高貴鄕公諱髦,字彥士,文帝孫,東海定王霖子也。正始五年,封郯縣高貴鄕公。少好學,夙成。齊王廢,公卿議迎立公。十月己丑,公至于玄武館,羣臣奏請舍前殿,公以先帝舊處,避止西廂;羣臣又請以法駕迎,公不聽。庚寅,公入于洛陽,羣臣迎拜西掖門南,公下輿將答拜,儐者請曰:「儀不拜。」公曰:「吾人臣也。」遂答拜。至止車門下輿。左右曰:「舊乘輿入。」公曰:「吾被皇太后徵,未知所爲!」遂步至太極東堂,見于太后。其日卽皇帝位於太極前殿,百僚陪位者欣欣焉。[一]詔曰:「昔三祖神武聖德,應天受祚。齊王嗣位,肆行非度,顚覆厥德。皇太后深惟社稷之重,延納宰輔之謀,用替厥位,集大命于余一人。以眇眇之身,託于王公之上,夙夜祗畏,懼不能嗣守祖宗之大訓,恢中興之弘業,戰戰兢兢,如臨于谷。今羣公卿士股肱之輔,四方征鎭宣力之佐,皆積德累功,忠勤帝室;庶憑先祖先父有德之臣,左右小子,用保乂皇家,俾朕蒙闇,垂拱而治。蓋聞人君之道,德厚侔天地,潤澤施四海,先之以慈愛,示之以好惡,然後敎化行於上,兆民聽於下。朕雖不德,昧於大道,思與宇內共臻茲路。書不云乎:『安民則惠,黎民懷之。』」大赦,改元。減乘輿服御,後宮用度,及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物。
[一] 魏氏春秋曰:公神明爽儁,德音宣朗。罷朝,景王私曰:「上何如主也?」鍾會對曰:「才同陳思,武類太祖。」景王曰:「若如卿言,社稷之福也。」
高貴郷公は諱を髦、字を彦士といい、文帝(曹丕)の孫で、東海定王
曹霖の子である。正始五
(244)年、徐州東海国郯県の高貴郷公に封ぜられた。幼い頃から学問を好み、早熟であった。斉王が廃され、三公九卿は高貴郷公を迎え即位させることを議論した。
(1)十月己丑,高貴郷公は玄武館に到着し、群臣は奏上して前殿(正殿の前にある御殿)に泊まられることを願い出たが、高貴郷公は先帝(曹芳)が居られた所であるとして、忌み避けて西廂に泊まった。群臣はまた法駕(天子の乗り物)で迎えると願い出たが、高貴郷公は許さなかった。庚寅、高貴郷公は洛陽に入り、群臣は西掖門の南でお迎えし拝礼した。高貴郷公は乗り物から下りて返礼しようとしたが、案内の者が願い出た。「儀礼においては、拝礼しないものです。」高貴郷公は「私は人臣である。」といって、返礼をおこなった。止車門に到着すると輿を下りた。左右の側近は「旧礼では輿に乗って入ります。」と言ったが、高貴郷公は「私は皇太后より呼び出されたので、そのようなことは知らぬ!」といって、歩いて太極東堂へ行き、太后に謁見した。その日、太極前殿にて皇帝の位に就き、あらゆる官職の臣下たちは喜んだ。[一]詔勅を発した。「昔三祖(曹操・曹丕・曹叡)は神のように優れた武力と聖人のような徳をもって、天の求めに応じて位をお受けになった。斉王(曹芳)は位を継いだが、勝手な振る舞いは限度を越え、三祖の徳を転覆させた。皇太后は深く社稷を重んじ、宰相の計画を受け入れて、その位を交替させ、大命を私一人に集められた。未熟であるこの身を王公の上に託して、日夜慎み、三祖の大訓を継承して、中興の弘業を広めることができぬのではないかと懼れ、戦戦兢兢としているのは、谷に臨んでいるがごときである。今、多くの朝廷にいる臣下や地方や辺境にいる臣下は、皆徳を積み功績を積み上げ、帝室に忠義をもって勤めている。先祖、先父、有徳の臣、側近の者達を頼みとし、皇室を守り治めることで、朕の暗愚を直して(立派な天子となって)、天子の徳で天下が良く治まるようになることを願う。そもそも人君の道というのは、徳が篤さは天地と等しく、恵みを全国に施すものであり、まず慈愛を第一として、善悪の基準を示し、その後に上流において振る舞いを教化すれば、下流にて人民も教化されると聞いている。朕は徳がなく、大道に詳しくないのであるが、天下と共にこの道に達したいと思う。尚書にあるではないか。『民を安んずるは則ち恵にして、黎民之に懐く。』」大赦をおこない、改元した。輿に乗って出かけることや、後宮の費用を減らし、尚方・御府での多くの職人が技巧を凝らした贅沢なだけで無益な物の製造をやめさせた。
[一] 『魏氏春秋』には次のようにある。高貴郷公は非常に賢明で、颯爽としており、言葉は理路整然としていた。朝廷を退出すると、景王(司馬師)はこっそりと言った。「天子はどのような方であるか?」鍾会(2)は答えた。「才能は陳思王(曹植)と同じく、武は太祖(曹操)と似ております。」景王(司馬師)は「もし貴卿の言葉通りであれば、曹家の社稷の幸いである。」と言った。
(1) 三少帝紀を各皇帝ごとに分割したので分かりにくいが、斉王が廃されたのは、嘉平六(254)年のことである。
(2) 鍾会は字を士季といい、潁川郡長社県の人。豫州鍾繇の子。『三国志』魏書二十八に伝がある。
正元元年冬十月壬辰,遣侍中持節分適四方,觀風俗,勞士民,察寃枉失職者.癸巳,假大將軍司馬景王黃鉞,入朝不趨,奏事不名,劍履上殿.戊戌,黃龍見于鄴井中.甲辰,命有司論廢立定策之功,封爵、增邑、進位、班賜各有差.
正元元(254)年、冬十月壬辰、侍中持節を分けて全国へ派遣し、各地の風俗を見させ、士民を労わせ、冤罪の者や失業しているものを調べさせた。癸巳、大将軍司馬景王(司馬師)に黄鉞を与え、入朝不趨・奏事不名・剣履上殿の特権を与えた。戊戌,黄龍が鄴の井戸の中で発見された。甲辰、役人に命じて〔斉王曹芳の〕廃位と〔高貴郷公曹髦の〕擁立の功績を議論させ、爵位に封じたり、領地を増やしたり、官位を進めるなど、序列を設けて恩賞を与え、それぞれ差が生じた。
二年春正月乙丑,鎭東將軍毌丘儉、揚州刺史文欽反。(戊戌)[戊寅],大將軍司馬景王征之。癸未,車騎將軍郭淮薨。閏月己亥,破欽于樂嘉。欽遁走,遂奔吴。甲辰,(安風淮津)[安風津]都尉斬儉,傳首京都。[一]壬子,復特赦淮南士民諸爲儉、欽所詿誤者。以鎭南將軍諸葛誕爲鎭東大將軍。司馬景王薨于許昌。二月丁巳,以衞將軍司馬文王爲大將軍,錄尚書事。
[一] 世語曰:大將軍奉天子征儉,至項;儉旣破,天子先還。
臣松之檢諸書都無此事,至諸葛誕反,司馬文王始挾太后及帝與俱行耳。故發詔引漢二祖及明帝親征以爲前比,知明帝已後始有此行也。案張璠、虞溥、郭頒皆晉之令史,璠、頒出爲官長,溥,鄱陽內史。璠撰後漢紀,雖似未成,辭藻可觀。溥著江表傳,亦粗有條貫。惟頒撰魏晉世語,蹇乏全無宮商,最爲鄙劣,以時有異事,故頗行於世。干寶、孫盛等多采其言以爲晉書,其中虛錯如此者,往往而有之。
正元二(255)年、春正月乙丑、鎮東将軍毌丘倹(1)・揚州刺史文欽が反乱を起こした。(戊戌)[戊寅]、大将軍司馬景王(司馬師)が討伐に向かった。癸未、車騎将軍郭淮(2)が薨去した。閏月己亥、文欽を豫州汝南郡楽嘉で破った。文欽は遁走し、そのまま呉に亡命した。甲辰、(安風淮津)[安風津]の都尉が毌丘倹を斬り、その首を都へ送った。[一]壬子、淮南の士民で、毌丘倹・文欽の巻き添えになった者に対して、特赦をおこなった。鎮南将軍諸葛誕(3)を鎮東大将軍に任命した。司馬景王(司馬師)が許昌で薨去した。二月丁巳、衛将軍司馬文王(司馬昭)は大将軍に任命され、録尚書事となった。
[一] 『世語』に次のようにある。大将軍は天子を奉戴して毌丘倹討伐に向かい、豫州汝南郡項県に着いた。毌丘倹は既に破れたので、天子は先に帰還した。
私裴松之が各書を調査したが、この事を記載したものはなかった。諸葛誕が反乱を起こし、司馬文王(司馬昭)が始めて太后と皇帝を連れて共に行軍しただけである。〔この司馬昭の行軍の時に〕詔を発して漢の二祖(高祖・光武帝)や明帝(曹叡)の親征を引いて、前例としているので、明帝(曹叡)の親征以後、初めてこの〔司馬昭の〕行軍があったと分かるのである。(4)考えてみると、張璠・虞溥(5)・郭頒は皆晋の令史であり、張璠・郭頒は地方へ出て、官長となり、虞溥は鄱陽内史になった。張璠は『後漢紀』を編集し、未完成のようであるけれども、その文章は読み応えがある。虞溥は『江表伝』を著し、粗いが筋道は通っている。ただ郭頒が編集した『魏晋世語』は、内容が乏しく、全く基礎がなっておらず、最も劣悪であるが、当時としては珍しい事が記述されており、世間に良く広まった。干宝(6)・孫盛(7)等がその内容を採用して、晋書を作ったので、その中にはこのように誤ったものが、往々にしてあるのである。
(1) 毌丘倹は字を仲恭といい、司州河東郡聞喜県の人。『三国志』魏書二十八に伝がある。
(2) 郭淮は字を伯済といい、幷州太原郡陽曲県の人。『三国志』魏書二十六に伝がある。
(3) 諸葛誕は字を公休といい、徐州琅邪郡陽都県の人。『三国志』魏書二十八に伝がある。
(4) 各書を調べたがその記述がなく、司馬昭の行軍の時の詔に毌丘倹・文欽討伐の際の親征が述べられていないことから、『世語』に書かれた内容は誤りだということ。
(5) 虞溥は字を允源といい、兗州高平国昌邑県の人。『晋書』巻八十二に伝がある。
(6)干宝(?〜?)は字を令升といい、晋、新蔡県の人。宣帝から愍帝に至る五十三年間を『晋紀』二十巻(『隋書』では二十三巻・『旧唐書』では二十二巻)に編纂した。また『捜神記』三十巻を著した。(『晋書』巻八十二・『隋書』巻三十三・『旧唐書』巻四十六)
(7)孫盛(?〜?)は字を安国といい、晋、太原郡中都県の人。秘書監。呉昌県侯。『魏氏春秋』二十巻・『晋陽秋』三十二巻を編纂した。七十二歳で卒去。(『晋書』巻八十二・『隋書』巻三十三)
甲子,吴大將孫峻等衆號十萬至壽春,諸葛誕拒擊破之,斬吴左將軍留贊,獻捷于京都.三月,立皇后卞氏,大赦.夏四月甲寅,封后父卞隆爲列侯.甲戌,以征南大將軍王昶爲驃騎將軍.秋七月,以征東大將軍胡遵爲衞將軍,鎭東大將軍諸葛誕爲征東大將軍.
