ビートルズとディラン
去年は法事が多くて閉口した。ただちょっぴり良いこともあった。葬式のあとの斎場への送迎マイクロバスの中で、五つ上の兄と並んで久しぶりにあれこれ音楽の話しをしたことなんかそうである。

兄と会って話すとやっぱり音楽やギターのことばっかりである。外は12月、奈良の街を走るマイクロバスの中は、なんだかぽかぽかしてて兄が「ビートルズの新しいミックスのレット・イット・ビー聞いた?」と云う。

日本盤の「レット・イット・ビー/ネイキッド」はコピーガードがはいっててオーディオマニアの兄には不満だそうで、
価格も安く、音質も良い輸入盤が良いと云う。で、その兄が「レット・イット・ビー/ネイキッド」の発売日、
会社の昼休みに同僚にミナミのタワーレコードまでそのCDを買ってきてとたのんだら、すんごいことがあったらしい。

同僚がレジに並んでたら、なんと3人前がエリック・クラプトンだったそうだ。その場に居合わせたお客も、店員も目が点になっていたが、その同僚さんはちゃっかり、背広につけてた名札の裏にサインをもらえたとのこと

大阪公演を翌日に控えたクラプトンさんは機嫌もよく実にフレンドリーだったらしい。クラプトン氏はけっこう大阪が気に入ってて、千日前の道具屋筋をうろうろしてたりもするらしい。

「やっぱりエリック・クラプトンもレット・イット・ビーを買うため並んでたんやろか?」と僕。
「う〜ん、分からんけど、俺も大阪公演行ったんやで。昔のエレキナンバーが多くて嬉しかったわ〜。」と兄。
クリームの「サンシャイン・オブ・ラブ」にしびれてた兄としては会心のコンサート体験だったみたい。

フィル・スペクターがプロデュースした始めの「レット・イット・ビー」は賛否両論とゆうか、どちらかと云えば不評なアルバムなのだろうけど、あの、ごちゃまぜの混乱的な、どちらかと云えばディラン的な雰囲気は僕としてはそんなに嫌いなことはない。まだレンタル・レコードの頃、TDKのD−90カセットの片面にAB両面ともつなげてダビングしたのを何回も、何回も聞いていたから、もうほとんど刷り込みになってしまっている。おまけにカセットの裏面には坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」のサントラを入れてたから、何故か心の中で「レット・イット・ビー」と「戦場のメリークリスマス」が繋がってたりする。

実はまだ新しい「レット・イット・ビー/ネイキッド」を通して聞いて無いけど、買わなくちゃと思うけど、フィル・スペクターのプロデュース盤がなんだかんだ云ってもたたき台になったんだろな、と思う。僕は特にジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニバース」が好きだった。あれももっと生々しいシンプルなサウンドで入ってるのかな。
今年の正月に、兄の家で「ロング・アンド・ワインディング・ロード」だけかけてもらったけど、オーケストラも削られていい感じだったな。

それにしてもため息がでる。
1962年から1969年までのわずかの間に起こった奇蹟。
ビートルズの4人にとって、20代始めから終わりまでの、正に全力を振り絞った月日だったと思う。4人の人間関係は哀しくも破綻したが、音楽は力を失わなかった。ジョンが逝き、ジョージも逝き、ポールとリンゴは何を思うだろうか。

あれはジャズギタリストのパット・マルチーノが云ったのではなかったか、と思うけど 「音楽は宇宙最高の愛なのだ」という言葉を思い出す。たとえそこまで行けなくても、ミュージシャンはみなその愛の囚人かもしれない。

「ビートルズ・レコーディング・セッション」というアビーロード・スタジオを中心にした、全ての録音記録を収めた労作書物がシンコー・ミュージックから出てて、何度も読んだ。ほとんど一発録音で、しかも1日で録音された1枚目のアルバム、あの若々しい「プリーズ・プリーズ・ミー」から録音としてはラスト・アルバムの手のこんだ傑作「アビーロード」まで今も全てのロック、ポップ、ミュージシャンがあこがれ、超えてみたいと願う20世紀の宝物が、聞こうと思えばいつでもCDショップに21世紀になってもずらり並んでいるのは嬉しい。

兄のおかげで、僕が幼稚園のころからわが家ではいつもビートルズが鳴り響いてて、どの曲も懐かしいのに今でも自分にとって新鮮だというのは驚きだ。最近はギター教室でもビートルズを教えて欲しいという若者が増えて来た。そんな若者の一人がある日、教室でこう云った。
「ビートルズを聞いていると、他の音楽がなんだかピンとこないんです。」

でも勿論、僕はそうは思っていない。
それで僕が「他のやりかたがあるとしたら、ボブ・ディランとちがう?」
とかなり極端なこといっちゃったらその若者が「はあ、そうかもしれませんねー。」と答えた。

