氏の血脈で繋がった広範なネットワークの中(或いはその近く)に身を置いて剣を極める人生を送ったのだろう。
小次郎の伝承が残る所は周防、豊前、筑前など何れも宇多源氏とゆかりの深い土地が多い。周防説、豊前説や筑前説などには小次郎の消息が断片的にせよ刻み込まれていると思われる。
                                                                                                             

   『本朝武芸小伝』は巌流島で最後の戦いに臨んだ小次郎の剛勇を今に伝える。
『本朝武芸小伝』(1716年日夏繁高、綿谷雪〔訳〕人物往来社

 中村守和いわく。巌流、宮本武蔵と仕相のこと昔日老翁の物語を聞きしは、すでにその期日に及んで貴賤見物のため舟嶋に渡海することおびただし。巌流も船場にいたりて乗船す。巌流、渡守に告げて日く、「今日の渡海甚し。いかなることかある」渡守いわく、「君知らずや、今日巌流という兵法づかい、宮本武蔵と舟嶋にて仕相あり。このゆえに見物せんとて、未明より渡海ひきもきらず」という。巌流が日く、「吾れその巌流なり」渡守おどろき、ささやいて日く、「君巌流たらば、この船を他方につくべし。早く他州に去り給うべし。君の術、神のごとしというとも、宮本が党はなはだ多し。決して命を保つことあたわじ」 巌流いわく、「汝が言うごとく今日の仕相、吾れ生きんことを欲せず。然りといえども堅く仕相のことを約し、たとい死すとも約をたがうることは勇士のせざるところなり。われ必ず船嶋に死すべし。汝わが魂を祭って水をそそぐべし。賤夫といえどもその志を感ず」とて、懐中より鼻紙袋を取り出して、渡守に与。渡守涙を流してその豪勇を感ず。すでにして船嶋につく。巌流舟より飛び下り、武蔵を待つ。武蔵もまたここに来たりて、ついに刺撃におよぶ。巌流力を励し、電光のごとく稲妻のごとく術をふるうといえども、不幸にして命を舟嶋にとどむと也                                        

 宇多天皇の後裔である宇多源氏は初代・源雅信(みなもとのまさのぶ、920〜993)に始まる。経方が近江蒲生郡佐々木庄に住み佐々木氏を名乗った。佐々木氏からは幾人もの傑出した武将が生まれた。
 第7代・
佐々木秀義は平治の乱(1159年)で源義朝方にあって戦略を縦横に駆使した勇将であった。頼朝が伊豆の蛭ケ小島(ひるがこじま)に配流されていた時より頼朝の厚い信頼を集め、頼朝の旗揚げには定綱以下の子息とともに駆けつけた。
 その中で特に4男の
四郎(史郎)高綱は宇治川の先陣を果たして(1184年)勇名をはせた。鎌倉幕府成立後は定綱が長門・近江、義清は出雲・隠岐の守護についた。
 
高信は勢多橋の修理に際して(1235年)日吉神社と争い豊後(大分県)に流された。
 
氏信は鎌倉幕府の要職にもあったが、後に京都・高辻の京極邸を譲り受けてより京極と称された。京極氏の祖である。
 
宗満は近江国伊香郡黒田庄に住んだ事から黒田を称した。後裔に黒田孝高(よしたか、官兵衛、1546〜1604)がいるが、その子の黒田長政(ながまさ、1568〜1623)は筑前福岡藩主としてに52万3000石で入封している。

※数百年前からの系図であるから細部については異説がある。