今昔物語

2003・7・8     涙池伝説
 今は昔ひとりの年老いた女がいた。

 ある夕暮れ時、女は海辺を散歩していた。浜には漁から戻ったばかりの舟が停泊していた。女がそばを通ると若い漁師が女に一匹の魚を見せた。緋色の鱗の大きな魚だった。女は長い間生きてきたがこんな美しい魚を見るのは初めてだった。漁師もそうだ、と言う。
 売ることも庖丁で捌くこともためらわれる、もしよかったら貰ってもらえないか、と漁師はたも網に掬った魚を女に差し出す。魚はまだ生きていた。決めかねている女の手に半ば強引に押し付けた。

 男は舟を浜に引き上げ、舟に乗せていた他の釣った魚を担いで砂浜を抜け松林の中に消えた。
 女は魚をしばらく眺めていた。緋色の魚は窮屈そうに魚体をくねらせ跳ねた。魚の目から涙が流れているように見えた。気のせいか、と思い、目をこらした。魚の眼から水玉のようなものが浮かび流れ落ちた。次から次へと涙の玉なって砂浜を濡らした。それを見て女の胸は締め付けられるように痛んだ。魚を哀れに思い波打ち際まで運び、海に放した。魚はしばらく砂浜の近くで泳いでいたがやがて見えなくなった。女はよいことをしたと思い心が温かいもので満たされていた。

 その夜、女が眠りにつくと夢の中に緋色の鱗をもった魚が現れ、何故助けた、と女を責めた。助けたことで責められる謂れはない、と女も気丈に応じた。お前にも私のこの悔しさを味わわせてやろうぞ、と魚は大きな口を開け威嚇し、空中を泳ぎ女に近づいた。枕に魚体が触れたと感じた瞬間、女は海の上に浮かんでいた。一瞬でいいから息を止めるようにと言われたような気がし、そのとおりにすると女の体はぐんぐんと海中に落下していった。海草の絡み合う中を振り落とされないようにと魚の尻尾につかまり進んでいった。更に洞穴のような場所を潜り抜けると突然辺りが明るくなった。

 宮殿のような建物が現れ、たくさんの半人半漁の出迎えを受けた。女はこれが昔語りに伝えられた竜宮城なのかと思った。緋色の魚もここではいつの間にか上半身は若い女の半人半漁になっていた。

 ここは不老不死の世界なのだ、と緋色の半魚は言った。女は目を瞠った。確かに老いと呼べるものはどこにもいなかった。ここでの食事はこの一粒なのだ、と差し出した胡桃の実のようなものをほおばるとたちまち舌の上で溶けた。

 水鏡に映した女の顔もいつの間にか若返っていた。女は狂喜した。このことが私の今一番の願いだったのだ、と告げた。歓喜に体を打ち震わせ、夢見心地の目で何度も水鏡に顔を映しては顔を撫ぜた。そんな女を緋色の半人半漁は冷ややかな視線で眺めていた。

 女は若い男に恋をした。一日一日が夢のように過ぎていった。一つの恋が終わればまた別の出会いが待っていた。
またあるときは一日中絵を描き、歌を唄い、今まで遣り残したと思えることに挑戦した。女は貪欲にありとあらゆる快楽を追い続けた。時間は限りなく在った。

 ここにきて何日が経過したのかわからなくなっていた。今がいつなのかさえも。ここでは時間を問う必要はなかった。時計と呼べるものはどこにも見当たらない。昼夜さえも曖昧になっていた。

 女は少し疲れてきた。若さをもてあますようになっていた。恋のからくりもわかり、始まっては必ず終わる恋はもはや何の魅力もなくなっていた。子孫を残す必要もなかったから結婚も意味を持たなかった。性は快楽のためにだけ存在していた。その快楽さえも反復するうちに飽きていく。

 女をここに連れてきた緋色の半魚が言う。ここにないものは老いと死だけなのです。ここでもっとも価値のあるものと言われ憧れ、追い求められているのは老いと死なのです。

 私はあのとき漁師の釣り針にかかったときどんなに幸せに思ったことでしょう。釣り針を飲み込んだ瞬間、千載一遇の機会とはこのことだと神に仏に感謝しました。波にのって引き寄せられていくとき、私は今一瞬一瞬死に向っているのだと感じ、この上ない至福のときを持っていたのです。その時今までの出来事が次から次へと蘇り、全てを追体験していたのです。なんといとおしい日々であったかと涙を流し歓喜していたのです。限りがあることの素晴らしさをあのときほど強く感じたことはありません。
 あなたが悲しみの涙だと勘違いし、私を解き放ったと感じたのは大きな過ちです。あなたの勝手な自己満足、うそ寒い偽善のせいで私は再び不老不死の牢獄に戻されてしまったのです。恨みますよ、と緋色の下半身の魚体を打ち震わせ号泣した。

 冷たいものが顔にかかったと感じた瞬間女は目が覚めた。女は夜具から手を伸ばし手鏡を取った。恐る恐る鏡に顔を映してみた。そこには年老いた女がいた。女は安心した。老い死ぬことの出来る喜びをしみじみとかみ締めていた。

 その時女の顔に一枚の鮮やかな緋色の鱗が張り付いていた。女は汚いものでも見る様に指で挟んで庭に捨てた。その時、緋色の鱗から水滴が滲み出してきた。次から次へ止むことなく溢れ出し、たちまちそこに池が出来た。
 女はそれから間もなく死んだ。

 一枚の緋色の鱗から生まれた池は涙池と呼ばれ、水底に緋色の魚が棲むと噂された。その姿を見たものは不老不死を手に入れることができると言い伝えられ今にいたっている。


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