甲子、呉の大将孫峻(1)等の十万の軍勢が寿春に到着したが、諸葛誕は防いで撃破し、呉の左将軍留賛(2)を斬り、戦勝を都に報告した。三月、皇后に卞氏を立て、大赦をおこなった。夏四月甲寅、皇后の父である卞隆を列侯とした。甲戌、征南大将軍王昶(3)を驃騎将軍に任命した。秋七月、征東大将軍胡遵を衛将軍に任命し、鎮東大将軍諸葛誕を征東大将軍に任命した。
(1) 孫峻は字を子遠といい、孫堅の弟、孫静の曾孫。『三国志』呉書十九に伝がある。
(2) 留賛は字を正明といい、揚州会稽郡長山県の人。『三国志』呉書十九 孫峻伝の裴松之注で言及されている。
(3) 王昶は字を文舒といい、幷州太原郡晋陽県の人。『三国志』魏書二十七に伝がある。
八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰洮西,經大敗,還保狄道城.辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰幷力拒維.戊辰,復遣太尉司馬孚爲後繼.九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭沖、侍中鄭小同等各有差.甲辰,姜維退還.冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲.洮西之戰,至取負敗,將士死亡,計以千數,或沒命戰場,寃魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,爲之悼心.其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰䘏其門戶,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏.」
八月辛亥、蜀の大将軍姜維(1)が狄道を侵略し、雍州刺史王経は洮西で戦ったが、王経軍は大敗し、退却して狄道城を守った。辛未、長水校尉鄧艾(2)を安西将軍を兼ねて、征西将軍陳泰と共に力を併せて姜維を防いだ。戊辰、さらに太尉司馬孚(3)を派遣して後発軍とした。九月庚子、尚書の講義が終わった。経書を持って直接教えた司空鄭沖(4)・侍中鄭小同(5)等に恩賞をそれぞれ差をもうけて賜った。甲辰、姜維が退却した。冬十月、詔を発した。「朕の徳が少ないがために、侵略を防ぎ止めることができず、蜀の賊に国境を暴れさせてしまった。洮西の戦いでは、敗北し、将士の死者は一千を数え、あるいは戦場で命を落とした死者の魂は帰らず、あるいは捕らえられて、異域に流されたものもある。私は哀れんで深く痛み、このために心を悼んでいる。郡の典農及び安夷護軍・撫夷護軍の二軍は各長官は彼らの家を訪れて慰めた。賦役を免除を一年とし、ここで力戦して死んだ者は、皆以前の等級とする。漏れがあってなならない。」
(1) 姜維は字を伯約といい、雍州天水郡冀県の人。『三国志』蜀書十四に伝がある。
(2) 鄧艾は字を士載といい、荊州南陽郡棘陽県の人。『三国志』魏書二十八に伝がある。
(3) 司馬孚は字を叔達という。司馬懿の弟。安平献王。『晋書』列伝第七に伝がある。
(4)
鄭沖は字を文和といい,司州滎陽郡開封県の人。『晋書』列伝第三に伝がある。
十一月甲午,以隴右四郡及金城,連年受敵,或亡叛投賊,其親戚留在本土者不安,皆特赦之.癸丑,詔曰:「往者洮西之戰,將吏士民或臨陳戰亡,或沈溺洮水,骸骨不收,棄於原野,吾常痛之.其吿征西、安西將軍,各令部人於戰處及水次鉤求屍喪,收斂藏埋,以慰存亡.」
十一月甲午、隴右四郡(隴西郡・南安郡・天水郡・広魏郡)と金城郡では、連年敵の侵攻に遭ったため、ある者は敵側についたり、賊に身を寄せたりした。その者たちの親戚は本国にいて〔罪に問われるのではないかと〕不安であったが、皆特赦をおこなった。癸丑、詔を発した。「先の洮西の戦いでは、将軍・軍官・兵士・人民が敵軍に相対して(1)戦って死んだり、洮水に溺れて死んだりしたために、彼らの遺骸を集めることができず、野原にうち捨てたままとなっている。私はいつもこの事を痛切に感じている。征西将軍・安西将軍に告ぐ。各々、部隊の兵士に戦場や船着き場で遺骸(2)を探させて、集めて埋葬し、遺族と死者を慰めよ。」
(1) 原文「臨陳」 「陳」は「陣」に通じ、戦陣のこと。ここでは姜維率いる蜀の軍隊の事をいう。「臨」は向かいあうの意味。
(2) 原文「屍喪」 「屍」も「喪」も人の遺体のこと。
甘露元年春正月辛丑,靑龍見軹縣井中.乙巳,沛王林薨.[一]
[一] 魏氏春秋曰:二月丙辰,帝宴羣臣於太極東堂,與侍中荀顗、尚書崔贊、袁亮、鍾毓、給事中中書令虞松等竝講述禮典,遂言帝王優劣之差.帝慕夏少康,因問顗等曰:「有夏旣衰,后相殆滅,少康收集夏衆,復禹之績,高祖拔起隴畝,驅帥豪儁,芟夷秦、項,包舉寓內,斯二主可謂殊才異略,命世大賢者也.考其功德,誰宜爲先?」顗等對曰:「夫天下重器,王者天授,聖德應期,然後能受命創業.至於階緣前緖,興復舊績,造之與因,難易不同.少康功德雖美,猶爲中興之君,與世祖同流可也.至如高祖,臣等以爲優.」帝曰:「自古帝王,功德言行,互有高下,未必創業者皆優,紹繼者咸劣也.湯、武、高祖雖俱受命,賢聖之分,所覺縣殊.少康、殷宗中興之美,夏啓、周成守文之盛,論德較實,方諸漢祖,吾見其優,未聞其劣;顧所遇之時殊,故所名之功異耳.少康生於滅亡之後,降爲諸侯之隸,崎嶇逃難,僅以身免,能布其德而兆其謀,卒滅過、戈,克復禹績,祀夏配天,不失舊物,非至德弘仁,豈濟斯勳?漢祖因土崩之勢,仗一時之權,專任智力以成功業,行事動靜,多違聖檢;爲人子則數危其親,爲人君則囚繫賢相,爲人父則不能衞子;身沒之後,社稷幾傾,若與少康易時而處,或未能復大禹之績也.推此言之,宜高夏康而下漢祖矣.諸卿具論詳之.」翌日丁巳,講業旣畢,顗、亮等議曰:「三代建國,列土而治,當其衰弊,無土崩之勢,可懷以德,難屈以力.逮至戰國,強弱相兼,去道德而任智力.故秦之弊可以力爭.少康布德,仁者之英也;高祖任力,智者之儁也.仁智不同,二帝殊矣.詩、書述殷中宗、高宗,皆列大雅,少康功美過于二宗,其爲大雅明矣.少康爲優,宜如詔旨.」贊、毓、松等議曰:「少康雖積德累仁,然上承大禹遺澤餘慶,內有虞、仍之援,外有靡、艾之助,寒浞讒慝,不德于民,澆、豷無親,外內棄之,以此有國,蓋有所因.至於漢祖,起自布衣,率烏合之士,以成帝者之業.論德則少康優,課功則高祖多,語資則少康易,校時則高祖難.」帝曰:「諸卿論少康因資,高祖創造,誠有之矣,然未知三代之世,任德濟勳如彼之難,秦、項之際,任力成功如此之易.且太上立德,其次立功,漢祖功高,未若少康盛德之茂也.且夫仁者必有勇,誅暴必用武,少康武烈之威,豈必降于高祖哉?但夏書淪亡,舊文殘缺,故勳美闕而罔載,唯有伍員粗述大略,其言復禹之績,不失舊物,祖述聖業,舊章不愆,自非大雅兼才,孰能與於此,向令墳、典具存,行事詳備,亦豈有異同之論哉?」於是羣臣咸悅服.中書令松進曰:「少康之事,去世久遠,其文昧如,是以自古及今,議論之士莫有言者,德美隱而不宣.陛下旣垂心遠鑒,考詳古昔,又發德音,贊明少康之美,使顯於千載之上,宜錄以成篇,永垂于後.」帝曰:「吾學不博,所聞淺狹,懼於所論,未獲其宜;縱有可采,億則屢中,又不足貴,無乃致笑後賢,彰吾闇昧乎!」於是侍郞鍾會退論次焉.
甘露元(256)年春正月辛丑、青龍が軹県の井戸の中で発見された。乙巳、沛王曹林(1)が薨去した。
[一] 『魏氏春秋』に次のようにある。二月丙辰、皇帝(曹髦)は群臣と太極東堂にて宴会をおこなった。侍中荀顗(2)・尚書崔賛・袁亮・鍾毓・給事中中書令虞松らと礼典について議論していたが、話題は帝王の優劣の差についてになった。皇帝(曹髦)は、夏の少康(3)を慕っていたので、荀顗に次のように質問した。「夏王朝が衰退し、帝相は力尽きて滅びたが、〔帝相の子である〕少康は夏王朝の人々を集めて、帝禹から続く皇統を復活した。(4)漢の高祖は民間から抜け出て立ち上がり、優れた人物を率いて駆け回り、秦王朝や項羽を倒し、天下を統一した。この二人の君主はずば抜けた才能の持ち主で、もっとも優れた大賢者と言うことができる。彼らの功績・徳行について、どちらを第一とするのがよいだろうか?」 荀顗らは答えた。「そもそも天下は重要な宝器であり、王者は天が授けるもので、天子の徳が時期に適って、その後に天命を受け創業できるものです。先代の遺した業績に寄りすがり、再び昔の皇統を中興しており、創業と踏襲とで、難易度は異なります。少康の功績や徳が立派であると雖も、やはり中興の君主であり、世祖(漢の光武帝)と同流というのが良いのです。漢の高祖のようであるのが、私どもは優れていると思います。」皇帝(曹髦)は言った。「古より帝王には、功績と徳、発言と行動には、互いに優れた点と劣った点がある。必ずしも創業したものが皆優れ、継承したものが皆劣っているわけではない。殷の湯王・周の武王・漢の高祖は共に天命を受けたと言っても、賢聖の質としては、かけ離れているのではないかと感じるのだ。少康・殷王朝の宗族(5)には中興の立派さがあり、夏の帝啓(6)・周の成王(7)には従来の制度・法律を守る立派さがあり、徳を論じてその実質を比較し、漢の高祖と比べてみても、私には優れたところが見え、劣るところを聞かないのである。遭遇した時が特殊であり、そのために論じられる功績についてもすばらしいと思われるだけである。少康は殷王朝滅亡の後にも生きて、降伏して諸侯の奴隷となったが、苦労して難を逃れて、僅かに我が身のみで免れた。彼の徳を広く施して策略を実行し始め、遂に過国・戈国(8)を滅ぼし、禹の皇統を中興して、夏の祖先を天と共に併せ祀り、旧来のものを失わなかった。最上の徳と広い仁愛がなければ、どうしてこのような勲功を成し遂げられようか?漢の高祖は土砂崩れのような勢いによって、一時の権勢に寄りかかり、知謀と武力を主に用いて功業を成功させたが、その振る舞いは、聖人の規範に多く違っている。〔漢の高祖が〕人の子であれば、しばしばその親に危害を加え、人の君主であれば、賢相を捕らえて繋ぎ、人の父であれば、子を守ることもできない〔ような世の中で〕、身は没落した後、社稷がいくらか傾いた状態で、もし少康と時と場所を交換したならば、帝禹の皇統を再び中興することはできないのだ。これらのことから考えると、夏の少康を上とし、漢の高祖を下とした方が良いのだ。諸卿はつぶさにこの事を議論せよ。」翌日丁巳、講義が終わり、荀顗・袁亮らは論じた。「〔夏・殷・周の〕三代の王朝は国を建てると、国土を分割して統治しました。それぞれが衰退することになっても、土砂崩れのような勢いはないため、信服させるのに徳をもってするのがよく、屈服させるのに武力では難しかったのです。戦国時代となると、強国と弱国が互いに合併するうちに、道徳は失われ知謀や武力に任せるようになりました。このため、秦が衰えると、武力を用いて争うことになったのです。少康は徳を広めたので、仁者の英雄です。漢の高祖が知謀や武力に依ったので、智者の英雄です。仁と智は異なり、二帝は異なります。詩経・書経に殷の中宗・高宗のことが記述され、皆高徳の帝に挙げられます。少康の功績の立派さはこの二宗より優れ、高徳の帝に見なされるのも明らかです。少康を優れているとすることは、詔旨にあるようで良いと思います。」崔賛・鍾毓・虞松らは論じた。「少康は徳を積み仁を重ねたと雖も、帝禹の遺した恩恵や子孫にもたらした幸福を受け継いだのであって、内には有虞国・有仍国の援助あり(9)、外には靡・女艾の援助がありました。(10)寒浞は邪なもので、民に徳を施さず、澆・豷は親しみ信頼することなく、内にも外にも彼らを見捨てておりました。このような状態で〔殷の〕国を再興できたのは、条件が整っていたのでありましょう。漢の高祖は、平民から身を立て、烏合の衆を率いて、帝王の事業を成し遂げました。徳を論じれば少康が優れていますが、功績を評価すれば漢の高祖の方が功績は多く、よりどころについて語れば少康の方が容易であり、時代を考えれば漢の高祖の方が難しいのです。」皇帝(曹髦)は言った。「諸卿が論じるところ、少康は頼るところがあり、漢の高祖は一から作り出したという点は、確かにそうである。しかし、〔夏・殷・周の〕三代の世において、徳をもって勲功を成し遂げるのがかように難しく、秦・項羽との戦いにおいて、武力で功業を成し遂げるのがこのように容易であるということはまだ分からない。そもそも天子は徳を立てて、次に功業を立てるのであって、漢の高祖は功業は評価できるとしても、少康の徳を盛んにしたことには及ばないのである。さらにそもそも仁者には必ず武勇があり、邪な者を罰する時には必ず武力を用いるのであって、少康の戦功による威風が、どうして漢の高祖に下ることがあろうか?但し、夏の書物は散佚し、古い文章も損なわれて完全ではないため、勲功の立派さは欠けて記載されず、ただ伍員(11)が大略を粗く記述したものがあり、その内容は「禹の皇統を復活し、旧来の法律・制度を失わなかった」とある。(12)聖業を継承し発展させ、古い制度を損なわないことは、高徳にして才能を兼ね備えていなければ、だれがこれに及ぶことができるだろうか?もし三墳・五典(13)がすべて存在して、振る舞いが詳細に記述されていれば、またどうして異なっている点と同じ点についての議論をすることがあっただろうか?」ここで群臣はみな心から喜び従った。中書令虞松は進んで言った。「少康の事績については、過ぎ去ってより長期間経っており、その文ははっきりしません。ここで古より今に至るまで、議論をおこなう人々で言及した者はおらず、徳の立派さが隠れて述べられておりませんが、陛下がすでに心を傾けて遠い昔を御覧になり、古について詳しく考察され、また陛下自ら、少康の立派さを賛嘆し、歴史の上に明らかにされました。記録して文章をつくり、永く後世に残すべきであります。」皇帝(曹髦)は言った。「私の学識は広くなく、聞くところは浅く、狭い。論じた内容がまだ正鵠を得ていないのではないかと不安である。たとえ採用すべきところがあり、推測すればよく的中すると言っても、尊ぶには及ばない。後世の賢人に笑われ、私の愚昧の様を表すことにならないだろうか!」ここで侍郎鍾会が退席して文書を整えた。
