鄭沖字文和,滎陽開封人也,起自寒微,卓爾立操,清恬寡欲,耽玩經史,遂博究儒術及百家之言。有姿望,動必循禮,任眞自守,不要郷曲之譽,由是州郡久不加禮。
鄭沖は字を文和といい,司州滎陽郡開封県の人である。貧しい家から身を起こし、優れた志を立てて、〔性格は〕清くおだやかで欲も少なく、経書や史書を愛読し(1)、遂に儒教を始め諸子百家の思想を博く修めた。〔儒者としての〕風格があり、振る舞いは必ず礼に従い、ありのまま〔の生活〕を貫き、郷里での名誉(2)を求めなかったので、州や郡では長い間、〔鄭沖を〕招聘しなかった(3)
(1)原文「鄭沖字文和,滎陽開封人也,起自寒微,卓爾立操,清恬寡欲,耽玩經史」 滎陽郡は、晋になってからの地名。三国時代は「司州河南尹開封県」である。
王隠『晋書』に「物事を究め通暁する才能があり、〔性格は〕清廉で欲が少なく、好んで経史を論じた。」とある。(『世説新語』政事第三6 劉孝標注)
(2)原文「郷曲之譽」 郷里で役人となることを指す(?)
『漢書』司馬遷伝に「私は若い頃、学問に優れているわけではなかったので、長らく郷里の名誉を得ることがなかった。」とある。(『漢書』列伝卷六十二司馬遷伝)
(3)原文「不加禮」 「加礼」は、礼を以て接待をすること。ここでは州・郡の役人が鄭沖を役人として招聘に来なかったとした。
及魏文帝爲太子,搜揚側陋,命沖爲文學,累遷尚書郎,出補陳留太守。沖以儒雅爲徳,莅職無幹局之譽,簞食縕袍,不營資産,世以此重之。大將軍曹爽引爲從事中郎,轉散騎常侍、光祿勳。嘉平三年,拜司空。及高貴郷公講尚書,沖執經親授,與侍中鄭小同倶被賞賜。俄轉司徒。常道郷公即位,拜太保,位在三司之上,封壽光侯。沖雖位階台輔,而不預世事。時文帝輔政,平蜀之後,命賈充、羊祜等分定禮儀、律令,皆先諮於沖,然後施行。
魏の文帝(曹丕)が太子になる(217)(4)と、身分の低い者から優れた人物を探し出して登用した。〔魏の文帝(曹丕)は〕鄭沖を文学に任命し、続いて尚書郎に転任させ、陳留太守の補佐をさせた。鄭沖は正しい儒学で徳を顕わし、役人になっても仕事ができるという評判はなかった(4)が、粗末な食事や衣服で済まし、財産を殖やすようなこともなかった(5)ので、世間の人は、これ(質素な生活)をもって、彼を優れた人だと思った。大将軍曹爽が〔鄭沖を〕引き立てて従事中郎とし、散騎常侍・光祿勳に転任した(6)。嘉平三(251)年、司空を拝命した(7)。高貴郷公(曹髦)が尚書の研究をした時、鄭沖は経書を手に持って、じかに教え、侍中の鄭小同とともに賞賜を賜った(8)。しばらくして司徒に転任した(9)。常道郷公(曹奐)が即位(260)し、太保を拝命した(10)。その位は三司(太尉・司空・司徒)の上とされ、寿光侯に封ぜられた。鄭沖の官職は宰相であったが、世俗の事には関与しなかった。そのころ文帝(司馬昭)が政治を補佐しており、蜀を平定した(263)のち、賈充・羊祜に礼儀・律令を定めることを命じた。皆、まず鄭沖に相談して、その後に施行した(11)。
(4)原文「及魏文帝爲太子」 陳寿『三國志』魏書文帝紀に「(建安)二十二(217)年、魏の太子となる」とある。
(4)原文「莅職無幹局之譽」 「莅職」は、「職に莅(のぞ)む」と訓読し、職務を掌ること。「幹局」は中心となって事を処理する器量のこと。政治の実務を執り行う才能には恵まれなかったということか(?)
