eoさんの旅ノート
南極半島クルーズの旅 船7日目〜10日目 ここ
コース関連概略図

スター・プリンセス号で行く 南極半島クルーズの旅  改訂版
船11日目〜帰国へ

チャカプコ

チャカプコからプエルトモンへ向かう   チリの海岸線の景観はどこも美しかった

【船11日目】  【2010年】 2010年2月12日 ウシュアイア

 私達は、可能な限り、日の出・日の入りは外で見ることにしている。今日も早朝6時過ぎ、甲板に出て朝日を見る。しばらくすると、薄暗がりに浮かぶ、近づくウシュアイアの街の灯りが見えてきた。ゆっくり眺めていると、ここらあたりの海岸線はとても美しい。風光明媚といっていいくらいだ。
 7時頃、ウシュアイアに接岸。ほぼ1週間ぶりの寄港地である。私達には、22年ぶりの2度目の訪問でもある。

 9時半am頃上陸し、街を歩いてみた。街の様子が22年前のままではないことは分かりきったことだ。下船して街に出るには税関?などのチェックポイントを通ることになるが、そのチェックポイントまで、土産物屋がびっしり並んでいるのにも驚かない。世界中の観光地はどこも同じ。10年も経てば、この程度の変わり様はどこも同じだ。

 海岸通りを歩いてみる。敷石が敷かれ、海岸とを仕切るフェンスが続く。そうだ、22年も私はここにいた!はっきり思い出した。その場の、敷石とフェンスと海との距離感覚が、あの時を思い出させた。
 ここで、私はビデオ撮影機のテープが終わったのでテープを交換しようとしたのだ。ところが、テープ収納ボックスが開かない! いろいろやってみたが、どうにもならない。  Sony のHandycam 、ハンディなビデオ撮影機としては最初に市販されたもので、安くはなかったが、世界の辺境パタゴニアまで行くのだから、と、大枚をはたいて購入したものだった。勿論、初めて使用するものだったし、テープ交換も慣れてはいなかった。それがうまくいかない! 結局、諦めるしかなかった。パイネ、フィッツロイなどパタゴニアの主要見所を見終わった後だったので、あっさり諦めることができた。(帰国後、Sonyに修理を依頼。Sonyからは、撮影済みのテープと新品のHandycamが送られてきた。)
 22年前、海岸通りの敷石の上で、フェンスの横で、私はHandycamをいじくりまわしていたのだ。敷石はこんなに美しくなかったし、フェンスもこんなにモダンなものでなく、錆びてたとまでは言わないが古びていた。
 なんだか、とてもなつかしい。

 街中に入ると、まるでショッピング街。観光客向きの店が軒を連ねている。暇にまかせて、1軒1軒店の中をのぞいた。驚いたのは、売られている物がペンギングッズばかり。あきれる程、ペンギングッズばかり。扱っている商品にペンギンマークが付いていない商店は、本当に数えるほどしかない。ここウシュアイアの"売り"はペンギンしかないのか、と言いたくなった。

 実は、私は、毛皮のコートなどを売っている店を探していた。
 22年前、ここウシュアイアで私は毛皮の半コートを買った。ビーバーの毛皮だが、素晴らしいもので、価格は日本円換算で5万円位だった。ウシュアイアはビーバーが多く生息する地域でもあり、ビーバーの毛皮はこの地域の特産品であるはずだった。
 今回のクルーズ出発前に、私は22年前に購入したその毛皮の半コートを出してみた。購入後、2度ほど着たことはあるが、以来着る機会もなく、この10年以上の間、カバーを掛け、ハンガーに吊るしたままのものだ。目の前にしたその毛皮の半コートは、変わらず、美しく素晴らしい。正直、感動したと言っていいくらいだ。本当に良いものを買ったのだ、と私は思った。
 22年前、私は毛皮を買うつもりでその店に入ったのではなかった。当時、ウシュアイアの街には商店が殆ど無く、たまたま、あった店が毛皮専門店であり、だから、店に入ってみて、折角ここまで来たのだからと、そこで見た半コートを買ったというわけだ。滅多に着もしない毛皮コートを、今、私は買おうとは思っていない。ただ、あの店があるかな、なくても、今、あのような毛皮コートがいくら位で売られているのか、などを見たいと思った。
 しかし、私が歩いて見た限り、毛皮専門店は無い。ひたすら、手を変え品を変えしたペンギングッズを売ってる店ばかり。
 ウシュアイアは、やはり、変わった。