(1) 曹林は、曹操と杜夫人の間の子。『三国志』魏書二十に伝がある。
(2) 荀顗は字を景倩といい、魏の太尉荀彧の第六子。『晋書』列伝第九に伝がある。
(3) 夏王朝の帝。夏王朝を中興したという。『史記』夏本紀第二にその記述がある。
(4) ここでは帝相で途切れた夏王朝を帝少康が中興したことを言っている。「后相」というのは、少康の父親、帝相のこと。「夏后帝相」を約めたものと思われる。「夏后」は禹が帝位についた時に国号を「夏后」としている。「殆」は疲れるの意味。夏王朝が帝相の頃には力を失っていたことをいう。「績」は継承する・継ぐの意味。帝禹から続く世襲のことをいう。『正史三国志』(ちくま学芸文庫)での訳は誤りと思われる。
(5) 「殷宗」は、『漢語大詞典』によると殷の盤庚や武丁のこととあるが、ここでは個人に特定せず殷の宗族と訳した。殷王朝では中興が五回行われている。太甲(太宗)・太戊(中宗)・祖乙・盤庚・武丁(高宗)である。殷王朝を中興した五人の内、三人に「宗」がつく別称があり、また尚書に「盤庚」の篇があることから、高貴郷公(曹髦)は、彼ら五人を纏めて「殷宗」と言ったものと思われる。(『史記』殷本紀第三・『尚書』盤庚篇・『文選』東都賦)
(6) 夏王朝の帝。禹の子。『史記』夏本紀第二にその記述がある。
(7) 周王朝の帝。武王の子。『史記』周本紀第四にその記述がある。
(8) 『史記索隠』によると、「過」は少康の父帝相を殺した澆の国のこと。「戈」は澆の兄弟である豷の国のこと。
(9) 『春秋左伝正義』哀公元年に、少康の父親、帝相が滅ぼされたとき、皇后の緡は出身地である有仍国に逃れ、少康を生んだ。とある。また、後に澆に追われた際、有虞国に逃れ、その難を避けたとある。
(10) 艾は少康の臣、女艾のこと。『春秋左氏伝』哀公元年に、女艾に澆を探らせたとある。靡については不明。
(11) 伍員は字を子胥といい、楚の人。伍子胥と呼ばれることが多い(と思う)。『史記』伍子胥列伝第六に伝がある。
(12) 『春秋左伝正義』哀公元年に、伍員の言葉として「復禹之績,祀夏配天,不失舊物」とある。
(13) 墳は『三墳』のこと。典は『五典』のこと。経書の伝に書名だけ見える古書。
夏四月庚戌、大将軍司馬文王(司馬昭)に袞冕(天子の礼服と玉飾りの付いた冠)の服を下賜し、赤舄(赤い靴)を副えた。
丙辰,帝幸太學,問諸儒曰:「聖人幽贊神明,仰觀俯察,始作八卦,後聖重之爲六十四,立爻以極數,凡斯大義,罔有不備,而夏有連山,殷有歸藏,周曰周易,易之書,其故何也?」易博士淳于俊對曰:「包羲因燧皇之圖而制八卦,神農演之爲六十四,黃帝、堯、舜通其變,三代隨時,質文各繇其事.故易者,變易也,名曰連山,似山出內[雲]氣,連天地也;歸藏者,萬事莫不歸藏于其中也.」帝又曰:「若使包羲因燧皇而作易,孔子何以不云燧人氏沒包羲氏作乎?」俊不能答.帝又問曰:「孔子作彖、象,鄭玄作注,雖聖賢不同,其所釋經義一也.今彖、象不與經文相連,而注連之,何也?」俊對曰;「鄭玄合彖、象于經者,欲使學者尋省易了也.」帝曰:「若鄭玄合之,於學誠便,則孔子曷爲不合以了學者乎?」俊對曰:「孔子恐其與文王相亂,是以不合,此聖人以不合爲謙.」帝曰:「若聖人以不合爲謙,則鄭玄何獨不謙邪?」俊對曰:「古義弘深,聖問奧遠,非臣所能詳盡.」帝又問曰:「繫辭云『黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治』,此包羲、神農之世爲無衣裳.但聖人化天下,何殊異爾邪?」俊對曰:「三皇之時,人寡而禽獸衆,故取其羽皮而天下用足,及至黃帝,人衆而禽獸寡,是以作爲衣裳以濟時變也.」帝又問:「乾爲天,而復爲金,爲玉,爲老馬,與細物竝邪?」俊對曰:「聖人取象,或遠或近,近取諸物,遠則天地.」
丙辰、皇帝(曹髦)は太学へ行き、儒家達に質問した。「聖人は天地の神を奥深き根本から明らかにし、仰いでは観て伏しては考え、初めに八卦を作り、後に聖人は重ねて六十四卦とし、爻(こう)(1)の組み合わせは頂点に達した。およそこの大義は、不備はないはずであるが、夏王朝は『連山』を持ち、殷王朝は『帰蔵』を持ち、周王朝は『周易』と言う。(2)易の書の種類が複数ある理由は何であるか?」易博士淳于俊が答えた。「包羲が燧皇の図によって八卦を制定し、神農がこれを展開して六十四卦としました。(3)黄帝・堯・舜はその変化に通じており、三代(夏・殷・周)では時の流れに随って、内容と形式についてそれぞれその解釈を行いました。これにより易は、変易の意味なのであります。名を『連山』というのは、山が雲のような霧を出すと、天地が連なるように見えるからであります。『帰蔵』というのは、あらゆる事象がその(易の)中に収まらないことがないからであります。」皇帝(曹髦)はまた言った。「もし包羲が燧皇の図によって易を制定したのなら、孔子はどうして燧人氏が没して包羲氏が作ると言わなかったのか?(4)」淳于俊は答えることができなかった。皇帝(曹髦)はまた質問した。「孔子が彖伝・象伝を作り、鄭玄(5)が注を作った。聖人・賢人は違うと言うが、その経義の解釈については同じである。今彖伝・象伝は経の文章と連続していないが、注は連続している。なぜか?」淳于俊は答えた。「鄭玄が彖伝・象伝を経の文章と合わせたのは、学者が研究するのにわかりやすくしようとしたのです。」皇帝(曹髦)は言った。「もし鄭玄が彖伝・象伝を経の文章と合わせると、学問上大変便利であるとしたのなら、孔子はどうして学者に分かるように合わさなかったのか?」淳于俊は答えた。「孔子はそれ(彖伝・象伝)が周の文王の文章(6)と合わさって乱してしまうことを恐れたので、〔彖伝・象伝を経の文章に〕合わさなかったのです。聖人は〔自信の文を〕合わさないことで謙譲を表したのです。」皇帝(曹髦)は言った。「もし聖人が〔自信の文章を〕合わさないことで謙譲を表したのならば、鄭玄はどうしてひとり謙譲を表さないのか?」淳于俊は答えた。「古い時代の意味するところは広大深遠であり、陛下のお尋ねも奥深いものでありますので、私が詳しくご説明できるものではありません。」皇帝(曹髦)はまた尋ねた。「繋辞伝に『黄帝・堯・舜は衣裳を施して天下を治めた』とある。これは包羲・神農の代には衣裳を施す必要がなかったことになる。聖人が天下を教化する上で、どのような違いがあったのか?」淳于俊は答えた。「三皇(燧皇・包羲・神農)の時代には、人が少なく鳥や獣が多くいましたので、その羽や皮を取れば天下において用が足りていたのです。黄帝の時代になると、人が多く鳥や獣が少なくなりましたので、衣裳を作って時代の変化による困難を救ったのです。」皇帝(曹髦)はまた質問した。「乾は天となる、とある一方で、金となる、玉となる、老馬となる、とあり、(7)些細なものと並べられているのはどういうことか?」淳于俊は答えた。「聖人は象徴なるものを採用するのに、あるときは高遠なもの、あるときは卑近なものとしました。卑近なものの場合は、些細なものを採用し、高遠な場合は天地を採用したのです。」
(1) 爻(こう)は易の卦を構成する基本要素。「娘」を陽爻といい、「姪」を陰爻といい、三つを組み合わせて八卦(「命」等)を作り、さらに八卦を組み合わせて六十四卦(「黙」等)と作る。
(2) 『連山』・『帰蔵』・『周易』は易に関する書の名。『連山』・『帰蔵』は早くに失われたという。この三つを併せて「三易」という。
(3) 燧皇(燧人氏)・包羲(伏羲氏)・神農(神農氏)は上古の帝王。併せて三皇と呼ばれる。三皇にも諸説あり、「伏羲・女媧・神農」とする説、「伏羲・神農・祝融」とする説、「伏羲・神農・黄帝」とする説がある。
(4) 『周易正義』繋辞下第八に「包犧氏没,神農氏作」とある。漢魏の頃は繋辞伝を含む十翼と呼ばれる文章(彖伝上・下、象伝上・下、繋辞伝上・下、文言伝、説卦伝、序卦伝、雑卦伝)は孔子が作ったものと考えられていた。
(5) 鄭玄は、字を康成といい青州北海国高密県の人。周易・尚書・毛詩・儀礼・礼記などの経書に注釈を付けた。『後漢書』張曹鄭列伝第二十五に伝がある。
(6) 卦や爻の意味するところを述べた文章を「卦辞(彖辞)」「爻辞(象辞)」といい、周の文王が作ったと言われる。また、「卦辞」は文王が作り、「爻辞」は周公が作ったとも言われる。
(7) 『周易正義』説卦第九に「乾為天、為圜、為君、為父、為玉、為金、為寒、為冰、為大赤、為良馬、為老馬、為瘠馬、為駁馬、為木果。」とある。「滅」(乾)の卦を様々なものに喩えている。
講易畢,復命講尚書.帝問曰:「鄭玄曰『稽古同天,言堯同於天也』.王肅云『堯順考古道而行之』.二義不同,何者爲是?」博士庾峻對曰:「先儒所執,各有乖異,臣不足以定之.然洪範稱『三人占,從二人之言』.賈、馬及肅皆以爲『順考古道』.以洪範言之,肅義爲長.」帝曰:「仲尼言『唯天爲大,唯堯則之』.堯之大美,在乎則天,順考古道,非其至也.今發篇開義以明聖德,而舍其大,更稱其細,豈作者之意邪?」峻對曰:「臣奉遵師說,未喩大義,至于折中,裁之聖思.」次及四嶽舉鯀,帝又問曰:「夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,思無不周,明無不照,今王肅云『堯意不能明鯀,是以試用』.如此,聖人之明有所未盡邪?」峻對曰:「雖聖人之弘,猶有所未盡,故禹曰『知人則哲,惟帝難之』,然卒能改授聖賢,緝熙庶績,亦所以成聖也.」帝曰:「夫有始有卒,其唯聖人.若不能始,何以爲聖?其言『惟帝難之』,然卒能改授,蓋謂知人,聖人所難,非不盡之言也.經云:『知人則哲,能官人.』若堯疑鯀,試之九年,官人失敍,何得謂之聖哲?」峻對曰:「臣竊觀經傳,聖人行事不能無失,是以堯失之四凶,周公失之二叔,仲尼失之宰予.」帝曰:「堯之任鯀,九載無成,汩陳五行,民用昏墊.至於仲尼失之宰予,言行之閒,輕重不同也.至于周公、管、蔡之事,亦尚書所載,皆博士所當通也.」峻對曰:「此皆先賢所疑,非臣寡見所能究論.」次及「有鰥在下曰虞舜」,帝問曰:「當堯之時,洪水爲害,四凶在朝,宜速登賢聖濟斯民之時也.舜年在旣立,聖德光明,而久不進用,何也?」峻對曰:「堯咨嗟求賢,欲遜己位,嶽曰『否德忝帝位』.堯復使嶽揚舉仄陋,然後薦舜.薦舜之本,實由於堯,此蓋聖人欲盡衆心也.」帝曰:「堯旣聞舜而不登用,又時忠臣亦不進達,乃使嶽揚仄陋而後薦舉,非急於用聖恤民之謂也.」峻對曰:「非臣愚見所能逮及.」