(5)原文「簞食縕袍,不營資産」 『論語』雍也篇に「一簞食,一瓢飲」とある。顔回が粗末な食事や住まいを厭うことがないことを孔子が誉めている。(『論語』雍也第六)
また、王隠『晋書』に「粗末な衣服でも、気に病むことはなかった。」とある。(『世説新語』政事第三6 劉孝標注)
(6)原文「轉散騎常侍、光祿勳」 王鳴盛『十七史商榷』四十八に「考えるに、鄭沖の論語集解が正始年間に作成した序には、『光祿大夫臣鄭沖』とあり、今に伝わる鄭沖伝には『散騎常侍、光祿勳に転任した』とあって『光祿大夫』と言っていないのは史文の省略である。」とある。(呉仕鑑『晋書』斠注)
陳寿『三國志』魏書三少帝紀・司馬光『資治通鑑』魏紀七には「嘉平三(251)年十二月、光祿勳の鄭沖を司空に任命した」とある。(陳寿『三國志』魏書 三少帝紀)(司馬光『資治通鑑』魏紀七)
(7)原文「嘉平三年,拜司空。」 鄭沖が司空に任命されたのは、嘉平三(251)年十二月の事である。訳注(6)参照。
(8)原文「及高貴郷公講尚書,沖執經親授,與侍中鄭小同倶被賞賜。」 鄭沖が賞賜を賜ったのは、正元二(255)年九月の事である。(陳寿『三國志』魏書 三少帝紀)
(9)原文「俄轉司徒。」 鄭沖が司徒に転任したのは、甘露元(256)年十月の事である。(陳寿『三國志』魏書 三少帝紀)
(10)原文「拜太保」 鄭沖が太保に任命されたのは、景元四(263)年十二月庚戌(12月19日)の事である。(『三國志』魏書 三少帝紀)
(11)原文「時文帝輔政,平蜀之後,命賈充、羊祜等分定禮儀、律令,皆先諮於沖,然後施行。」 『世説新語』に「賈充は初めて律令を定めるにあたり、羊祜と共に太傅である鄭沖に相談した。」とある。(『世説新語』政事第三6)
『續晉陽秋』に「その昔、文帝は荀勗・賈充・裴秀等に礼儀・律令を分担して制定するよう命じると、皆まず鄭沖に相談し、その後施行した。」とある。 (『世説新語』政事第三6 劉孝標注)
及魏帝告禪,使沖奉策。武帝踐阼,拜太傅,進爵爲公。頃之,司隷李憙,
〔六〕中丞侯史光奏沖及何曾、荀顗等以疾病,倶應免官。沖遂不視事,表乞骸骨。優詔不許,遣使申喩。沖固辭,上貂蝉印綬,詔又不許。泰始六年,詔曰:「昔漢祖以知人善任,克平宇宙,推述勳勞,歸美三俊。遂與功臣剖符作誓,藏之宗廟,副在有司,所以明徳庸勳,藩翼王室者也。昔我祖考,遭世多難,攬授英儁,與之斷金,遂濟時務,克定大業。太傅壽光公鄭沖、太保朗陵公何曾、太尉臨淮公荀顗各尚徳依仁,明允篤誠,翼亮先皇,光濟帝業。故司空博陵元公王沈、衞將軍鉅平侯羊祜等才兼文武,忠肅居正,朕甚嘉之。書不云乎:『天秩有禮,五服五章哉!』其爲壽光、朗陵、臨淮、博陵、鉅平國置郎中令,假夫人、世子印綬,食本秩三分之一,皆如郡公侯比。」
〔六〕李憙 「憙」原作「熹」,依宋本及本傳改。
魏帝(曹奐)が禅譲を告げる(265)に際し、鄭沖に禅譲を告げる書を提出させた。武帝(司馬炎)は天子の位に就く(265)と、〔鄭沖を〕太傅に任命し、爵位を進めて〔寿光〕公とした。しばらくして、司隷の李憙(12)と中丞の侯史光(13)は鄭沖・何曾・荀顗らがそれぞれ病気であるので、あわせて官職を罷免すべきであると奏上した。武帝は〔罷免を〕許さなかった。鄭沖は遂に政務を執り行うことが出来なくなり、表(君主に奉る文書)にて辞職を申し入れた。〔しかしながら〕手厚い詔は〔辞職を〕許さず、使者を派遣して〔鄭沖を〕説得した。鄭沖は固辞し、貂蝉の印綬を返上したが、詔はまたしても〔辞職を〕許さなかった。泰始六(270)年、詔して言う。「昔、漢王朝の祖(劉邦)は配下のことを知って、善く政務を任せたので、中国全土を平定できた。〔彼らの〕功績をたたえ、その最も優れた者(張良・蕭何・韓信)を三俊とした(14)。