 船のオプショナルツアーでは、ウシュアイアからは、シーライオン等の野生動物を見るクルーズetc.があるが、私達は経験済みでもあり参加せず、午後からは、ジャグジーで身体を伸ばす等、船でのんびり過ごした。
 ちなみに、ジャグジーをゆっくり楽しむには、寄港地に停泊の日に限る。通常ならジャグジーはいつも満杯、すき間を見つけて入っても、身体の小さい日本人は身体を伸ばしにくい。寄港地停泊の日には乗客の大半は出払っていて、ゆっくり楽しめるのであります。

ウシュアイア  わが船の停泊する埠頭には、他にも数隻の船が停泊している。どれもが小型船だが、その殆どが南極観光船だ。
 ここウシュアイアは南極観光の基地であり、多くの南極観光船がここから出港し帰港する。南極へ向かう小型観光船は、砕氷船であったりして、大抵、南極上陸する。

 眺めていると、大抵の船が、乗客の荷物積み込み中のようで、これから南極へ向かうようだ。
 それらの船の乗客らしい人々が三々五々集まり、船に乗り込み、甲板に上がって周りを眺めたり・・・皆、意気軒昂のようで、顔を輝かせている。気持ちは充分に分かります。Bon voyage! 良い航海を!

 夕刻、次の寄港地プンタアレーナスへ向かって出港。ビーグル水道からフィヨルド地形を通り、マゼラン海峡を通って進む。途中、船の右舷側に氷河が見えるかも、と聞いていたので、夕食後、客室のバルコニーから外を眺める。私達の客室は右舷側だ。
 「見えるかも」なんてサラリという言い方で聞いていたので、大きな期待はしていなかったけれど、どうしてどうして、素晴らしい景観だった。

【船11日目】  【2011年】 2011年1月19日 ウシュアイア

 7時am頃、ウシュアイアに接岸。小雨。

 夕刻にはプンタアレーナスへ向けて出港。昨年と同じ、ビーグル水道からフィヨルド地形を通る。右舷側に氷河が見えるはずだ。このためにも、私達は右舷側のキャビンを確保したのだ。
 あたふたと夕食を終えて、キャビンのバルコニーにカメラを構えて待機する。

 ほどなく、最初の氷河が見えてきた。この時、氷河が昨年よりも明るくきれいに見えることに気付いた。そうだ、1ヶ月早い分、それだけ日照時間が長いので、この時刻でも充分に明るいのだ。昨年は夏も終わりの時期だったけれど、今年は、今、真夏なのである。
 船の進行方向からみて、オランダ氷河、イタリア氷河、フランス氷河、アルメニア氷河、ルーマニア氷河、スペイン氷河、という名だそうだ。大きな氷河は2つの山にまたがっていたりするので、船から見ていて、どの氷河がどれというのはよく分からないが、この名前には何かの由来はあるのであろう。

 50cmもありそうな大きな望遠レンズをバルコニーから突き出している隣のキャビンの客人が、氷河が見える度に「ヒャー! 「ヒャー! 」とか叫びながら騒いでいた。

フェゴ島フィヨルド地形と氷河景観   スライドショー   (写真14枚)
 
フェゴ島フィヨルド

【船12日目】  【2010年】 2010年2月13日 プンタアレナス

 朝、プンタアレナスに到着。船は、今日は夕刻まで停泊。ここも、私達には2度目の訪問になる。
 街を歩いてみて、こんなに大きな街だったんだな、と思う。22年前にはバスで連れていってもらった高台の展望地に、今度はてくてく歩いて登った。ここから見た景色は22年前とそれほどは変わらない。