『易経』の講義を終え、再び『尚書』の講義を行うよう命じた。皇帝(曹髦)は質問した。「鄭玄は次のように言っている。『稽古は天に同じという意味であり、堯が天と同じであるということである』。(1)王粛(2)は次のように言っている。『堯は昔のやり方に従って考え、政治を行った』。二つの意味するところは異なるが、いずれが正しいのか?」(3)博士庾峻(4)は答えた。「先代の儒家が主張する意見には、それぞれ食い違うところがあり、私がいずれが正しいと定めるには力不足であります。しかしながら『尚書』洪範篇に『三人で占えば、その内の二人の言に従う』とあります。(5)賈逵(6)・馬融(7)そして王粛は皆『順考古道』としております。(8)洪範篇の言葉に従えば、王粛の主張が優れていると思われます。」皇帝(曹髦)は言った。「仲尼(孔子)は『天は偉大であり、堯はこの天を手本とした』と言っている。(9)堯の立派さは、天を手本としたことにあって、昔のやり方に従って考えるというのは、真の意味に到達していないのだ。今、書籍の文意を分析して聖人の徳を明らかにするのに、その大意を捨てて、詳細を称えていて、どうして作者の意をくみ取ることができようか?」庾峻は答えた。「私は師の説くところに謹んで遵うばかりで、未だ大義を理解しておりません。取捨選択して適切なものを選ぶのは、陛下のご判断です。」続いて四嶽(四方の諸侯を統括するもの)が鯀を推挙する件(10)にくると、皇帝(曹髦)はまた質問した。「そもそも高徳の人は、天地とその徳を同じくし、日月とその聡明さを同じくする。思慮においては思いめぐらさないところはなく、聡明さにおいては理解しないところはない。ここで王粛はいう。『堯の言葉の意味するところは、鯀の事が分からないということであり、だから試したのである』。このように、聖人の聡明さでも分からないところがあるのか?」庾峻は答えた。「聖人は非常に聡明でありますが、やはり分からないことがあるのです。だから禹は『人を見抜く人は聡明であり、帝(堯)でさえもこれは難しい』と言っております。(11)しかし最後には改めて聖人・賢人を採用し、功績を光り輝かせたので、聖人と呼ばれるのです。」皇帝(曹髦)は言った。「そもそも初めから終わりまですばらしいのは、聖人だけである。もし初めがだめなら、どうして聖人と言えようか?『帝(堯)でさえ、難しい』と言っても、最後には改めて聖人・賢人を採用することができたのだから、人を見抜くということは、聖人にとっても難しいことだという意味で、分からないことがあるというのではないだろう。尚書の文章には『人材を見抜く人は聡明であり、よく人材を登用できる。』とある。堯が鯀を疑って、九年間試した(12)のは、人材登用としては順序を誤っている。どうして彼を聖哲と呼べるのか?」庾峻は答えた。「私が密かに経伝を見ましたところ、聖人の行いで過失のないものはありません。堯の過失は四凶(13)を用いたことであり、周公の過失は二叔(14)を用いたことであり、仲尼(孔子)の過失は宰予(15)を弟子としたことです。」皇帝(曹髦)が言った。「堯が鯀に任せて、九年間成果がなく、五行の秩序を乱したために、民は水害に苦しんだのだ。(16)仲尼(孔子)の過失である宰予については、孔子の言葉(非難)と宰予の振る舞いの間のことなので、過失の程度については〔堯と〕同じではない。周公・管叔鮮・蔡叔度の事についても、『尚書』に記載されている(17)ので、皆博士はよく知っておくべきところである。」庾峻は答えた。「これはみな先代の賢人が疑っていたところであり、私が一人見て論じ尽くすことができるものではありません。」続いて「有鰥在下曰虞舜」(18)の箇所に及ぶと、皇帝(曹髦)は質問した。「堯の時代に、洪水が損害を出し、四凶(13)が朝廷にいて、速やかに賢人・聖人を登用して民を救わなければならない時である。舜は年齢は既に成年に達し、聖徳も明らかであるのに、長い間登用しなかったのは、なぜか?」庾峻は答えた。「堯はため息をついて嘆いて賢人を求め、自身の位を譲ろうとしました。四嶽は『私は徳がありませんので、帝位を辱めることになります。』と言いました。堯は再び四嶽に身分の低いものを推挙させ、その後舜が推薦されたのです。舜が推薦されたきっかけは、実に堯の求めによるもので、これは聖人が多くの人々の心を全て知りたいと思ったからです。」皇帝(曹髦)は言った。「堯は既に舜のことを聞いていたのに登用していない。また、当時の忠臣もまた推薦していない。四嶽に身分の低いものを推挙させて、その後に推薦されたのであって、聖人の登用を急ぎ民を憐れんでいないのだ。」庾峻は答えた。「私の愚見では及びもつかぬことでございます。」
(1) 『尚書正義』堯典の孔頴達疏に「鄭玄信緯,訓稽為同,訓古為天。言能順天而行之,與之同功。」とある。
(2) 王粛は字を子雍といい、徐州東海国郯県の人。王朗の子。『三国志』魏書十三に伝がある。
(3) 『尚書正義』堯典に「曰若稽古帝堯」とあり、この箇所の注釈が鄭玄と王粛で異なることを言っている。『尚書正義』孔安国注は「若順稽考也。能順考古道而行之者帝堯」(「若」は順う、「稽」は考えるの意味である。昔のやり方に順い考えて政治を行ったのが帝堯である。)とある。
(4) 庾峻は字を山甫といい、豫州潁川郡鄢陵県の人。『晋書』列伝第二十に伝がある。
(5) 『尚書正義』洪範篇に「三人占則從二人之言」とある。
(6) 賈逵は字を景伯といい、扶風郡平陵県の人。『後漢書』鄭范陳賈張列伝第二十六に伝がある。
(7) 馬融は字を季長といい、扶風郡茂陵県の人。『後漢書』馬融列伝第五十に伝がある。
(8) 『後漢書』儒林列伝第六十九に「扶風杜林傳古文尚書,林同郡賈逵為之作訓,馬融作傳,鄭玄注解,由是古文尚書遂顯于世。」(扶風郡の杜林が『古文尚書』を伝え、杜林と同郷の賈逵がこれに訓を付け、馬融が伝を付け、鄭玄が注解を付け、これによって『古文尚書』が世に知られるようになった。)とある。
(9) 『論語注疏』泰伯第八に「子曰;大哉,堯之為君也。巍巍乎,唯天為大,唯堯則之。」とある。
(10) 『尚書正義』堯典に「帝曰;咨四岳,湯湯洪水方割,蕩蕩懷山襄陵,浩浩滔天,下民其咨,有能俾乂。僉曰;於,鯀哉」とある。鯀は帝禹の父親。
(11) 『尚書正義』皐陶謨に「禹曰;吁,咸若時,惟帝其難之。知人則哲,能官人。」とある。
(12) 『尚書正義』堯典に「帝曰;往欽哉。九載績用,弗成。」とある。
(13) 四凶とは悪名高い四人の人物のことであり、ここでは共工・驩兠・三苗・鯀のこと。『尚書正義』舜典に「流共工于幽洲,放驩兠于崇山,竄三苗于三危,殛鯀于羽山,四罪而天下咸服。」とある。共工は恭順を装って悪事を働き、世を惑わし、驩兠は共工と共に悪事を働き、三苗は飲食や金銭を貪って欲深く、鯀は治水を行うも九年も成果を挙げることができず、四人は舜の時に追放された。
(14) 二叔は周の管叔鮮・蔡叔度のこと。管叔鮮・蔡叔度は周の武王の弟で、武王の死後、周公に叛き管叔鮮は殺され、蔡叔度は追放された。『春秋左伝正義』僖公二十四年に「昔周公弔二叔之不咸,故封建親戚,以蕃屏周」とある。
(15) 宰予は字を子我という。『史記』仲尼弟子列伝第七に伝がある。弁舌が巧みであったが、服喪の期間が三年であるのが長すぎると言って、孔子に不仁であるといわれたり、怠けて昼寝をしていて、孔子に朽木や糞土のかきねに比されるなど厳しく非難された。
(16) 『尚書正義』洪範に「箕子乃言曰;我聞,在昔鯀陻洪水,汩陳其五行。」とある。
(17) 『尚書正義』金縢・大誥に周公・管叔鮮・蔡叔度の件がある。
(18) 『尚書正義』堯典にある。
於是復命講禮記.帝問曰:「『太上立德,其次務施報』.爲治何由而敎化各異;皆脩何政而能致于立德,施而不報乎?」博士馬照對曰:「太上立德,謂三皇五帝之世以德化民,其次報施,謂三王之世以禮爲治也.」帝曰:「二者致化薄厚不同,將主有優劣邪?時使之然乎?」照對曰:「誠由時有樸文,故化有薄厚也.」 [一]
[一] 帝集載帝自敍始生禎祥曰:「昔帝王之生,或有禎祥,蓋所以彰顯神異也.惟予小子,支胤末流,謬爲靈祇之所相祐也,豈敢自比于前喆,聊記錄以示後世焉.其辭曰:惟正始三年九月辛未朔,二十五日乙未直成,予生.于時也,天氣淸明,日月輝光,爰有黃氣,煙熅于堂,照曜室宅,其色煌煌.相而論之曰:未者爲土,魏之行也;厥日直成,應嘉名也;煙熅之氣,神之精也;無災無害,蒙神靈也.齊王不弔,顚覆厥度,羣公受予,紹繼祚皇.以眇眇之身,質性頑固,未能涉道,而遵大路,臨深履冰,涕泗憂懼.古人有云,懼則不亡.伊予小子,曷敢怠荒?庶不忝辱,永奉烝嘗.」
傅暢晉諸公贊曰:帝常與中護軍司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黃門侍郞鍾會等講宴於東堂,幷屬文論.名秀爲儒林丈人,沈爲文籍先生,望、會亦各有名號.帝性急,請召欲速.秀等在內職,到得及時,以望在外,特給追鋒車,虎賁卒五人,每有集會,望輒奔馳而至.
ここで再び『礼記』の講義を行うよう命じた。皇帝(曹髦)は言った。「『太上立德,其次務施報(もっとも優れているのは徳を立てることであり、その次は施しと報いに務めることである。)』(1)とある。国を治めるにあたり、どうして民衆教化の方法がそれぞれ異なるのか、どのような政治をすれば徳を立てて、施して報いを求めない〔もっとも優れた政治をおこなう〕ことができるのか?」博士馬照は答えた。「『太上立徳』とは、三皇五帝の時代は徳で民衆を教化したということです。『其次報施』とは、三王(夏の禹・商の湯王・周の文王)の時代は礼で治めたということです。」(2)皇帝(曹髦)は言った。「二者(三皇五帝と三王)では教化の程度が薄かったり厚かったりして異なるが、君主によって優劣はあるのか?時代というものがそうさせたのか?」馬照は答えた。「確かに、時代によって質素であったり華麗であったりしますので、教化の程度が薄かったり厚かったりいたします。」 [一]
[一] 『高貴郷公集』(3)に初めて瑞祥を生じたことを皇帝(曹髦)自ら述べていることを記載されている。「昔帝王が生まれたとき、瑞祥があったという。これは天の神が特別なことを知らしめようとするためであろう。ただ私は、分家の末流であって、誤って、不思議な力をもった地の神が力を貸してくれただけなのである。どうして敢えて自ら優れた先人と比較などしようか。聊か記録して後世に示すものである。その言葉は次の通りである。正始三(242)年九月辛未が一日で、(4)、二十五日が乙未の吉日(5)、私は生まれた。その時、天の気は清らかで穢れなく、日月は光り輝き、〔五行の〕黄の気があり、天地の気が堂に満ち、部屋に光が差し込み、その色は光輝くような色であった。観察してこの事を論じた。未は〔五行の〕土であり、魏がこれを行ったのである。その日が吉日であるのは、美しい名に応えているのである。天地の気は、天地の神のこころである。災なく害もないのは、神の魂を受け継ぐのである。斉王は〔先帝を〕弔わず、節度を顛倒させたので、群公は私を受け入れて、皇位を継承した。微小な身で、頑なで物わかりが悪く、未だ政道を渉ることができず、大道に沿って行き、深い池に張った氷を踏む〔かのような難題にぶつかる〕と、涙がこぼれんばかりに不安になる。古人は言っている。懼れれば滅びないと。私が、どうして敢えて怠けて投げ出すことがあろうか?〔皇位を〕辱めず、永く祀りを奉ることを願う。」
傅暢(6)の『晋諸公賛』に次のようにある。皇帝(曹髦)は常に中護軍司馬望(7)・侍中王沈(8)・散騎常侍裴秀(9)・黄門侍郎鍾会等と共に東堂で講義や宴を行い、共に文章を作成し論じた。裴秀を儒林丈人と呼び、王沈は文籍先生と呼ばれ、司馬望・鍾会もそれぞれ号を持っていた。皇帝(曹髦)はせっかちで、召集をかけるとすぐに集まることを望んだ。裴秀等は朝廷内の職に就いているので、間に合うが、司馬望は朝廷の外で職に就いているので、特に追鋒車と虎賁(宮中警固の職)の兵卒五人を与え、集会がある度に、司馬望は車を勢いよく走らせてやって来た。
(1) 『礼記正義』曲礼上第一に『太上貴德,其次務施報』とある。
(2) 『正史三国志』(ちくま学芸文庫)にあるように、曹髦が「太上」を太古の時代、「其次」を次の時代と理解していたのであれば、この箇所の問答はかみ合っていないことになる。ここでは曹髦は国家統治の手段に最善と次善があるのを疑問としており、馬照は鄭玄の注によって、時代による国家統治手段の相違を回答したものとして訳した。
(3) 『隋書』経籍志四によると、梁の時代に『高貴郷公集』四巻があったが失われたとある。
(4) 『二十史朔閏表』によると、九月一日が辛未であるのは、正始二(241)年である。
(5) 直成は定めるべき日、吉日のこと。『三国志集解』によると、『漢書』王莽伝に「以戊辰直定,御王冠,即真天子位,定有天下之號曰新。」とあり、「直定」の語の顔師古注「於建除之次,其日當定。」とあるとしている。「建除」は占いの方法の一つ。
(6) 傅暢は字を世道という。『晋書』列伝第十七に伝がある。
(7) 司馬望は字を子初という。司馬懿の甥。義陽成王。『晋書』列伝第七に伝がある。
(8) 王沈は字を処道といい、幷州太原郡晋陽県の人。『晋書』列伝第九に伝がある。
(9) 裴秀は字を季彦といい、司州河東郡聞喜県の人。『晋書』列伝第五に伝がある。
五月,鄴及(上谷)[上洛]竝言甘露降.夏六月丙午,改元爲甘露.乙丑,靑龍見元城縣界井中.秋七月己卯,衞將軍胡遵薨.
