今昔物語

2003・7・2   花になった女
 今は昔ひとりの男がいた。
 ある日男は旅にでた。家の前の一本のまっすぐのまっすぐの道を歩き始めた。途中に辻があり道が分かれていたが、迷わずまっすぐの道を選んだ。

 野原に出た。花盛りの野だった。男は一休みした。少し離れた場所で女がひとりで絵を描いていた。男近づきそっと絵を眺めた。女は気がつかないのか無言だった。男も黙って絵を眺めていた。女は花の絵を描いていた。写生をしているかのように手元を眺めたり遠くを眺めたりして描き続けている。大輪の花の絵だった。男は女の描く花を周囲に捜した。何度も女の絵を眺めては周囲の花のかたちと比較した。大きな花などどこにもなかった。
女の背後に立ち女の視線を辿ってみた。しかし女の描く花はどこにもなかった。

 夕暮れが迫っていた。女は絵を描く手を止めて画材を片付け始めた。男は我に返った。日が暮れるまでに宿を探さなければならなかった。周囲には人家らしきものはなかった。野原の外れには鬱蒼とした森が見えた。今からその森を通り抜けるのは危険だった。狼も熊も出るかも知れないと思った。

 男は女にこの辺りに宿はないかと尋ねた。女はないと応え、もし宿を探しているのなら私の家に、と誘った。男は女の申し出でを受けた。近くといっても女の家は歩いて30分はかかった。家は集落の外れにあり、女はひとりで棲んでいた。

 家の中の壁という壁に女の描いた絵で埋め尽くされていた。かけられない絵は床に積み重ねている。花の絵ばかりだった。男は花の名前には全く興味がない。いままでも個別の名前で呼んだことなく全て花が咲いている、で済ませてきた。

 翌日も女は昨日と同じ場所に絵を描きに出かけた。男も付いて行き、どの花を描いているのかと訊いた。女はそこにある花だと指を指す。男は指し示す方向を眺めてみても見つけられなかった。在るわよ、と女は言った。
 男はそのまま女と暮らし始めた。
 何日も何日も・・・も過ぎた。女は相変わらず同じ場所でどこにも見当たらない、女だけに見える花の絵を描いている。男は単調なこの暮らしに飽き、再び旅に出たくなった。1年後に戻るからと告げて男は女と別れた。
 振り返ると女は花野のなかで絵を描いていた。やがて点景となって消えた。

 1年後、男は約束どおり戻ってきた。女の家は廃屋になっていた。女の姿はどこにもなく壁の絵も消えていた。男は家の周囲を回ってみた。辺り一面花だった。見覚えのある花、花、花で溢れていた。壁にかかっていた花が描かれたままの形で野に咲いているのを男は知った。それらの花の中心に一際鮮やかな大輪の花が咲いていた。あの時毎日女が描き続けていた女だけに見えている、という花だった。
 近づくと花はぐらりと花首を男の方に向けた。花は一瞬女の顔に見えた。微笑んでいた。
男は数日花のそばで過ごし、そして旅にでた。

 花は見返り草と呼ばれ、今もどこかの野原に咲いているという。人が近づくと振り返るように花がぐらりと揺れるそうだ。


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