過去ゆえの現在

 今の自分の境遇に不満を抱いている方はこの世に沢山居られると思いますが、それは過去の、自らの言行のせいだと言えます。前世での言行、あるいは今生に生まれて今日に至るまでの言行、言動、それらの集積の結果が現在の貴方だといっても過言ではないのです。
 シルバーバーチはこのようにいっています。

 苦しみの要素も摂理の一環です。いわれのない苦しみを被っていると思っている人も、やはり過去において何らかの形で摂理に反したことをしているからこそ、今のその苦しみがあるのです。それが因果律というものです。苦しみを味わってこそ摂理がわかるのです

 魂は永遠の存在であり、それまでの思念の一つ一つの結果、口にした言葉の一つ一つの結果、行為一つ一つの結果をたずさえており、結局今のあなたはあなた自身がこしらえた―― 一秒ごとに、一分ごとに、一時間ごとに、一日ごとに、一週間ごとに、一か月ごとに、一年ごとに築いてきたことになるのです。自我の成長は自分で達成するのです。そして、行う行為の総決算があなたの現在の進化の程度を決めるのです。自分以外の誰にもそれはできないのです。

 その行為そのものが、因果律の存在を厳然と示しています。あなたの行為は現在のあなたという人格全体から生み出されるのです

「その現在の人格は各自がこの地上で行ってきた行為の総決算だとおっしゃるのでしょうか」
 その通りです。これまでに行ってきたことの結果が今のあなたであり、今のあなたが行うことが未来のあなたをこしらえるのです。因果律は一瞬の途切れもなく、しかも完ぺきに働いています。完全にでき上がっていますから誤るということがありません。人間界では国家が定めた法律をごまかすことができますが、大自然の摂理をごまかすことはできません。なぜなら、魂にはそれまでの行為の結果が永久的に刻み込まれており、その有りのままの姿があなたであり、それと違うものに見せかけようとしても通用しません。

 エドガー・ケイシーもこう言っています。

 霊魂は体が死んでも滅ぶことはなく死を超えて存続する。人は、かって生き、今生き、来世でも生き続ける。その人がかって行ったことは今に結集し、今行っていることは来世に結集する。魂が持ち運ぶ思想と行動の記録に応じて、罪を犯した者に対する神の審判は死後に裁かれ、償いの人生が割り当てられる。そのいっぽう善は必ず報われる。


 宜保愛子さんも同じようなことを言っていました。

「あなたの来世の運命をつくりあげるのは、ひとえに、現世におけるあなた自身の生きざまなのです」

 シルバーバーチやエドガー・ケイシー、宜保愛子さんらが同じような趣旨のことをいっているのは偶然でしょうか。わたしは決してそうではないと思います。

 カルデックの「霊の書」でもこう述べられています。

 
人生の苦労は、得てして霊としての不完全さの結果である場合が多いのです。ですから、そういう欠陥が少ないほど苦労も少ないことになります。妬(ねた)むことも羨むことも知らず、貪欲も野心もない人は、そういう欠点をもつ者が遭遇する苦悶を味わう必要はありません

 不運や逆境を嘆く前に、己を捨てて人のためにつくすという姿勢を持つことが大切です。そうすれば必ず、一年後、二年後、あるいは来世かも知れませんが、きっと充実した人生を迎えることができるようになるはずです。

 
しかし、そうなるまでにはさまざまな苦難が押し寄せてきます。そんなときは、シルバーバーチのこの言葉を噛みしめて勇気を奮い起こします。

 
価値あること、成就するに値するものほど、達成するのが難しいものです。楽には達成させてくれません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。
 それもこれも、人間形成の一環なのです。それらにどう対処するかによって魂の成長が決まります。魂の奥に潜在する最高のものが簡単に引き出せるとしたら、それは価値あるものとは言えません。
 ですから、とにかく挫けないことです。内在する霊的資質を活用して克服できないほど大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に用意する邪魔も、内在する力を発揮して立ち向かえば、必ずや消滅します。あなた方は地上生活において本来の自分のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。


 また、こうも言っているのです。

 地上界の全ての人が完ぺきな信念をもてば、大霊(神)はそれぞれの願いを嘉納されることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられるでしょう。
 神の摂理はそのようにして働くのです。つまり摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっているのです。結果が出ないということは、生き方のどこかに摂理に順応していないところがあることの証拠です。
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