五月、鄴(冀州魏郡)と上洛(雍州京兆郡)から相次いで甘露が降った(1)と知らせてきた。夏六月丙午、改元をおこない、甘露とした。乙丑、青龍が冀州陽平郡元城県境の井戸の中で見つかった。秋七月己卯、衛将軍胡遵が薨去した。
(1) 甘い露。天下太平の吉祥として天が降らせるという。『老子道徳経』聖徳第三十二に「道常無名。朴雖小,天下不敢臣。王侯若能守,萬物將自賓。天地相合,以降甘露,人莫之令而自均。」とある。
癸未,安西將軍鄧艾大破蜀大將姜維于上邽,詔曰:「兵未極武,醜虜摧破,斬首獲生,動以萬計,自頃戰克,無如此者.今遣使者犒賜將士,大會臨饗,飮宴終日,稱朕意焉.」
癸未、安西将軍鄧艾が蜀の大将姜維を上邽にて大いに破ったので、詔を発した。「軍隊はまだ武装が十分ではないのに、逆賊を打ち破り、敵の首を斬り、また生け捕りにしたものは、万をもって数える。近頃このような戦勝はない。今、使者を派遣して、将軍・兵士の労をねぎらわせる。大いに宴を設けて終日酒食を楽しみ、朕の意にかなうようにせよ。」
八月庚午,命大將軍司馬文王加號大都督,奏事不名,假黃鉞.癸酉,以太尉司馬孚爲太傅.九月,以司徒高柔爲太尉.冬十月,以司空鄭沖爲司徒,尚書左僕射盧毓爲司空.
八月庚午、大将軍司馬文王(司馬昭)に大都督の号を加えると命じた、奏事不名の特権を与え、黄鉞を与えた。癸酉、太尉司馬孚を太傅に任命した。九月、司徒高柔(1)を太尉に任命した。冬十月、司空鄭沖を司徒に任命し、尚書左僕射盧毓(2)を司空に任命した。
(1) 高柔は字を文恵といい、兗州陳留国圉県の人。『三国志』魏書二十四に伝がある。
(2) 盧毓は字を子家といい、幽州涿郡涿県の人。盧植の子。『三国志』魏書二十二に伝がある。
二年春二月、青龍が司州河内郡温県の井戸の中で見つかった。三月、司空盧毓が薨去した。
夏四月癸卯,詔曰:「玄菟郡高顯縣吏民反叛,長鄭熙爲賊所殺.民王簡負擔熙喪,晨夜星行,遠致本州,忠節可嘉.其特拜簡爲忠義都尉,以旌殊行.」
夏四月癸卯、詔を発した。「幽州玄菟郡高顕県の官吏と民衆が反乱を起こし、長官鄭熙が逆賊に殺害された。民衆の王簡なるものが鄭熙の遺体を担い、昼夜兼行して遠路ここまで届けてくれた。この忠節は褒め称えるべきである。特別に王簡を忠義都尉に任命し、この行いを表彰せよ。」
五月辛未,帝幸辟雍,會命羣臣賦詩.侍中和逌、尚書陳騫等作詩稽留,有司奏免官,詔曰:「吾以暗昧,愛好文雅,廣延詩賦,以知得失,而乃爾紛紜,良用反仄.其原逌等.主者宜勑自今以後,羣臣皆當玩習古義,脩明經典,稱朕意焉.」
五月辛未、皇帝(曹髦)は大学(1)へ行き、会合を開き、群臣に詩を作るよう命じた。侍中和逌・尚書陳騫(2)等は作詩がはかどらなかったため、役人は官職を罷免するよう奏上した。詔を発した。「私は暗愚であるが、文学を好み、詩賦を広く集めて、政治の得失を知ることにしている。しかしこのように騒がしくては、落ち着かない。和逌等を許せ。学長は今より以後、群臣に皆古義を吟味習得させ、経典を整えて明らかにさせ、朕の意に適うようにせよ。」
(1) 辟雍は、辟廱ともいう。周代、天子の大学の名。
(2) 陳騫は徐州臨淮国東陽県の人。陳矯の子。『晋書』列伝三十五に伝がある。
乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史樂綝.丙子,赦淮南將吏士民爲誕所詿誤者.丁丑,詔曰:「諸葛誕造爲凶亂,盪覆揚州.昔黥布逆叛,漢祖親戎,隗囂違戾,光武西伐,及烈祖明皇帝躬征吴、蜀,皆所以奮揚赫斯,震耀威武也.今宜皇太后與朕暫共臨戎,速定醜虜,時寧東夏.」己卯,詔曰:「諸葛誕造構逆亂,迫脅忠義,平寇將軍臨渭亭侯龐會、騎督偏將軍路蕃,各將左右,斬門突出,忠壯勇烈,所宜嘉異.其進會爵鄕侯,蕃封亭侯.」
乙亥、諸葛誕は徴集に従わず、兵を起こして謀反し、揚州刺史楽綝を殺害した。丙子、淮南の武将・官吏・兵士・民衆で諸葛誕の巻き添えとなったものを赦した。丁丑、詔を発した。「諸葛誕は突然反乱を起こし、揚州を動揺転覆させた。昔、黥布(1)の反逆には、漢祖(劉邦)は親征し、隗囂(2)の離反には、光武帝(劉秀)は西方征伐を行い、烈祖明皇帝(曹叡)は自ら呉・蜀の征伐に向かい、皆怒りを奮い起こして、威武を震撼させた。今皇太后と朕はしばらく共に親征する。速やかに逆賊を平定し、東夏を安んぜよ。」己卯、詔を発した。「諸葛誕が反乱を起こし、忠義のものを脅迫するなか、平寇将軍臨渭亭侯龐会・騎督偏将軍路蕃、及び各将軍の側近の者どもは、突撃して、忠義に厚く勇敢な様は、特別に称えるべきところである。そこで龐会の爵位を郷侯へ進め、路蕃を亭侯に封ずる。」
(1) 黥布は六安国六県の人で、本名は英布という。入れ墨を彫られる刑罰を受けたが、若い頃に人相見が言った「刑罰を受けて王となる」との言葉通りだと言って喜び、その後姓を黥に変えたようである。『史記』列伝第三十一・『漢書』列伝第四に伝がある。
(2) 隗囂は字を季孟といい、天水郡成紀県の人。『後漢書』列伝第三に伝がある。
六月乙巳,詔:「吴使持節都督夏口諸軍事鎭軍將軍沙羡侯孫壹,賊之枝屬,位爲上將,畏天知命,深鑒禍福,飜然舉衆,遠歸大國,雖微子去殷,樂毅遁燕,無以加之.其以壹爲侍中車騎將軍、假節、交州牧、吴侯,開府辟召儀同三司,依古侯伯八命之禮,袞冕赤舄,事從豐厚.」[一]
[一] 臣松之以爲壹畏逼歸命,事無可嘉,格以古義,欲蓋而名彰者也.當時之宜,未得遠遵式典,固應量才受賞,足以醻其來情而已.至乃光錫八命,禮同台鼎,不亦過乎!於招攜致遠,又無取焉.何者?若使彼之將守,與時無嫌,終不悅于殊寵,坐生叛心,以叛而愧,辱孰甚焉?如其憂危將及,非奔不免,則必逃死苟存,無希榮利矣,然則高位厚祿何爲者哉?魏初有孟達、黃權,在晉有孫秀、孫楷;達、權爵賞,比壹爲輕,秀、楷禮秩,優異尤甚.及至吴平,而降黜數等,不承權輿,豈不緣在始失中乎?
六月乙巳、詔を発した。「呉の使持節都督夏口諸軍事鎮軍将軍沙羡侯孫壱は、逆賊の一味で、位は上将であったが、天を畏れその命じるところを知り、深く禍福を鑑みて、方針を変えて民衆を率いて、遠路はるばる大国に帰属した。微子が殷を去り(1)、楽毅が燕に遁れてきた(2)のと、同等のことである。そこで孫壱を侍中車騎将軍・仮節・交州牧・呉侯に任命し、役所を設けて属官を置き、儀同三司(3)として召集し、古の侯伯八命の礼(4)に倣い、袞冕(天子の礼服と玉飾りの付いた冠)の服と赤舄(赤い靴)を下賜し、手厚く遇せよ。」[一]
[一] 私裴松之が思うには、孫壱は畏れて服従したのであって、行為自体は褒め称えるべきものはない。故事に比するのは、それを隠して顕彰しようとしたのである。当時の適切な方法としては、まだ法に則ることを遠ざけられなかったのであって、本来は才能を量って恩賞を授けるべきで、その帰順の気持ちに報いれば足りるのである。八命の職を与え、礼は台鼎(三公)(5)と同じとするに至っては、やり過ぎではないのか!〔呉に〕叛いたものや遠方の民を招き寄せることにも、得るところはないのである。なぜだろうか?もしかの将軍に守らせ、その時に疑いが無いとしても、最後には〔魏から受けた〕格別の取り立てにも感謝せず、すぐに謀叛の意志を生じるというのと、〔再度魏に〕謀反して恥を感じるのとどちらが起こりやすいであろうか?(6)もし危難が彼の身に及ぼうとして、逃げなければ危難から逃れられないとすれば、必ず逃げてなんとか生きようとし、名誉や利益を願うことはないのである。そうであれば、高位厚祿は何の為になろうか?魏には昔、〔降伏してきたものに〕孟達(7)・黄権(8)がおり、晋には孫秀(9)・孫楷(10)がいるが、孟達・黄権の爵位・恩賞は孫壱と比べて軽く、孫秀・孫楷に対する礼や俸給は、大変優遇されているが、呉を平定すると、官位を数等下げられている。初めの待遇を継承しなかったのは、当初の待遇が適正でなかったことに因るのであろう。
(1) 微子は微子啓のこと。殷の紂王の腹違いの兄。悪政を行う紂王をしばしば諫めたが聞き入れられず、殷を去った。『尚書正義』微子第十七、『史記』殷本紀第三、宋微子世家第八にこのことの記述がある。
(2) 楽毅は、燕の昭王が斉を討伐するため各地より賢人を集めた際に魏から燕に赴いた。上将軍として斉を討ち、五年間で七十余城を降伏させた。昌国君。『史記』楽毅列伝第二十に伝がある。
(3) 儀同三司は開府儀同三司ともいい、功労のあったものに対して賜る職事のない官職。儀礼制度を三公と同じとするという意味。
(4) 八命は『周礼注疏』巻十八に「八命作牧」とあり、九つの位の内の一つ。侯伯が諸侯討伐を専門にする際に命ぜられ、一州の牧であり、三公と同じである。
(5) 台鼎は三公や宰相など、天子を補佐する役のこと。この「台」は「臺」とは別字であり、正字への変換漏れではない。
(6) 『三國志集解』には、「愧」を「貴」とするとあるが、ここでは採らない。原文は「以叛而愧,辱孰甚焉?」と標点しているが、ここでは「以叛而愧辱孰甚焉?」として、「愧辱」と捉えた。「孰」を比較の疑問詞と考え、孫壱が「魏からの厚遇を忘れて謀叛の意志を起こす」か「魏の厚遇を忘れず謀叛を恥と考える」かの二点の起こりうる可能性について比較し疑問を投げかけたと捉えた。むしろここでは反語的に用いられ、裴松之は前者の可能性が高いと考えている。
(7) 孟達は字を子度という。もとの字は子敬といった。雍州扶風郡の人。関羽の樊城・襄陽攻略に援軍を送らなかったことを責められることを懼れ、劉封とも仲が悪かったことから魏へ降った。伝はないが、『三國志』魏書・蜀書にその名が散見される。
(8) 黄権は字を公衡といい、益州巴西郡閬中県の人。劉備が東征し退却する際、退路を断たれ魏に降った。『三國志』蜀書十三に伝がある。
(9) 孫秀は孫匡の孫。孫晧から警戒され、不安を感じて晋に降る。『三國志』呉書六孫匡伝にこの記述がある。
(10) 孫楷は孫韶の子。孫晧を懼れ、晋に降る。『三國志』呉書六孫韶伝にこの記述がある。
甲子,詔曰:「今車駕駐項,大將軍恭行天罰,前臨淮浦.昔相國大司馬征討,皆與尚書俱行,今宜如舊.」乃令散騎常侍裴秀、給事黃門侍郞鍾會咸與大將軍俱行.秋八月,詔曰:「昔燕刺王謀反,韓誼等諫而死,漢朝顯登其子.諸葛誕創造凶亂,主簿宣隆、部曲督秦絜秉節守義,臨事固爭,爲誕所殺,所謂無比干之親而受其戮者.其以隆、絜子爲騎都尉,加以贈賜,光示遠近,以殊忠義.」
甲子,詔を発した。「今、車駕は項県(豫州汝南郡)に留まり、大将軍(司馬昭)は天罰を下すべく、先に淮浦(徐州広陵郡)に到着している。昔、相国や大司馬が討伐に向かうとき、皆尚書と共に行った。今昔のようにするのが良い。」そこで散騎常侍裴秀・給事黄門侍郎鍾会に大将軍(司馬昭)と共に行かせた。秋八月、詔を発した。「昔、燕刺王が謀反を起こし、韓誼らは諫めて死に、漢朝はその子を登用した。(1)諸葛誕が反乱を起こし、主簿宣隆・部曲督秦絜は節度と義を守り、この有事に対して争い、諸葛誕に殺された。殷の比干(2)のように肉親で無いのに〔比干のように〕殺されたものである。そこで宣隆・秦絜の子を騎都尉に任命し、恩賞を加え与え、遠きもの近きものに優れた忠義であることを示せ。」(3)
(1) 燕刺王は、燕剌王劉旦のこと。前漢武帝の子で、『漢書』巻六十三に伝がある。韓誼は韓義のことで燕の郎中であった。その子(韓義の子)とは韓延寿のことである。韓延寿は字を長公といい、燕の人。昭帝の時、霍光により諫大夫に抜擢される。『漢書』巻七十六に伝がある。この故事は『漢書』巻六十三・巻七十六に記述がある。
(2) 比干は殷の紂王のおじ。比干は紂王を強く諫めたため、紂王は「聖人の心臓には七つの穴があると言う。比干で試してみよう」と言って、比干を殺し、解剖した。このことは『史記』殷本紀第三に記述がある。
(3) 諫めたことにより殺された臣下の子を取り立てることで、その忠義を顕彰するということは、韓義・韓延寿父子の故事に倣っている。『漢書』巻七十六韓延寿伝に「日者燕王為無道,韓義出身彊諫,為王所殺。義無比干之親而蹈比干之節,宜顯賞其子,以示天下,明為人臣之義。」とある。
九月、大赦をおこなった。冬十二月、呉の大将全端・全懌らが民衆を率いて降伏してきた。(1)
(1) 全端・全懌は孫亮の夫人、全夫人の親族。この時、全禕・全儀も降伏し、全煕は殺害されている。このことは『三國志』呉書五孫亮全夫人伝に記述がある。
三年春二月,大將軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕.三月,詔曰:「古者克敵,收其屍以爲京觀,所以懲昏逆而章武功也.漢孝武元鼎中,改桐鄕爲聞喜,新鄕爲獲嘉,以著南越之亡.大將軍親總六戎,營據丘頭,內夷{羣(群)}凶,外殄寇虜,功濟兆民,聲振四海.克敵之地,宜有令名,其改丘頭爲武丘,明以武平亂,後世不忘,亦京觀二邑之義也.」
三年春二月、大将軍司馬文王(司馬昭)は寿春城を陥落させ、諸葛誕を斬った。三月、詔を発した。「昔は敵に勝てば、その屍を集めて京観(1)を作ったという。これは反逆を懲らしめ武功を顕彰するためである。また、前漢の孝武帝は元鼎年間に、〔地名を変更して〕桐郷を改めて聞喜とし、新郷を獲嘉として、南越を滅ぼしたことを明らかにした。(2)大将軍(司馬昭)は六軍を統率して、丘頭に駐屯し、内部では悪人どもを平定し、外部では外敵を滅ぼし、その功績により多くの民を救い、名声は全土にとどろいている。敵に勝った土地は、立派な名である方がよい。そこで丘頭を改めて武丘とし、(3)武力で反乱を平定したことを明らかにすれば、後世も忘れず、また京観や二つの土地の意義とも通ずる。」
(1) 京観は、武功を示すために敵の屍を積んだ上に土を高く盛った塚。
(2) このことは『漢書』武帝紀第六にある。
(3) 丘頭改め武丘は豫州汝南郡の穎水のほとりにある。
夏五月,命大將軍司馬文王爲相國,封晉公,食邑八郡,加之九錫,文王前後九讓乃止.