遂に功績のあった家臣と符を割って誓いを立て、これ(その一方の符)を宗廟に保管した。もう一方の符は家臣に預けることで、徳を明らかにし功績ある人を用いたので、〔家臣は〕〔漢〕王朝を守り助けたのだ。昔、亡くなった我が祖父(司馬懿)は、世の中が多難な時に優れた人物を招聘し、彼らと共に金属を断ち切るほどの固い結束(15)でもって、遂にその時の務めを成し遂げ、良く天下の事業を定めた。太傅壽光公鄭沖、太保朗陵公何曾、太尉臨淮公荀顗はそれぞれ徳を高くし仁に従い、誠実にして先皇を助け、帝業を大いに助けた。死んだ司空博陵元公王沈、衞將軍鉅平侯羊祜らは才能が文武を兼ねそなえ、つつしみ深く、私はかれらを大変に気に入っていた。尚書にないだろうか?『天秩有禮,五服五章哉!』(16)と。(天が徳ある者の為に五種類の服装制度を設け、それぞれの徳行を示したように、朕も)寿光・朗陵・臨淮・博陵・鉅平国に郎中令を置き、〔公・侯の〕正妻・跡継ぎに印綬を与え、〔公・侯に与える〕本来の俸給の三分の一を与えるなど、皆郡の公や侯になぞらえるようにせよ。」
〔六〕李憙 「憙」はもともと〔金陵書局本では〕「熹」であった。宋本(商務印書館影印百衲本『晋書』)にしたがって本伝を改めた。
(12)原文「李憙」 李憙は字を季和といい、并州上党郡銅鞮県の人である。『晋書』列伝第十一に伝がある。
(13)原文「侯史光」 侯史光は字を孝明といい、徐州東莱郡掖県の人。『晋書』列伝第十五に伝がある。
(14)原文「三俊」 「三儁」ともいう。『漢語大詞典』では、例文でこの箇所を引き「漢の張良・蕭何・韓信を指す」としている。
(15)原文「斷金」 易経繋辞上に「二人が同じ心であるならば、金属を断ち切ることができる」とあり、この事から金属を断ち切ることができるくらい友情が固いことをいう。
(16)原文「天秩有禮,五服五章哉!」 『尚書』皐陶謨第四に「天秩有禮。自我五禮。有庸哉。同寅協恭。和衷哉。天命有徳。五服五章哉。」とあり、原文の二句は共に『尚書』に存在するが、「天命有徳。五服五章哉。」を誤って引用したものと推測する。この箇所の訳は「天は徳のある者の階級を示すために、天子・諸侯・大夫・士・庶人の五種類の服装制度を制定し、徳行の違いを五種類に分けて示した」となる。武帝(司馬炎)は、晋建国に功績のあった五名(鄭沖・何曾・荀顗・王沈・羊祜)やその親近者に褒美を取らせるせるにあたり、自らを天になぞらえて引用したものと思われる。
九年,沖又抗表致仕。詔曰:「太傅韞徳深粹,履行高潔,恬遠清虚,確然絶世。艾服王事,六十餘載,忠肅在公,慮不及私。遂應衆舉,歴登三事。仍荷保傅之重,綢繆論道之任,光輔奕世,亮茲天工,迪宣謀猷,弘濟大烈,可謂朝之儁老,衆所具瞻者也。朕昧于政道,庶事未康,挹抑耆訓,導揚厥蒙,庶頼顯徳,緝煕有成。而公屢以年高疾篤,致仕告退。惟從公志,則朕孰與諮謀?譬彼渉川,罔知攸濟。是用未許,迄于累載。而高讓彌篤,至意難違,覽其盛指,俾朕憮然。夫功成弗有,上徳所隆,成人之美,君子與焉。豈必遂朕憑頼之心,以枉大雅進止之度哉!今聽其所執,以壽光公就第,位同保傅,在三司之右。公宜頤精養神,保衞太和,以究遐福。其賜几杖,不朝。古之哲王,欽祗國老,憲行乞言,以彌縫其闕。若朝有大政,皆就諮之。又賜安車駟馬,第一區,錢百萬,絹五百匹,牀帷簟褥,置舍人六人,官騎二十人。以世子徽爲散騎常侍,使常優游定省。祿賜所供,策命儀制,一如舊典而有加焉。」