正解ではないかもしれないけど、おおざっぱに何となく自分というものが表現できた、とっさの一言だった気がする

弾き語りの日々
これはみなさんもそうでしょうし、僕だってそうだが何かのライブでAという唄いうたいの唄を聞いて、「しょーもなっ」と思ってしまえば、もうそのAのライブに行くことは無いだろう。
もしも反対にそのAを「なかなかいいな」と思っていても、かなりの衝動がないかぎり、またAのライブに足を運ぶことは少ない気がする。

練習に練習を重ね、録音して自分の演奏に耳を傾け、詞や曲やギターを手直ししても、ライブ当日を迎えてみればやはりミスはするものだし選曲が誤っていたことなんかも、終わったあとで知るものなのだが、表現っちゅうものは、ほんまに練習と本番の場数を踏んで練り上げるしかない。
その坂道はせまいトンネルのようだが、ぼんやり光って見える。

弾き語りを性懲りもなくやっているのは、それはやはり自分が楽しいからである。
とっころが、もう楽しみ方が恐ろしく贅沢になって来ており
聞いている人から「感動」の反射波のようなものが渦巻く中で唄いたいのである。

昔、へまをしたおかげで二度と来ないお客さんがどのくらいいることか。あの唄もこの唄も、かなり良くなったよ、また聞きに来てと心は叫ぶが届かない。
けれど、なにかの偶然や新しい縁で来てくれた人々に練り続けて完成した唄や、産まれたばかりの唄を聞いてもらえることもある。そして「あの唄はとても良かったよ」という声を聞くとき僕はとても報われる。

 若い頃は失敗し続けた。必死ではあったけれど、「僕はギターを弾いて唄をうとてんねん。」とだけしか唄えなかったのかもしれない。伝わらなかったことがかなりあったかも。
けれど今は「僕がギターを弾いて唄ったらこんな魔法があらわれる。」
と1曲1曲を心こめて唄いたい。ほんとにもう。

ドクトルミキは世界に一人しかいない。(それはあなたもだが、)聞かなくても良いけれど、聞いたら心が騒ぐ、聞いて良かった、そんなライブを僕はしたいものだ。
眺めて楽しい人形ではないかもしれないが、たしかに唄の魔法を行使する人影でありたい。
そのために僕は来たのだ。来たのだ。

だからみなさん、また僕のライブに寄ってください。
唄うたいはみなさんのとなりにいます。 



忘れがたみ
今年は正月の4日から録音をはじめて、なんとかCDを3枚仕上げました。まだ紹介されてないけど、10曲入だった「酔いどれ路地の朝(あした)」は廃盤にし、リミックスと新録音を加え6曲ずつ2枚にわけて、各々ミニアルバム『酔いどれ路地の朝(あした)』と『模造ダイヤのモニカ』に。(各¥1,200)
それとあと「かなよちゃんh」に入れた「エッチな唄」と「見知らぬダンス」をリミックスして、あと3曲新録音を加え5曲入マキシ・シングル『エッチな唄』に。(¥1,000)
劇団「楽市楽座」の’02年度公演「かもめ」の挿入曲「恋のいたちごっこ」(作曲・長山現 編曲・ドクトルミキ ハープ・石山雅人)も収録しています。
こういう作業をしていると、色々な事があったけどこの世につかのま置いていくのは、このへんのCDなんだろなと、ふと思う。
どんな唄うたいだって、何もかもみな唄えない。
そして何もかもみな聞いてはもらえない。けれど、形にしておけばどこかで誰かの耳に入るかもしれない。心のかけらだけでも。だから、今は少しほっとしています。
で、夏から秋にかけまたまた新録音を始めようと思案中。
生きるということは、どろどろしていくけれど、CDアルバムをつくるのは透き通っていくことだ、そんなふうに今思っています。


今ごろインターネットが
 そう、この3月始め、やっとこさドクトルミキ家にもインターネットが開通したのだった。
このHPだって以前はときおりジャムズ・ファクトリーとかインターネット・カフェというような所で見ていました。
掲示板は携帯電話からまめに見ていたんですが、他のコーナーはたいてい容量が大きすぎて電話から見られません。
 当然、このぶんつくがまがまも、自分で書いててもそんなに見ていないわけで、この度最初から読みなおしてみると「ギターの話し」関連では同じことばかし書いているではないか。まるでぼけ老人のやうに。ううう。あたまわり。
ところで今年は恒例の「へその王神社春の大祭ライブ」が中止になってしまいました。ああ残念。カレー、美味しかったのに。桜満開だったのに。来年の復活を祈ります。ひとり桜でも見にいこっと。
何となくライブの方も沈滞気味。
2月に作ったマキシ・シングル「エッチな唄」(5曲入、¥1,000です。)をたくさん持って行きたいのですが、春の窓辺でぼわ〜と煙草をふかしています。
でも専門学校で詞を教えてた生徒さんが何人か、晴れてプロ契約出来たりしてしみじみ嬉しかったりもする午後です。
外で遊んでいた子供たちの声もやみました。
駅前の民家の庭の、白い木蓮が咲いています。
夢を見ているように。