夏五月、大将軍司馬文王(司馬昭)を相国に任命し、晋公に封じ、食邑は八郡とし、これに九錫を加えようとしたが、文王(司馬昭)は前後九度にわたり固辞したため、取りやめとなった。
六月丙子,詔曰:「昔南陽郡山賊擾攘,欲劫質故太守東里袞,功曹應餘獨身捍袞,遂免於難.餘顚沛殞斃,殺身濟君.其下司徒,署餘孫倫吏,使蒙伏節之報.」[一]
[一] 楚國先賢傳曰:餘字子正,天姿方毅,志尚仁義,建安二十三年爲郡功曹.是時吴、蜀不賓,疆埸多虞.宛將侯音扇動山民,保城以叛.餘與太守東里袞當擾攘之際、逬竄得出.音卽遣騎追逐,去城十里相及,賊便射袞,飛矢交流.餘前以身當箭,被七創,因謂追賊曰:「侯音狂狡,造爲凶逆,大軍尋至,誅夷在近.謂卿曹本是善人,素無惡心,當思反善,何爲受其指揮?我以身代君,以被重創,若身死君全,隕沒無恨.」因仰天號哭泣涕,血淚俱下.賊見其義烈,釋袞不害.賊去之後,餘亦命絕.征南將軍曹仁討平音,表餘行狀,幷脩祭醊.太祖聞之,嗟歎良久,下荊州復表門閭,賜穀千斛.袞後爲于禁司馬,見魏略游說傳.
六月丙子、詔を発した。「昔南陽郡(荊州)の山賊が世を騒がし、以前の太守であった東里袞を人質に取ろうとした。功曹の応余は一人で東里袞を守り、〔東里袞は〕難を免れた。応余は倒れて死んだが、自身の身を殺して主君を救ったという。そこで司徒に命を下す。応余の孫応倫を官吏に就け、〔応余が〕節義を貫いたことに報いて、〔その名誉を〕受け継がせよ。」
[一] 『楚国先賢伝』に次のようにある。応余は字を子正といい、生まれつき才能に優れ、正直でひるまず、志は高く仁義に厚く、建安二十三年郡の功曹を拝命した。この時呉・蜀は従わず、国境付近は不穏であった。宛の将軍侯音は山民を煽動し、城市を占拠して反乱を起こした。応余と太守東里袞は争乱を防いだ時に、敗走して城市から出ることができた。侯音は直ちに騎兵を派遣して追わせて、城市から十里離れたところで追いつき、賊徒はすぐさま東里袞に弓矢を放ち、飛矢が互いに飛び交った。応余は先にその身に矢を受け、七箇所に傷を負った。そこで追ってきた賊徒に言った。「侯音は狂った悪人であり、突然反乱を起こし、大軍がやって来て、討ち尽くして近隣にいる。君たちは元々善人で、本来悪い心を持たないのに、善に帰ることを考えるべきである。なぜその指揮をを受けるのか?私は主君の身代わりとなり、多くの傷を負った。もしこの身が死ぬことで主君が生き残れるのなら、死んでも恨みはない。」そこで天を仰いで号泣し、血の涙が流れた。賊徒は彼の忠義の烈しさを見て、東里袞を釈放して危害を加えなかった。賊徒が去った後、応余は命を落とした。征南将軍曹仁が侯音を討ち、応余の行状を上奏し、あわせて祭祀を行った。太祖(曹操)はこれを聞いて、しばらく嘆き悲しみ、荊州に命令を下して城門にて表彰させ、穀物千斛を与えた。東里袞の後は于禁司馬(1)が務めたと『魏略』游説伝にある。
(1) 于禁司馬というのは、よく分からない。『正史三国志』(ちくま学芸文庫)では、「東里袞は後年、于禁司馬となった」と官職のように訳している。中華書局二十四史点校本では、于禁の箇所に固有名詞を表す傍線が引かれている。曹操の家臣である于禁だとすれば、『三國志』魏書十七于禁伝に「太祖召見與語,拜軍司馬」とあり、「かつて軍司馬であった于禁」と言うほどの意味であろうか?ただし、軍司馬に任命されたのは、曹操に仕え始めた当初のことであり、時期的に離れていて不自然である。ただし、侯音による反乱が建安二十三年以降であり、翌二十四年には曹仁が関羽討伐に樊城へ向かい、于禁が援軍に向かっていることから、于禁は侯音の反乱で東里袞が退いた後、宛に入ったいたと解釈して訳した。
辛卯、淮南での功績を大いに論じ、爵位を封じたり褒美を与えるのに各々格差を設けた。
秋八月甲戌,以驃騎將軍王昶爲司空.丙寅,詔曰:「夫養老興敎,三代所以樹風化垂不朽也,必有三老、五更以崇至敬,乞言納誨,著在惇史,然後六合承流,下觀而化.宜妙簡德行,以充其選.關內侯王祥,履仁秉義,雅志淳固.關內侯鄭小同,溫恭孝友,帥禮不忒.其以祥爲三老,小同爲五更.」車駕親率羣司,躬行古禮焉.[一]
[一] 漢晉春秋曰:帝乞言於祥,祥對曰:「昔者明王禮樂旣備,加之以忠誠,忠誠之發,形于言行.夫大人者,行動乎天地;天且弗違,況於人乎?」祥事別見呂虔傳.小同,鄭玄孫也.玄別傳曰:「玄有子,爲孔融吏,舉孝廉.融之被圍,往赴,爲賊所害.有遺腹子,以丁卯日生;而玄以丁卯歲生,故名曰小同.」魏名臣奏載太尉華歆表曰:「臣聞勵俗宣化,莫先於表善,班祿敍爵,莫美於顯能,是以楚人思子文之治,復命其胤,漢室嘉江公之德,用顯其世.伏見故漢大司農北海鄭玄,當時之學,名冠華夏,爲世儒宗.文皇帝旌錄先賢,拜玄適孫小同以爲郞中,長假在家.小同年踰三十,少有令質,學綜六經,行著鄕邑.海、岱之人莫不嘉其自然,美其氣量.迹其所履,有質直不渝之性,然而恪恭靜默,色養其親,不治可見之美,不競人閒之名,斯誠淸時所宜式敍,前後明詔所斟酌而求也.臣老病委頓,無益視聽,謹具以聞.」魏氏春秋曰:小同詣司馬文王,文王有密疏,未之屛也.如廁還,謂之曰:「卿見吾疏乎?」對曰:「否.」文王猶疑而鴆之,卒.鄭玄注文王世子曰「三老、五更各一人,皆年老更事致仕者也」.注樂記曰「皆老人更知三德五事者也」.蔡邕明堂論云:「更」應作「叟」.叟,長老之稱,字與「更」相似,書者遂誤以爲「更」.「嫂」字「女」傍「叟」,今亦以爲「更」,以此驗知應爲「叟」也.臣松之以爲邕謂「更」爲「叟」,誠爲有似,而諸儒莫之從,未知孰是.
秋八月甲戌、驃騎将軍王昶を司空に任命した。丙寅、詔を発した。「そもそも老人を養って教化を始めるというのは、三代(夏・殷・周)の世において、道徳を確立し滅びないようにするためである。必ず三老・五更がいて尊び敬い、教えを乞うてその教えを受け入れ、記録に残したのである。その後に世間でも受け継がれ流布し、下々もこれを見て教化されるのである。徳行に優れたものを選抜し、(三老・五更に)任命するのがよい。関内侯王祥(1)は、仁を実践し義を守り、普段の心がけについても濁りなく固く守っている。関内侯鄭小同は、穏やかで慎み深く父母に仕え兄弟の仲が良く、礼に従って変えることがない。そこで王祥を三老に、鄭小同を五更に任命する。」車駕(天子の乗り物)に乗って皇帝自ら役人達を率いて、古の礼を自ら実践した。[一]
[一] 『漢晋春秋』に次のようにある。皇帝(曹髦)は王祥に教えを乞うと、王祥は答えた。「昔、明王は礼楽を高い程度で身に付けており、加えるのは忠誠でした。忠誠の発現は、(明王の)言行によって形成されます。そもそも徳の高い人は、天地(の如き境涯)にて行動するものです。天は間違えることはありません。まして人に対しても間違えることがありましょうか?」王祥の事は、別に呂虔伝にも見られる。鄭小同は、鄭玄の孫である。『鄭玄別伝』に次のようにある。「鄭玄には男子があり、孔融の役人となって、孝廉に推挙された。孔融が包囲され、赴いたが、賊に殺害された。彼の妻は妊娠しており、丁卯の日に生まれた。鄭玄は丁卯の歳に生まれたことから、小同と名付けた(2)。」
『魏名臣奏』は太尉華歆(3)の上奏文を記載している。「私は次のように聞いております。民衆を励まし教化するには、善を表すことより先にすることはなく、禄を分け与え爵位を与えるには、能力を表彰することより表彰すべきものはありません。このことから楚の人は子文の治世を思い、再びその後胤を任命し、漢室は江公の徳を褒めて、採用してその世に明らかにしました。伏して昔を見たところ、漢の大司農北海郡の鄭玄は、当時の学者であり、名声は中華第一であり、当時の儒宗でした。文皇帝(曹丕)は先代の賢人を褒めて記録し、鄭玄の適孫である鄭小同を郎中に任命しました。長期間役人とならなかったのですが、鄭小同の年齢が三十歳を超えると、幼少から生まれつきの才能があり、六経を学び、行いは郷里に知られていました。海・岱の人は彼の有り様を喜ばないものはなく、その気量を褒め称えました。彼の実行したことを辿れば、まっすぐで変わらない性格を持ち、しかしながら慎み深く寡黙で、親に仕え、外見の素晴らしさを整えることなく、世間の名声を競わず、誠に太平の世において採用すべき者であり、以前から詔を発して考慮して求めていた者です。私は老いて病気となり疲れて力が抜けてしまい、見聞きするのに利益はありませんが、謹んで聞き及びましたところを述べました。」
『魏氏春秋』には次のようにある。鄭小同は司馬文王(司馬昭)に謁見した際、文王(司馬昭)は内密の文書を持っており、これを隠していなかった。〔文王(司馬昭)は〕便所へ行って帰ってくると、彼に言った。「貴卿は私の文書を見たか?」答えた。「いいえ。」文王(司馬昭)は疑って、彼に毒を飲ませ、卒去させた。
鄭玄は『文王世子』に注釈をつけている。「三老・五更は各一人であり、皆年老いて更に退職したものがなるものである。」また、『楽記』に注を付けている。「皆老人は更に三徳五事を知るものです。」と。
蔡邕(4)の『明堂論』では次のようにある。「更」は「叟」としなければならない。長老のことをいい、字形が「更」と相似ていて、書者がそのまま誤って「更」に直した。「嫂」の字は、「女」の横に「叟」があり、今もまた「更」としている。これは経験から「叟」と言う字にすべきである。私裴松之が思うには、蔡邕は「更」を「叟」としているが、誠に似た文字があっても、多くの儒家はこれに従っていないことから、まだいずれが正しいかは分からない。
(1)
王祥は字を休徴といい、徐州琅邪国臨沂県の人。『晋書』列伝第三に伝がある。至孝の人として知られ、『晋書』や『世説新語』にその記述がある。司馬氏が台頭する中、魏朝の朝臣として忠節を尽くした。
(2) 「丁卯の日」と「丁卯の歳」で干支が同じであり、時間の長短を比較して「丁卯の日」の方が短いことから「小同」と名付けたということと思われる。
(3) 華歆は字を子魚といい、冀州平原郡高唐県の人。『三國志』魏書十三に伝がある。
(4) 蔡邕は字を伯喈といい、兗州陳留郡圉県の人。『後漢書』列伝第五十下に伝がある。
この歳、青龍と黄龍が冀州陽平郡頓丘県・荊州南陽郡冠軍県・豫州陳郡陽夏県の県境の井戸の中でしばしば発見された。
四年春正月,黃龍二,見寧陵縣界井中.[一]夏六月,司空王昶薨.秋七月,陳留王峻薨.冬十月丙寅,分新城郡,復置上庸郡.十一月癸卯,車騎將軍孫壹爲婢所殺.
