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地震の話し(10) -- 終わり --


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ほんの2〜3時間寝ただけで会社へ向かう。
電車が会社の最寄り駅までは動いていない。1つ手前まで。
歩いてもたいした距離ではないので一応行ってみる。
反対側は全然動いていないので、向こう側から来る人は来れない。
とりあえず社員が無事か、それを確認することと、後片付け。
ウチの課は30人強の人間がいて、その日連絡がとれなかったのは2人だけ。
大体みんな無事だ。でも家が壊れた人は何人かいた。

3日後、JRが回復する。
これはオレの行っている会社方面の話しで、神戸方面はまだまだ。
でもこんなに早く回復するとは思わなかった。
そのため、会社は地震の日を含め3日間は会社に来れなかったとしても欠勤扱いにはしなかった。
でもそれだけ。
あとは個別に対応だったらしい。

会社の人の中には避難所から直接来る人もいる。
1月だからとても寒い。
いつもキャンプとかに行く仲間たちで寝袋を集め、その人の家族に渡した。
でもお見舞いに行くと、1家族だけに親切にするということに抵抗を感じる。
オレたちにできたことは、軍手を数ダース差し入れただけだった。

1週間後、連絡のとれなかった最後の一人の連絡が着いた。
家の1階が崩れ、2階が1階になって、その1階に住んでいるという。
えらいことになっているなあ、と会社に出てきた時に聞いたら、そんなことにはなっていないという。
デマが多かった。
しかし、彼が言った言葉がいまだに印象に残っている。
「オレの周りにな、引田天功がたくさんいたよ(笑)」
いったい何を言い出すのか???....
つまり、こんなになった家からどうやって生きて出てきたのか、という人たちが沢山いたんだって。(笑)

須磨の親戚は、おじさんだけウチの家に2週間ほどいた。
会社に近いのと、会社に行く必要もあったからだ。
おばさんも来たら?と言ったのだけれど、家の近くにいないと補給物資ももらえないのと、
何の連絡も入ってこないのと、家が心配なのと....と色々気になることがあって避難所に残った。

1年半ほどで通常の生活には支障がないほどに阪神間の町は復興した。
でも今でも震災後の復旧工事は続いている。
そして、仮設住宅にはまだ沢山の人たちが暮らしている。
この3年間、震災復興に対する政府のやり方には満足していない。
そして、だんだんあの震災のことは忘れさられていっている。
でも、あれが東京だったら、もっと真剣になっているハズだ。

先進国と言われる国では、大きな災害があった翌年には、
災害復興の予算のために他の国家予算を押さえているそうだ。
阪神大震災の翌年、日本は災害復興より、バブル後の経済を立て直すための予算に重きをおいた。
大正時代の関東大震災の時でさえ、大日本帝国政府は災害復興の予算を沢山割り当てたらしい。
今の日本政府は何かおかしい。
国民がこれが普通だ、常識だと思うことと、彼らが思うことに矛盾がある。
村山元首相が悪いとは思わないけど、憤りがたくさんあったことは忘れまい。
(注:この時にはこんなことを書いているが、東日本大震災の菅政権はもっとひどかった)
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長いこと付き合ってくれてありがとう。
これで「地震の話し」は終わりにする。
初めに書いたけど、人は忘れないでおこうと思っていても、時が経てば記憶が薄れてしまうことがある。
絶対に忘れてはいけないことは、忘れないような努力も必要なんじゃないか、そう思うことがある。
メールすることで、あの時のことが文字で残った。
ありがとう。

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