マゼラン像  マゼラン像があるアルマス広場に行った。
 22年前は、広場の真ん中にマゼラン像があるだけで、周りにはほとんど人がいなかったが、今は、土産物を売る露店がマゼラン像をぐるりと円型に囲み、観光客でいっぱいだ。

 このマゼラン像も、私達には2度目のお目見えになる。
 その足をなでればもう一度ここに来れる、と聞いて、マゼラン像の足をなでた。何度もなでられてその足はつるつるになっている。それを私もなでた。その時は、まさか本当に再びここに来れるとは思っていなかったが、しかし本当に再び来ることができました。更にもう一度来れますように、今度は本当にそう願って、私は再び足をなでた。

 私達がなでる「マゼラン像の、足」は、実はマゼランの足ではない。マゼランの足は私達が触れるには高すぎる。「マゼラン像の、足」とは、マゼランの像の下にある原住民の足である。
 台の最上部にマゼランが、片足を大砲にかけて、胸を張ってマゼラン海峡の方を眺めており、その下の段に、原住民がうつむくようにして座っている。勿論、22年前も変わらず、この姿だった。
 何故こんなことを書くのかというと、22年前に、フと考えたことがあるのだ。この像は、明らかに、この地域の征服者の象徴であるマゼランが被征服者である原住民を足の下にしている像である。この地域では、これは問題にならないのだろうか、とぼんやりと考えたのだ。
 22年前、パタゴニア旅行出発の前に、この地域を少しは勉強しようと(あのころは、私も真面目でしたね)、ダーウィンの『ビーグル号航海記』を読んでみた。その書物の中に、ヨーロッパ人がこの地域の原住民を殺し尽くしたことが簡単に述べられていて、その記述の後に、「私はキリスト教徒として恥ずかしい」というダーウィンの言葉が続いていた。
 私のダーウィンへの知識は、彼は「種の起源」の進化論の提唱者であり、その理論の構築の前にこの地域を旅行した、ということだけだった。だから、ダーウィンのこの言葉は、私には思いがけないものであり、私のパタゴニア旅行の際にも、私の頭のどこかに残っていたのかも知れない。だから、マゼラン像を見た時に、あんなことを考えたのだろうと思う。そして、今、やっぱり、同じことが頭に浮かぶ。

 夜、モンテビデオへ向けて出港。ここプンタアレナスからモンテビデオまでには、3日間の終日航海日がある。

【船12日目】  【2011年】 2011年1月20日 プンタアレナス

 今日は好天。
 ここプンタアレナスを出たら、昨年とは違うコースを行く。
 チリの海岸線に沿って北上、チャカプコ、プエルトモンと寄港しながらバルパライソを目指す。

【船13日目】  【2010年】 2010年2月14日 終日航海

 午前、7Fのラウンジ「エクスプローラー」で、船のフィットネスセンターの男性日本人インストラクターが講師の「健康&フィットネスセミナー」開催。日本人乗客で広いラウンジがいっぱいになった。

【船13日目】  【2011年】 2011年1月21日 終日航海

フィヨルド  朝は霧。9時am頃にはマゼラン海峡を抜けて太平洋に出る。
 強風。
 昼過ぎには、再びチリのフィヨルド地形の中に入ったが、 霧で景色はあまり見えない。
フィヨルド   

風がウワーンウワーンという唸り声をあげ、
さすがにここはパタゴニア、と思わせる。


船14日目】  【2010年】 2010年2月15日 終日航海

 下船説明会があった。

【船14日目】  【2011年】 2011年1月22日 終日航海

 早朝にはフィヨルド地形を抜けて再び太平洋に出る。
 強風に、荒れた海、さすがに外海。揺れる。歩くとちょっとよろけそうになる。
 立ち話をしながら「揺れますねえ」と言うと、日本人コーディネーターさんが「10万トンの船だからこれで済みます。5万トンだったら、とても立っていられないはず」と。やっぱり10万トンの船で良かった、と、揺れが怖い私達はつくづく思った。