[一] 漢晉春秋曰:是時龍仍見,咸以爲吉祥.帝曰:「龍者,君德也.上不在天,下不在田,而數屈於井,非嘉兆也.」仍作潛龍之詩以自諷,司馬文王見而惡之.
四年春正月、黄龍二匹が、豫州梁国寧陵県の県境の井戸の中で見つかった。[一]夏六月、司空王昶が薨去した。秋七月、陳留王曹峻(1)が薨去した。冬十月丙寅、新城郡を分割して、再び上庸郡を設置した。十一月癸卯、車騎将軍孫壱が下女により殺害された。
[一] 『漢晋春秋』に次のようにある。この時、龍がしばしば発見され、みな瑞祥だと考えた。皇帝(曹髦)は言った。「龍は、君主の徳である。上には天におらず、下には田におらず、しばしば井戸の中に屈まっているのは、嘉すべき兆しではあるまい。」そこで「潜龍」の詩(2)を作って自らあてこすりをし、司馬文王(司馬昭)は見て、高貴郷公(曹髦)を憎んだ。
(1) 陳留王曹峻は字を子安という。曹操と秦夫人との間の子。『三國志』魏書二十に伝がある。
五年春正月朔,日有蝕之.夏四月,詔有司率遵前命,復進大將軍司馬文王位爲相國,封晉公,加九錫.
五年春正月一日、日蝕があった。夏四月、役人に以前に発した辞令に従うよう告げ、大将軍司馬文王(司馬昭)の位を相国とし、晋公に封じ、九錫を加えた。
五月己丑,高貴鄕公卒,年二十.[一]皇太后令曰:「吾以不德,遭家不造,昔援立東海王子髦,以爲明帝嗣,見其好書疏文章,冀可成濟,而情性暴戾,日月滋甚.吾數呵責,遂更忿恚,造作醜逆不道之言以誣謗吾,遂隔絕兩宮.其所言道,不可忍聽,非天地所覆載.吾卽密有令語大將軍,不可以奉宗廟,恐顚覆社稷,死無面目以見先帝.大將軍以其尚幼,謂當改心爲善,殷勤執據.而此兒忿戾,所行益甚,舉弩遙射吾宮,祝當令中吾項,箭親墮吾前.吾語大將軍,不可不廢之,前後數十.此兒具聞,自知罪重,便圖爲弑逆,賂遺吾左右人,令因吾服藥,密因酖毒,重相設計.事已覺露,直欲因際會舉兵入西宮殺吾,出取大將軍,呼侍中王沈、散騎常侍王業、[二]尚書王經,出懷中黃素詔示之,言今日便當施行.吾之危殆,過于累卵.吾老寡,豈復多惜餘命邪?但傷先帝遺意不遂,社稷顚覆爲痛耳.賴宗廟之靈,沈、業卽馳語大將軍,得先嚴警,而此兒便將左右出雲龍門,雷戰鼓,躬自拔刃,與左右雜衞共入兵陳閒,爲前鋒所害.此兒旣行悖逆不道,而又自陷大禍,重令吾悼心不可言.昔漢昌邑王以罪廢爲庶人,此兒亦宜以民禮葬之,當令內外咸知此兒所行.又尚書王經,凶逆無狀,其收經及家屬皆詣廷尉.」
[一] 漢晉春秋曰:帝見威權日去,不勝其忿.乃召侍中王沈、尚書王經、散騎常侍王業,謂曰:「司馬昭之心,路人所知也.吾不能坐受廢辱,今日當與卿[等]自出討之.」王經曰:「昔魯昭公不忍季氏,敗走失國,爲天下笑.今權在其門,爲日久矣,朝廷四方皆爲之致死,不顧逆順之理,非一日也.且宿衞空闕,兵甲寡弱,陛下何所資用,而一旦如此,無乃欲除疾而更深之邪!禍殆不測,宜見重詳.」帝乃出懷中版令投地,曰:「行之決矣.正使死,何所懼?況不必死邪!」於是入白太后,沈、業奔走吿文王,文王爲之備.帝遂帥僮僕數百,鼓譟而出.文王弟屯騎校尉伷入,遇帝於東止車門,左右呵之,伷衆奔走.中護軍賈充又逆帝戰於南闕下,帝自用劍.衆欲退,太子舍人成濟問充曰:「事急矣.當云何?」充曰:「畜養汝等,正謂今日.今日之事,無所問也.」濟卽前刺帝,刃出於背.文王聞,大驚,自投于地曰:「天下其謂我何!」太傅孚奔往,枕帝股而哭,哀甚,曰:「殺陛下者,臣之罪也.」
臣松之以爲習鑿齒書,雖最後出,然述此事差有次第.故先載習語,以其餘所言微異者次其後.
世語曰:王沈、王業馳吿文王,尚書王經以正直不出,因沈、業申意.晉諸公贊曰:沈、業將出,呼王經.經不從,曰:「吾子行矣!」
干寶晉紀曰:成濟問賈充曰:「事急矣.若之何?」充曰:「公畜養汝等,爲今日之事也.夫何疑!」濟曰:「然.」乃抽戈犯蹕.
魏氏春秋曰:戊子夜,帝自將宂從僕射李昭、黃門從官焦伯等下陵雲臺,鎧仗授兵,欲因際會,自出討文王.會雨,有司奏{卻(却)}日,遂見王經等出黃素詔於懷曰:「是可忍也,孰不可忍也!今日便當決行此事.」入白太后,遂拔劍升輦,帥殿中宿衞蒼頭官僮擊戰鼓,出雲龍門.賈充自外而入,帝師潰散,猶稱天子,手劍奮擊,衆莫敢逼.充帥厲將士,騎督成倅弟成濟以矛進,帝崩于師.時暴雨雷霆,晦冥.
魏末傳曰:賈充呼帳下督成濟謂曰:「司馬家事若敗,汝等豈復有種乎?何不出?!」倅兄弟二人乃帥帳下人出,顧曰:「當殺邪?執邪?」充曰:「殺之.」兵交,帝曰:「放仗!」大將軍士皆放仗.濟兄弟因前刺帝,帝倒車下.
[二] 世言曰:業,武陵人,後爲晉中護軍.
五月己丑、高貴郷公が卒去した。年は二十歳。[一]皇太后が号令した。「私の不徳によって、曹家が不幸に遭いました。昔、東海王曹霖の子曹髦を擁立し、明帝の跡を継がせました。書を好み文章に通じているのを見ますと、皇帝の役目を成し遂げることができると願っておりましたが、性格は乱暴であり、日々月々にますますひどくなりました。私はしばしば呵責致しましたが、さらに怒り、道理に反する発言をして私を貶め、遂に両宮を隔絶しました。曹髦の発言は、聞くに忍びず、天地が庇護することができなくなりました。私は密かに命令を出して、このままでは宗廟を奉ずることができず、社稷を転覆させる恐れがあり、死んで先帝にまみえた時の面目が立たないと大将軍(司馬昭)に相談いたしました。大将軍はこのことは〔皇帝が〕まだ成熟していないためだとして、改心すれば善くなると言って、丁寧に道理を尽くして話し合いをしました。ところが、この子ども(曹髦)はわがままにも怒りだし、振る舞いはますますひどくなり、弩を構えて遥か離れた私の宮殿を射て、きっと私の項を射抜こうと呪ったのでしょう、矢は私のすぐ前に落ちたのです。私は彼(曹髦)を廃さなければならないと、数十回も大将軍(司馬昭)に相談いたしました。この子ども(曹髦)は詳しく聞いて、自ら罪の重いことを知り、〔私を〕弑殺しようと計画し、私の側近に賄賂を送り、私が薬を服用する際に、密かに酖毒を飲ませようとするなど、さらに謀略を企てました。事が露見すると、直ちに良い機会とばかりに挙兵し、西宮に侵入して私を殺害しようとし、脱出して大将軍(司馬昭)に助けを求めますと、侍中王沈(1)・散騎常侍王業・[二]尚書王経を呼び、懐より詔勅を取り出して示し、本日直ちに施行せよと言ったのであります。私の身は、重ね積み上げた卵よりも危うかったのです。私は老いて余生少なく、どうして余命を惜しむことがありましょうや?ただ先帝の遺志を傷つけて成し遂げず、社稷の転覆を我が痛みとするのみです。宗廟の霊に頼って、王沈・王業は直ちに大将軍(司馬昭)のもとへ駆けつけて報告し、警備を厳重にすることができましたが、この子ども(曹髦)は側近を率いて雲龍門を出て、戦鼓を打ち鳴らし、自ら抜刀し、側近や雑兵らと共に兵士の居並ぶ中に斬り込み、前鋒の兵士に殺害されました。この子ども(曹髦)は正道に背いて、自ら大きな禍へ身を落としたのです。ひどく私の心を悲しませ、言葉にすることができません。昔、漢の昌邑王(2)は罪を犯した為に廃され庶民となりましたが、この子ども(曹髦)もまた庶民の礼法によって葬り、内外の皆にこの子ども(曹髦)の所行を知らしめなければなりません。また尚書王経は悪逆にして功績もないので、王経およびその家族を捕らえ、廷尉へ送るようにせよ。」
[一] 『漢晋春秋』に次のようにある。皇帝(曹髦)は従える力が日々衰えていくのを見て、その怒りを堪えることができなかった。そこで侍中王沈・尚書王経・散騎常侍王業を呼び、言った。「司馬昭の心は、道行く人々でも知っている。私は虚しく廃位の辱めを受けることはできない。今日、お前達と共に自ら出て司馬昭を討つ。」王経は言った。「昔、魯の昭公は季氏に我慢できず、敗走して国を失い、天下の笑いものとなりました。今、権勢は司馬氏一門にあって,長期間に及び、朝廷内のどの者も司馬氏の為に身命を惜しまず、秩序を考えなくなったのは、一日のことではありません。しかも宮中の警固は薄く、兵士や武器も少ない状況であり、陛下は何を用いようとなさるのですか? しかも一度このような状態になったのでは、その病原を除こうとしても、更に病状を深刻にしてしまうのではないでしょうか! その禍の度合いは予測できません。再度落ち着いてお考えあるべきです。」皇帝(曹髦)はそこで懐より詔勅を取り出して地面に投げつけ、言った。「司馬昭を討つことは決定しているのだ。もし死ぬようなことがあったとしても、何を懼れようか?ましてや必ずしも死ぬとは限るまい!」ここで皇太后へこの次第を伝えに宮中へ入ったところ、王沈・王業は文王(司馬昭)のもとへ奔走して次第を告げたので、文王(司馬昭)はこれに備えた。皇帝(曹髦)は召使いを数百人率いて、鼓を打ち鳴らしながら出てきた。文王(司馬昭)の弟の屯騎校尉司馬伷が入ったところ、皇帝(曹髦)に東止車門にて遭遇した。皇帝(曹髦)は側近を叱りつけたところ、司馬伷率いる者どもは逃げ去った。中護軍賈充もまた皇帝(曹髦)に背いて南闕の下で戦い、皇帝(曹髦)は自ら剣を抜いた。ものどもは退却しようとしたところ、太子舍人成済が賈充に質問して言った。「事態は急を告げております。〔皇帝(曹髦)に〕なんと申し上げれば良いでしょうか?」賈充は言った。「お前達の面倒を見てやったのは、まさに今日という日の為である。今日のこの事態に、質問することなどない。」成済はすぐさま前に進んで皇帝(曹髦)を刺し、刃は背を貫いた。文王(司馬昭)はこれを聞いて、大いに驚き、自らの身を地に投げ出して言った。「天下は私のことをなんというであろうか!」太傅司馬孚は走り行き、皇帝(曹髦)の足下にすがりついて泣き、ひどく悲しんで、言った。「陛下が殺害されたのは、私の罪であります」
私裴松之は次のように考える。習鑿歯の書は、最も後の世に出たものであるが、この事を記述するのにほぼ順序が整っている。だからまず先に習鑿歯の文章を載せ、その他の書で僅かに異なるところについてはその次に載せることにした。
『世語』には次のようにある。王沈・王業は文王(司馬昭)のもとへ駆けつけて報告し、尚書王経は〔魏朝の臣としての〕忠義を守って退出せず、王沈・王業を通じて〔自身の〕考えを述べた。
『晋諸公賛』には次のようにある。王沈・王業は退出しようとして、王経を呼んだ。王経は応じず、言った。「君たちは行きなさい!」
干宝の『晋紀』では次のようにある。成済は賈充に質問した。「事態は急を告げております。いかがいたしましょうか?」賈充は行った。「陛下がお前達を養ってきたのは、今日のような事があるためである。何を考えることがあるのか!」成済は言った。「分かりました。」そこで矛を抜いて〔皇帝外出の際の〕先払いを無視して〔皇帝の軍に〕侵入した。
『魏氏春秋』に次のようにある。戊子の夜、皇帝(曹髦)は自ら宂従僕射李昭・黄門従官焦伯達を率いて陵雲台を降り、防具武器を兵士に与え、遭遇した際に、自ら出て文王(司馬昭)を討とうとした。雨が降り、役人が日を遅らせるよう奏上したが、王経達と会い、詔勅を懐から出して言った。「これが耐えられれば、何が耐えられないであろうか!(3)今日、これを決行するのだ。」入って皇太后に説明し、遂に剣を抜いて輦(天子の乗る車)に乗り、殿中の宿衛、兵士、役所の給仕を率いて戦鼓を打って、雲龍門を出た。賈充が外から入ると、皇帝(曹髦)が率いる者どもは崩れ去ったが、それでも天子を名乗り、自ら剣を振るって力の限り攻撃する様子に、多くの者が近づこうとしなかった。賈充は将士を励ますと、騎督成倅の弟成済が矛を構えて進み、皇帝(曹髦)は軍の戦う中で崩御した。その時、激しい雷雨となり、真っ暗になった。
『魏末伝』に次のようにある。賈充は陣幕に呼んで成済に促して言った。「司馬家がここで敗れるようなことがあれば、お前達はどうして子孫を残していけようか?なぜ出撃しないのだ!」成倅・成済兄弟二人は、陣幕に控えていたものを率いて出撃し、振り返って言った。「殺しますか?それとも捕らえますか?」賈充は言った。「殺せ。」兵士は交戦すると、皇帝(曹髦)は言った。「武器を捨てよ!」大将、軍士は皆武器を捨てた。成済兄弟は前へ進んで皇帝(曹髦)を刺し、皇帝(曹髦)は車の下に倒れた。
[二] 『世言』(4)に次のようにある。王業は、荊州上庸郡武陵県の人で、後に晋の中護軍となった。
(1) 王沈は字を処道といい、幷州太原郡晋陽の人。『晋書』列伝第九に伝がある。
(2) 昌邑王は劉賀のこと。漢の武帝の孫。劉髆の子。昭帝崩御の後、霍光が劉賀を迎えて即位させたが、行いが淫乱であったため、二十七日間で廃位され、昌邑に帰された。『漢書』武五子伝第三十三に伝がある。
(3) これと同じ表現が『論語』八佾第三にある。孔子が魯の季氏の非礼を嘆く際の言葉。
(4) 中華書局本の誤植。『三国志集解』では『世語』となっている。
庚寅,太傅孚、大將軍文王、太尉柔、司徒沖稽首言:「伏見中令,故高貴鄕公悖逆不道,自陷大禍,依漢昌邑王罪廢故事,以民禮葬.臣等備位,不能匡救禍亂,式遏姦逆,奉令震悚,肝心悼慄.春秋之義,王者無外,而書『襄王出居于鄭』,不能事母,故絕之于位也.今高貴鄕公肆行不軌,幾危社稷,自取傾覆,人神所絕,葬以民禮,誠當舊典.然臣等伏惟殿下仁慈過隆,雖存大義,猶垂哀矜,臣等之心實有不忍,以爲可加恩以王禮葬之.」太后從之.[一]
[一] 漢晉春秋曰:丁卯,葬高貴鄕公于洛陽西北三十里瀍澗之濱.下車數乘,不設旌旐,百姓相聚而觀之,曰:「是前日所殺天子也.」或掩面而泣,悲不自勝.
