今昔物語

2003・7・22    影が自由になれる場所
 今は昔一人の少年が住んでいた。
 少年は夕暮れになると家をでてあちこち放浪した。じっとしていられない。血が騒ぐというのか、自分では制御できない思いを抱えていた。
 少年は川沿いの道を歩いた。川面に自分の影が黒く落ちていた。月も川に映っていた。
影がもう一人の自分に思えた。影と並んで歩いた。やるせない思いはその影の部分にあるのだと思った。
 川面に浮かべて並んで歩くことで平衡感覚を保っていた。

 榛の木が土手にあった。ここから川は道から外れていく。少年は榛の木に登った。枝が交差しているところに跨いで坐った。影は樹木に覆い隠された。時々通過する人たちは誰も木の上にいる少年に気付くものはいない。
 少年は木に抱かれている間、影は少年の体に寄り添っていた。影は肥大し始めていた。影が少年の等身大に膨れ上がったと感じたとき、少年は木を降りた。
 月の光に少年の影は動く。少年は影に引きずっていた。夜が明け始めていた。夜通し歩いて少年は疲れていた。休もうと影に言った。影は少年の声を無視して歩いた。どんどん森の奥へ。

 一軒の家があった。家の中に入っていった。家の中には美味しそうな料理がテーブルの上に並んでいた。少年は空腹に我慢が出来なかった。おはようございます・・・少年は大きな声をだした。応えはなかった。しばらくそのまま立っていた。無人のようだった。

 食べていいのだよ。それは君のために用意されているのだから・・・。影は言った。少年には影の言葉は理解できなかったが、空腹感は我慢の限界に来ていた。少年は貪るように食べた。しかし、食べても食べても空腹感は消えなかった。

 僕をここに連れてきたのは君なのか、と少年は影に訊いた。そうさ・・・影は応えた。ここは影が自由になる場所なのだと言った。しかし一つだけ条件があって影が離れている間は君はここから出られない。その代わりここにはあり余るほどの食べ物がある。本もある。僕が戻ってくる間好きなものを食べ、本を読んでいられるんだよ、と影は少年に言った。

 少年は時にはそれもいいか、と思った。影のない生活がどんなものか経験するのも面白いと考えた。
 影はじゃ・・・と軽く手をあげて出て行った。少年も同時に手をあげた。

 影が出て行くと少年の体は軽くなったような気がした。食べて寝て、目が覚めると本を読み、食べた。食べても食べても食物はいつの間にか準備されていた。本も読んでも読んでも尽きないほどの量に囲まれていた。

 何日も何日も過ぎた。影は戻ってこなかった。少年はそろそろここから出て行きたくなった。しかし影が戻ってくるまでどうすることも出来なかった。毎日毎日食べてばかり、読んでばかりの日々に飽きた。少年は太った体をもてあましていた。食べ物が並ぶのを眺めただけでげっぷが出るようになった。本を読み始めると眩暈を覚えた。

 少年は食べることを止め、読むことを止めた。寝て過ごした。何日も何日も・・・。どのくらい過ぎただろうか。ある日影が戻ってきた。出て行った時よりも何倍も大きくなっていた。疲労していた。

 僕は多分良くないことことばかりしてきたのかもしれない、と言った。影は床の上にこんなものを持っていた、と血の着いたナイフをだした。こんなものも・・・と捩れたたくさんの紙幣をだした。こんなものも・・・と女性の下着や動物の屍骸、こんなものも・・・と宝石がこぼれ出た。

 君のところに戻ってきたんだ。さぁ一緒に家に帰ろう、と寝ている少年を揺り動かした。そのときごとごとと音がして少年の体が砕けた。少年の体は骨だけになっていた。家もいつの間にかあばら家になり、屋根の瓦も崩れ落ちていた。陽が差し込み骸骨になった少年の姿が浮かび上がった。肥大した影は戻るべき場所を失い、骸骨のそばに黒い塊になって浮遊していた。その時一陣の風が吹きすぎた。その瞬間、影は霧消した。廃屋もやがて雑草や樹木に侵食され跡形もなく消滅してしまった。

 しかし今もどこかに影が自由になれる場所があるらしい。どこなのか定かでないが、その場所は決して遠くないとも言われて今に伝えられている。


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