【船15日目】  【2010年】 2010年2月16日 終日航海

 朝8時半から日本人コーディネーター土屋さん主催の「ツッチー主催 ビール争奪 日本国民の朝早くから輪投げ大会」開催。床に立てて置いてあるビールへ向けて輪投げする。輪がビール瓶に入ったら、そのビールを獲得。参加者は30人ほどだったけれど、皆、ワイワイ言いながら楽しんだ。それにしても、輪投げって意外と難しい。

【船15日目】  【2011年】 2011年1月23日 チャカプコ

 この日の夜中から船はまたまたフィヨルド地形に入り、7時am頃にはチャカプコ湾に停泊。

 私達にも初めてのチャカプコ訪問なので、船主催のショアエクスカーション「コイハイケとシンプソン渓谷」に参加した。

 コイハイケに向かうバスの車窓から見える景色はやさしく美しい。なんとなく、日本的な景色かな。ここは南アンデス山中だそうだが、荒々しさはなく、風光明媚といってもいい。  コイハイケはこの地方の州都だということで、小奇麗な街。  シンプソン渓谷は、想像していたより小さな、静かな渓谷だ。

昼食  
 「昼食付き」なので、
 渓谷の近くの静かなレストランに立ち寄る。
 軽食ではあるが、チリワイン付きのブッフェで、なかなか豪華。
 結構、いい気分になった。

【船16日目】  【2010年】 2010年2月17日 モンテビデオ

 モンテビデオ、ウルグァイの首都
 街を歩いてみる。観光客受け入れ態勢完璧と言っても良いような街だ。
 街への入口に、街のガイド図を並べた台と、そばに若者が立っていたので、「(ガイド図)How Much?」と訊くと、「無料です、どうぞどうぞ。」
 街中の大きな通りの角にはどこでも、 Tourist Police と大きく書かれた黄色のジャケットを着た警官が、「何でも訊いて!」という雰囲気たっぷりで立っている。
 街そのものも、綺麗に清掃されている。
 観光客を意識し過ぎているような感じで、普段(観光客のいない)はどうなのか?と思ったりするが、とかく治安が問題視される南米の都市の中で、観光客受け入れによって国家の生き残りを賭けているのかも知れない、などと考えてみると、応援したい気持ちもわいてくる。

 明日は下船。手荷物以外の荷物を今夜中に客室ドアの外に出す。下船後にその荷物を受け取ることになる。

【船16日目】  【2011年】 2011年1月24日 プエルトモン

 7時am頃にはフェルトモンの港沖に停泊。ここでも私達はショアエクスカーションに参加。コースは「ペトロへ河とエスメラルド湖」。「天気が良ければ富士山そっくりのオルソノ火山の眺望が楽しめる」という説明文句に惹かれて、これに参加を決めた。

 ガタゴト道を2時間近くもバスで揺られ、エスメラルド湖の船着場に到着。

 天気は、時折晴れ間がチラとのぞくだけで、全体に雲が垂れ込めている。これでは"富士山"の眺望は無理、となかば諦め気分。

オルソノ火山  
 ところが、ところが、船が動き出した途端、
 雲がさーっと切れて、青空がひろがったのだ。
 きっと、日頃の行いのよほど素晴らしい人が客の中にいたに違いない。

 ペトロへ河は滝で有名だ。階段状に水が落ちる滝で、 Petrohue Cascade カスケードと言った方がいい。

ペトロへ滝  16Mbの動画です。表示時間は1分4秒

 水が落ちる落差はあまりないのに、大量の水が落ちる迫力がすごい。また、その水の美しさ!
 エスメラルド湖の水もそうだったが、ここらあたりの水の美しさも素晴らしい。エクスカーションのこのコースを選んだのは大正解だった。

 このコースも「昼食付き」。エスメラルド湖を見下ろすレストランで、コース料理だがチリワイン付き。おまけに、富士山そっくりのオルソノ火山の堂々たる眺望付き!