臣松之以爲若但下車數乘,不設旌旐,何以爲王禮葬乎?斯蓋惡之過言,所謂不如是之甚者
庚寅、太傅司馬孚・大将軍文王(司馬昭)・太尉高柔・司徒鄭沖は稽首して(1)言った。「皇太后の命令を伏して見ますと、故高貴郷公は正道に背き、自ら大きな禍に身を落とした為、漢の昌邑王が罪を犯して廃位された故事に因って、庶民の葬礼にて葬送せよとあります。私どもは官位に就きながら、混乱の危機から救い出すことも、反乱を防ぐこともできず、命令を受けて震えて身がすくみ、心は恐れおののきました。『春秋左伝』には、「王は〔天下が家であるので、家の〕外というのはないが、『春秋』に「襄王は脱出して鄭に居た」と記されている」とあり、〔『春秋公羊伝』とその注には、これは襄王が〕母に従わなかったから、襄王を廃位したとあります。(2)今、高貴郷公は恣に振る舞って従わず、社稷を危うくさせ、自ら転落して、人にも神にも拒絶されました。民間の礼によって葬送するというのは、誠に旧典に沿うものです。しかしながら私どもが伏して考えるに殿下の思いやりと慈しみは大きく、大義があると言っても、やはり不憫だと感じておられて、私どもの心も実は〔民間の礼での葬送には〕耐え難いものがあります。恩愛を加えて王の礼で高貴郷公を葬送するのがよいと思います。」皇太后はこの意見に従った。[一]
[一] 『漢晋春秋』に次のようにある。丁卯、高貴郷公を洛陽の西北三十里にある瀍水と澗水の間の場所(3)へ葬った。下車(4)は数台しかなく、旌旐(5)を立てていなかったので、民衆は集まってこの葬列を見て言い合った。「これは先日殺された天子の葬列だ。」ある者は顔を掩って泣き、悲しみに堪え忍ぶことができなかった。
私裴松之は次のように考える。もし下車が数台で、旌旐を立てていなければ、どうして王の礼で葬送したと言えようか?これはおそらく、この事を憎んだものの言い過ぎであって、これほどひどいものではなかったのであろう。
(1) 稽首は九拝の一つで、膝を屈し、頭を地面に暫く付けて敬礼すること。頓首と共に最も重い礼。
(2) 周の襄王が、後母の恵后の子である叔帯と王位を争い、鄭に出奔した故事。『春秋左伝正義』僖公二十四年に「天子無出,書曰,天王出居于鄭,辟母弟之難也。」とある。また『春秋公羊伝注疏』僖公二十四年には、「冬,天王出居于鄭,王者無外,此其言出何。不能乎母也。」とあり、その注に「不能事母,罪莫大於不孝,故絕之言出也。下無廢上之義得絕之者,明母得廢之,臣下得從母命。」とある。
(3) 瀍澗は、瀍水と澗水の事。『中国歴史地図集(第三冊)』には、瀍水が洛陽の西北を南北に流れ、澗水は洛陽の西にある。おそらく高貴郷公が葬られたのは、瀍水より西で澗水より北の地域。
(4) 下車は、死体と共に埋葬する粗末な車のこと。
(5) 「旌」・「旐」は、ともに旗のこと。特に「旐」は、出棺を先導する旗のこと。
使使持節行中護軍中壘將軍司馬炎北迎常道鄕公璜嗣明帝後.帝卯,羣公奏太后曰:「殿下聖德光隆,寧濟六合,而猶稱令,與藩國同.請自今殿下令書,皆稱詔制,如先代故事.」
使持節行中護軍中塁将軍司馬炎を北方へ派遣させ、常道郷公曹璜を迎え明帝の後を継いだ。辛卯、多くの公が皇太后に奏上した。「皇太后殿下の優れた徳が光り輝き、天下は安定しましたが、〔皇太后の命令を〕藩国同様、令と呼んでおります。今より皇太后殿下の命令は、皆詔制と呼び、先代の故事のようになさることを願います。」
癸卯,大將車固讓相國、晉公、九錫之寵.太后詔曰:「夫有功不隱,周易大義,成人之美,古賢所尚,今聽所執,出表示外,以章公之謙光焉.」
癸卯、大将軍(司馬昭)は相国・晋公・九錫の処遇を固辞した。皇太后は詔を発した。「そもそも功績があれば隠さないというのが、『周易』の意義であり、学問・道徳を兼ね備えた人物の素晴らしさを、古代の賢者は尊重したのです。今、こだわる事を許し、文書を出して外部へ公表して、大将軍の謙譲を顕彰せよ。」
戊申,大將軍文王上言:「高貴鄕公率將從駕人兵,拔刃鳴金鼓向臣所止;懼兵刃相接,卽勑將士不得有所傷害,違令以軍法從事.騎督成倅弟太子舍人濟,橫入兵陳傷公,遂至隕命;輒收濟行軍法.臣聞人臣之節,有死無二,事上之義,不敢逃難.前者變故卒至,禍同發機,誠欲委身守死,唯命所裁.然惟本謀乃欲上危皇太后,傾覆宗廟.臣忝當大任,義在安國,懼雖身死,罪責彌重.欲遵伊、周之權,以安社稷之難,卽駱驛申勑,不得迫近輦輿,而濟遽入陳閒,以致大變.哀怛痛恨,五內摧裂,不知何地可以隕墜?科律大逆無道,父母妻子同產皆斬.濟凶戾悖逆,干國亂紀,罪不容誅.輒勑侍御史收濟家屬,付廷尉,結正其罪.」[一]太后詔曰:「夫五刑之罪,莫大於不孝.夫人有子不孝,尚吿治之,此兒豈復成人主邪?吾婦人不達大義,以謂濟不得便爲大逆也.然大將軍志意懇切,發言惻愴,故聽如所奏.當班下遠近,使知本末也.」[二]
[一] 魏氏春秋曰:成濟兄弟不卽伏罪,袒而升屋,醜言悖慢;自下射之,乃殪.
[二] 世語曰:初,靑龍中,石苞鬻鐵於長安,得見司馬宣王,宣王知焉.後擢爲尚書郞,歷靑州刺史、鎭東將軍.甘露中入朝,當還,辭高貴鄕公,留中盡日.文王遣人要令過.文王問苞:「何淹留也?」苞曰:「非常人也.」明日發至滎陽,數日而難作.
戊申、大将軍文王(司馬昭)は皇太后へ次のように述べた。「高貴郷公は出撃のために兵士を率いて、刃を抜き戦鼓を鳴らして私に迫りましたのをお留めしたのです。兵士らは合戦となるのを恐れておりましたので、将士を従えて傷害をおこなうなどありえず、令に違反すれば、軍法で処置されます。騎督成倅の弟、太子舍人成済は、不意に兵陣へ入って、高貴郷公を傷つけ、そのままお亡くなりになりました。直ちに成済を捕らえ軍法に照らして処置いたしました。私が聞くところでは、人臣の節度は、死んでも二心なく、君主の意図に従い、難を逃れないものと言います。先の変事は突然に起こり、禍は石弓を放つが如く迫りましたが、身をゆだねて死をに服し、ただ裁きを命ぜられるのみだと思っておりました。しかしながら、この謀略について考えますと、皇太后に危害を加え、宗廟を転覆させようとするものでありましたので、私は忝くも大任を務めました。意図は国を安定させることであり、私が死ぬことになっても、その罪がますます重くなることを懼れます。伊尹・周公旦の臨機応変の振る舞いに倣い、社稷の危難を安定させるために、継続して諫めようとしましたが、輦輿に近づくこともできませんでした。しかし成済は俄に兵陣の中に侵入して、大変をなしました。悲しみは痛恨の極みであり、体内の全ての臓器が砕け散るが如く、どこで死ねば良いかが分からなくなりました。法令では大逆無道をおこなった場合は、父母・妻子・兄弟は皆、斬刑に処するとあります。成済は道理を失い反逆し、国家に刃向かって秩序を乱し、その罪は誅殺でも足りないほどです。直ちに侍御史に命じて成済の一族を逮捕し、廷尉へ送りましたので、その罪を審議し判決を下すでしょう。」[一]皇太后は詔を発した。「そもそも五刑に値する罪は、不孝に勝るものはありません。婦人は子が不孝であれば、諭して更正させれば、その子は再び人主にふさわしくなれたでしょう。私婦人が大義を伝えることができなかったので、成済は分からずに大逆を成したのです。しかしながら大将軍(司馬昭)は考えを丁寧に述べ、発言は悲しみにあふれているので、奏上の通りにすることを許す。遠いところにいるものにも近いところにいるものにも、事情を知らせるようにせよ。」[二]
[一] 『魏氏春秋』に次のようにある。成済兄弟は直ちには罪に服さず、肩脱ぎ(1)したまま建物に上り、暴言を吐いて傲慢に振る舞った。階下より矢を射たところ、死んだ。
[二] 『世語』には次のようにある。その昔、青龍年間(233〜236)に、石苞(2)は長安で鉄を商い、司馬宣王(司馬懿)に会うことができ、宣王(司馬懿)も〔彼を〕知ったのだった。後に尚書郎に抜擢され、青州刺史・鎮東将軍を歴任した。甘露年間(256〜259)に入朝した折、ちょうど帰ろうして、高貴郷公に挨拶をしたが、日が暮れるまで留まった。文王(司馬昭)は人を派遣して立ち寄らせた。文王(司馬昭)は石苞に質問した。「なぜ長居したのだ?」石苞は言った。「大変に優れた方だからです。」次の日、出発して滎陽に到着し、数日して変事が起こった。
(1) 袒は「はだぬぐ」または「かたぬぐ」と読み、上着の袖を脱いで一方の肩だけ露出すること。受刑の際は右肩を出した。
(2) 石苞は字を仲容といい、冀州渤海軍南皮県の人。『晋書』列伝第三に伝がある。
六月癸丑,詔曰:「古者人君之爲名字,難犯而易諱.今常道鄕公諱字甚難避,其朝臣博議改易,列奏.」
六月癸丑、詔を発した。「古、君主は名と字を付けるのに、使用しにくくして諱を変えたものです。今常道郷公の諱の字は使用を避けることがしにくいので、朝臣は広く改名を議論して、奏上せよ」