〔泰始〕九(273)年、鄭沖はまた辞職を願い出た。詔は「太傅(鄭沖)は徳を修め、とても純粋で、振る舞いは高尚で潔く、我欲がなくさっぱりとしており、明らかに世俗を超越していた。五十歳を過ぎて王室に関することに携わり、六十歳を過ぎてもつつしみ深く公の位にあり、思いは私欲に及ばない。遂に周囲の者の推挙に応じ、三事を歴任した。太保・太傅の重責を担い、論道の任を細かく経営し、代々を大いに助け、ここで天が天下を治める働きを助け、大業の成就を助けた。晋朝の賢老で、衆人に尊敬される者と言うことができる。朕は政道に暗く、諸々のことをまだ安定化させることができない。老人の教訓を採用し、その無知を導き、発揚した。願わくは、〔鄭沖の〕輝かしい徳によって、〔これから進むべき道を〕明るく照らしてくれまいか。しかし、公(鄭沖)はしばしば高齢で病気がちであることを理由に、辞職して引退することを告げた。公(鄭沖)の意志に従えば、朕は誰にはかりごとを相談すればよいのだ?。譬えれば、川を渡ろうとするのに、渡ることができる所を知らないようなものであった。この為に〔辞職を〕許さず、年月を重ね〔今に〕至った。しかし、譲を高くすることはいよいよ篤く、意志は違えがたいところまで至り、その強情な様を見るにつけ、朕はがっかりさせられる。そもそも功績があって財産はなく、その徳が優れていることこの上なく、学問も道徳も兼ね備えた完璧な人物であるとの評判があり、君子の仲間である。朕の寄りかかる心が届いたとして、徳高き人の身の処し方を変えることができようか!今、彼のこだわりを聞き入れ、寿光公の身分のまま、私邸に帰す。位は太保・太傅と同じとし、三司(太尉・司空・司徒)の右にいるものとする。公は精神をやしなって、陰陽の調和した気を保ちまもり、大きな幸いを極めるのがよい。机杖をあたえる。参内しなくてもよい。昔の哲王は国家に貢献した老人を敬い、法令をしく時には赴いて助言を求め、そうすることで不足する部分を修正した。もし、朝議で天下〔国家を左右する〕の政治があれば、皆〔鄭沖のところへ〕行って彼(鄭沖)に相談せよ。四頭だての馬車、邸宅一棟、銭百萬、絹五百匹、ねやのとばりとすのこを下賜する。召使い六人、朝廷の騎兵二十人を配置する。跡継ぎの鄭徽を散騎常侍とし、常にゆったりと親に仕えさせる。秩禄の額や天子が爵位・封土を与える制度は、一旦古い制度と同様とし、〔不足があれば〕加えるものとする。」
明年薨。帝於朝堂發哀,追贈太傅,賜秘器,朝服,衣一襲,錢三十萬,布帛百匹。諡曰成。咸寧初,有司奏,沖與安平王孚等十二人皆存銘太常,配食于廟。
明年(泰始十(274)年)薨去した(17)。武帝は朝堂にて喪に服した。死後、太傅を追贈し(18)、〔東園の〕秘器、朝服、衣一襲、銭三十萬、布帛百匹を賜った。成と諡された。咸寧年間(275〜279)の初め、役人が奏上し、鄭沖は安平王司馬孚ら十二人とともに、みな銘に太常と記され、廟に祀られた。
(17)原文「明年薨」 『晋書』武帝紀に、「(泰始十(274)年)閏月癸酉(閏1月11日)、太傅・寿光公鄭沖が薨去した。」とある。
(18)原文「追贈太傅」 武帝(司馬炎)が即位した時に、太傅に任命されており、生前の官職を再び追贈されている。同様の事例が『晋書』列伝第三何劭伝にある。(suiteさんの調査により判明。)
初,沖與孫邕、曹羲、荀顗、何晏共集論語諸家訓注之善者,記其姓名,因從其義,有不安者輒改易之,名曰論語集解。成,奏之魏朝,于今傳焉。
その昔、鄭沖は孫邕、曹羲、荀顗、何晏と共に論語に関する諸家の訓注の中で善いものを集め、その姓名を記した。その(論語の説くところの)本義に従って、十分でないところがあればこれを改めたことにより、〔これを〕論語集解と言う。完成後、これ(論語集解)を魏朝に献上し、今に伝わっている(19)。
(19)原文「成,奏之魏朝」 『論語注疏』序の邢昺の疏に「正始年間(239〜248)にこの五人が共に論語集解を献上した。」とある。
沖無子,以從子徽爲嗣,位至平原内史。徽卒,子簡嗣。
鄭沖には男子(息子)が無く、甥の鄭徽を跡継ぎとした。〔鄭徽は〕平原内史の位に至った。鄭徽が死去し、子の鄭簡が跡を継いだ。