【船17日目】  【2010年】 2010年2月18日 下船

 朝、ブエノスアイレス着
 コーディネーターの土屋さんと一緒に下船した。  荷物集積所で私達のトランクを受け取ってから土屋さんとバイバイ。タクシー乗り場へ行ったが、下船したクルーズ客が並ぶ長蛇の列に嫌気がさし、埠頭を出て、流しのタクシーを拾って、再びホテル・シェラトン・リベルタドールへ行った。

 午後からブエノスアイレス市内を歩き回った。ひどく暑かった。

 夕刻、ホテルに戻り、客室の大きなガラス窓からふと外を眺めて、正面はるかにスタープリンセス号が見えるのに驚いた。私達の客室は17階。客室のガラス窓がたまたま、港のスタープリンセス号が停泊する埠頭の方向を向いていて、17階の私達の客室とスタープリンセス号の埠頭との間に視界をさえぎる高層の建物が無いということのようだ。
 ついさっき下船したばかりというのに、なんだか懐かしくて、嬉しい。いいクルーズだったなあ、という思いがわきあがってきた。
 スタープリンセス号は次にパタゴニアからチリのパルパライソに向かうそうだ。船の今夜の出港をここから見送りたいと思っていたが、夕食で外出した間にスタープリンセス号の姿はなくなっていた。食事は、前と同じ、Shopping Mollのフードコートで。

【船17日目】 【2011年】 2011年1月25日 終日航海

 午前中に、日本語での下船説明会があった。

【2010年】 2010年2月19日 帰国へ

 今日、いよいよ帰国。帰国の飛行機は9時半pmなので、時間はたっぷりある。
 午前中に、ゆっくり荷物の最終的な整理をする。
 午後から、サン・マルティン広場でのんびり過ごした。ベンチに寝そべり、草の香を楽しみ、鳥の声を聴いた。気持ちがよかった。
 だが、いくら心地よくても…今日、日本に帰らなくては。
 公園を出て、ホテルへ向けて歩きだした、その時には、飛行機に乗るまでにあんなトラブルに遭遇するとは想像もしていなかった。

トラブルその1
天災:<対策>万一を考え、帰国便の空港には早く行くこと
 帰りの飛行機は、ブエノスアイレス9時30分pm発。ブエノスアイレス街中から空港まで通常でも40分、渋滞を考えると1時間をみておかなけれならない。国際線のチェックインタイムは通常なら7時30分pm。空港には、6時pm頃から向かえば問題ないだろう。
 しかし、時間を多少もてあましている。街中で疲れるよりも空港内でもぶらりとしようかと、まだ4時pm少し前だが、空港に向かうことにした。まだチェックインも始まっていないだろうがまあいいかと。ホテルに預けていたトランク等を出してもらうと、ホテルがタクシーを呼んでくれた。
 タクシーが走り始めるとほぼ同時に、雨がポツリポツリとタクシーの窓を濡らした。街中を抜けて高速道路に出たあたりから、雨はどしゃぶりに変わる。横を走る車がすごい水しぶきをあげている。そのうち、私達の乗るタクシーの屋根を打つ雨の音が、ドシンドシンというような、聞いた事もないような音をたてた。この短時間のうちに、雨は豪雨に変わっている。
 ほどなく、高速道路の路面そのものが見えなくなる、つまり、路面全面が海のようになっている。状況の変化の速さが信じられないほどだ。横を走る大きなトラックの車輪の後には、水しぶきではなく、大波がたっている。「わあ、トラックが海を泳いでるみたいだあ」と私は呑気に面白がっていたが・・・・面白がっている場合ではなかった。
 急に私達のタクシーは横道にそれ、広場のような場所でスっと停まった。運転手はスペイン語しか話さないが、どうやら、豪雨からの一時的な退避らしい。見る間に、その広場は退避する車でいっぱいになった。まるで車の展示場のようだ。豪雨は止まない。この広場そのものも冠水して地面は殆ど見えない。見てもしょうがないと思いながらも雨が地を打つのをじっと見続け、じりじりと時間だけが経過していった。
 雨音が少し静かになったかなという頃、高速道路をまたいでいるらしい歩道橋の階段を上って移動する人々の群がある。少しでも濡れないよう、皆、大きなビニールを頭の上にかざしている。ツアーのグループだろう。離れないように一列になり、連なって歩道橋を上ってゆく。いくつかのグループがそれに続く。
 旅行プランが時間いっぱいにスケジュールを組んでいるとすると、飛行場に向かうこの場面は何としてでも打開しなければならない場面だろう。大変だろうな。しかし、私達には、2時間以上余裕がある、このことが気持ちの上で救いだった。勿論、最悪の場合も考えた。つまり、私達は格安航空券なので、予定の飛行機に乗り遅れた場合、変更は効かない。そうなると、帰りの航空券は全額自己負担で購入となる。当然、こんなところで格安航空券なんてないので、正規料金での購入となる。
 だが、なんといっても私達には2〜3時間の余裕がある。本気では、それほどの焦りは感じなかった。
 やや小雨になり、冠水していた広場の地面が少し見え始めると、退避していた車が高速道路横の脇道に向けて動き始めた。私達のタクシーもそれに続く。脇道は車がいっぱいで渋滞。のろのろと進むが、進んでいるだけでもマシだ。横をはしる高速道路はまだ完全に冠水しており、逃げ遅れた車だろうか、車体の1/3ほどが水没した状態で停まったまま、ポツンポツンと取り残されている。
 やがて私達のタクシーは高速道路に戻る。そこはもう冠水していない。しかし、このころから再び豪雨。視界は殆ど無く、前を走る車のテールライトが頼りという感じ。どの車も猛スピードで走る。前を走る車の、ボーっとかすんだ赤いテールライトを見ていると、頭上にビニールをかざして歩道橋を上がっていったあの人々は、空港にたどり着けただろうか、とふと思った。
 ブエノスアイレス国際空港に着いたのは6時pm頃。長いように感じたが、1時間ほど余計にかかっただけだ。なんといっても、早く街を出たのが良かった。

トラブルその2
人災その1:<対策>アメリカ経由なら、ESTA申請・許可書のプリントアウト紙は手元に必携
 チェックインはもう始まっていた。搭乗券をもらうチェックイン窓口に行く前に、パスポート等をチェックする係員がいて、私達もチェックを受ける。アトランタへ? アメリカ経由ならESTA申請・許可書(アメリカ入国許可書)のプリントアウト紙を見せろ、と係員は言う。ESTA許可番号のメモを見せたが、プリントアウト紙でなければダメ、の一点張り。
 日本を出る時、ESTA申請・許可書のプリントアウト紙は確かに持って出た。しかし、帰りのトランクを詰める際に、何気なく、そのプリントアウト紙、いらないよね、と考え、手元のバックでなく、トランクのどこかに詰めたのだ。だから、今は、手元には無い。
 その係員であるオニイチャン、「Do You Have Or Not? もってるの?もってないの?」と詰め寄る。トランクのどこかにある、と答えると、トランクを開けて探し出せ、と言う。なんとも高飛車だ。
 トランクのどこかに詰めたのは確かだが、どこだったかまで覚えていない。人目の多いロビーで、少しでも目立たない場所(実際、目立たない場所なんてなかった)に移動し、2つあるトランクの1つ目を開ける。全部ひっくり返して探したが無い。2つ目のトランクを開ける。底を探って・・・あった! やれやれ。オニイチャンも、お疲れさん、という表情。
 これは私自身のミス。考えが甘かった。手元にもっておくべきだった。

トラブルその3
人災その2:<対策>空港係員には常ににこやかな対応を
 私とつれあいの分2枚のESTA申請・許可書のプリントアウト紙をオニイチャンに、それこそ捧げるようにして見せた。
 その2枚をじっと見つめたオニイチャン、やおら、これはダメ!と言う。え!?どうして!? なんと、この2枚は 「Not Similar (似てない)」 とオニイチャンはノタモウた。似てないので信用できない、と。
 確かに。つれあいの分は2008年末に申請したものでプリントアウト紙はその当時のもの。私の分は、2009年末に申請したもの。見た目は確かに違っている。2009年末の分にはESTAのロゴマークが印刷されているが、2008年末の分にはロゴマークが無い。なぜレイアウトが違うのか、いや、変わったのか。それはアメリカのESTA当局?が決めたことであって、私達が勝手にレイアウトしたわけじゃない。しかし、どちらも間違いないESTA申請・許可書のプリントアウト紙だ。こちらも必死で、見た目が違うのは申請の時期が違うからだと主張したが、私達の下手な英語が通じないのか、オニイチャンに聴く気がないのか、No! No! と繰り返すばかり。
 文書は日本語で書かれているので読めないのは仕方ないが、彼は、パスポート番号やESTA許可番号らしきものを文書から捜そうともしない。要するに、クソ真面目な空港係員であるオニイチャンは、ひたすら、”それらしい”プリントアウト紙を要求しているのだ。
 途方に暮れる私達をみて、「OK、OK, Follow Me (ついて来て)」 と、私達のトランクを乗せたカートを彼自身で押しながら私達を先導し・・・行った先は、インターネットコーナー。5ペソを私達に支払わせ、オニイチャンはパソコンの前に座り、Web をたちあげた。スペイン語のESTA関係の画面を表示してあれこれやっているが、私達は彼が何をしようとしているのか理解できない。パスポート番号からESTA許可番号が分かるシステムがあるのだろうか。「I Can't Remember (どうやるんだったっけ?)」などと言うから、彼は何かを教わってはいるのだろうが。挙句は、私達に「やり方、知らない?」なんて訊く始末。
 私達の提示するESTA申請・許可書のプリントアウト紙には何の問題もない。それが、空港係員の見たことのないものであっても、それは見たことのない方の問題であって、わたしたちの問題ではない。まずもって、わずか5ペソとはいえ、空港係員の仕事にかかる費用をこちらに支払わせること自体おかしい。
 しかし、ここは日本ではない。日本で通じることのすべてが世界で通じるわけではない、ことくらいは私達も知っている。ここはとにかく無事に通過しなければならない。それには、オニイチャンを意固地にならせないことが大事だ。
 私とつれあいは、このオニイチャンの機嫌を損ねるようなことは絶対に口にしない、と確認し合った。彼の背中で、「いい加減にしろよな。ベテランの同僚にでも聞けばすむことだろ?!」と彼に分かる筈のない日本語で毒ずきながらも、オニイチャンの前では彼と同じように、「フム、フム」と深刻な顔をしてみせた。
 やがて、彼は諦めた。OK! 先へ進め、と言う。私達はにっこりと Thank You! と答えた。
 やがて、チェックインを済ませて搭乗券をもった私達をオニイチャンが見ているのに気付き、彼に向かってもう一度、Thank You! と、にこやかに微笑んでみせた。
 時間は7時pm過ぎ。通常のチェックイン時間に間に合うようにコトが済んだのはなによりだ。

 最後に奇妙なオマケが付いたけれど、今回も素晴らしい旅でした。

【船18日目】 【2011年】 2011年1月26日 下船 そして 帰国へ

 早朝に船はバルパライソに入港。下船したのは10時am頃。
 サンチャゴ空港へ行く便利な交通手段がないため、最後にサンチャゴ空港へ連れて行ってくれる船のエクスカーションに参加した。バルパライソとサンチャゴの市内観光の後にサンチャゴ空港へ、のコース。
 5時pm頃にサンチャゴ空港に到着。利用便が10時pm過ぎなので時間があり過ぎると思っていたが、空港内は大変な人の数でチェックインカウンターは長蛇の列。早めに着いてよかった、と実感。2時間前にチェックインカウンターに行けばいいなんて考えていたら、気持ちの上で相当焦ることになっただろう。何事も早めが一番。

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