個人的な思い
人は個人的な思いが全てでないか、と思うことがある。
僕が唄うのも個人的なことだし、それは何かに例えたり、別の人格になぞらえたりはするけれど、心の奥底の個人的な事を唄おうとしているような気がする。
 大島渚が監督した「戦場のメリークリスマス」は、サー・ローレンス・ヴァンデルポストの小説の映画化だったが、小説にしろ映画にしろ、英軍兵の捕虜のジャック・セリアズ(小説ではジャック・セリエと訳されていた)のことが心から離れない。
 彼は言わば英軍兵の英雄で、友軍の尊敬のみならず日本軍の捕虜収容所の所長の関心までも集めていた。しかし、様々の事があり彼は英軍の捕虜を救うための行為が元で、生きたまま土に身体を埋められるという残虐な刑罰を受け死んでいく。
 彼を救うための術を持たない英軍の捕虜たちは声を合わせて、賛美歌を唄う。しかし、死んでいくセリアズの心に響いていたのは賛美歌だけではなかった。故郷の家に今も暮らす弟のこと、唄がうまく、けれど身体に障害があり、なにかにつけ完璧にみられた兄のセリアズと比較されて孤独に追いやられた弟の事と、その歌声
が響いていたのだ。
  かって、セリアズの通った寄宿制の学校に弟も入学してきた。優等生でみんなに好かれ、非のうちどころのないセリアズとはまるで違う弟は、入学のときの荒っぽいセレモニーで、上級生たちに精神的なリンチを受けてしまう。
しかしセリアズは弟を救うことが出来なかった。そしてそのことでセリアズは罪の意識を背負ってしまう。アフリカ戦線でドイツ軍と戦っているときも、南方に転戦し日本軍と戦うようになっても、彼はたった一人の弟を見捨てたという罪の意識に苦しみ続ける。そして一本の木のように土に埋められたセリアズの心には、弟の幻影が現われ「お兄さんお帰り」と云う。弟は美しい声で唄いながら庭に種を植え、花の手入れをしている。
本来なら、非道な日本軍の仕打ちを呪いながら死んで行っても不思議はないのに、セリアズは弟のことの思い、静かに息絶える。

 勿論、これは寓話なのだが、ヴァンデルポストが原作「種と種蒔き人」で云いたかったのは、どんな状況でも、人は個人的な思いから逃れることは無いのだ、ということかもしれない。
 
 もう一つ、僕が最近何とも云えぬ気持ちになったのは、イタリアの詩人で学者のプリモ・レーヴィのことだった。この間テレビでみたのだけれど。彼はユダヤ系だったために、戦時中あの悪名高いアウシュビッツに入れられてしまう。しかし何とか生き延びナチスの残虐行為の、というより人類の悪行の証言者として40年を「これが人間か」や「周期律」といった著作を重ねつつも、結局自殺してしまう。

「私は思い出す。言葉が不自由で知能に障害があるにかかわらず、私に懸命に、収容所内のきまりをおしえてくれようとした男。2mの大男で、人一倍お腹がすくだろうに、みんなを助けようとして進んで力仕事をした男。こういった人がみな処刑されてしまった。救われた私は、あの死んでいった多くの友人たちより価値があったとでもいうのであろうか。」

 ナチスが悪いんやんけ、あんたのせいや無いやないか、と云ってもレーヴィは救われなかったのだ。友人の死の哀しみと溢れる個人的な思いが、自由になって40年の後、彼をアパートの螺旋階段からつき落としたのだった。

 彼の墓には遺言によって、詩人であったことも、科学者であったことも記されておらず、ただ名前と、生きた年月、そして6桁のアウシュビッツの囚人番号のみが刻まれているという。

 運命もある。奇蹟的なこともある。しかし人を本当に動かすのは思いである。それは外側からは見えない。
そのいと深きものにこうべをたれ、しゅんとなってしまう僕だった。


ギターの話し、今度こそしめくくり
クロマハープというのは東海の商品名で、本当はオートハープといいます。アメリカの民族楽器で、昔の日本のフォークバンド「五つの赤い風船」の唄、「遠い世界に」でじゃらじゃらりーんと鳴ってるあの楽器です。
若い人は全然分からんだろうけど。楽器としてはオスカーシュミットのものが有名ですね。
でそのオートハープを買いました。何か良く分からなかったけどともかく兄や兄の家庭教師の森岡先生まで総動員してチューニングしてもらい、「C」と書かれた所をしっかり押さえて弦を弾きますれば、おおおおおおおおおおおおお。(パソコンって便利だなっ。)美しい和音が簡単に出たのでした。おおおおおおおおおおおお。さらに素晴しいことにそのコードバーっていうスイッチみたいなのが、いわゆる家族和音で並んでおり、C−Am−F−G7というような循環コードがすぐ鳴らせるのでした。
 それで色々唄を作ったり、兄のギターと共演したりして、今思えば弦楽器に少しずつ慣れていったのだと思います。コードとコードの関係も飲み込めてきたし、手だって小学生の頃より大きくなった、今度こそギターかと思った矢先、僕は見たのだ。教育テレビでやってた「セサミ・ストリート」に金髪の女性フォーク・シンガー
が、オートハープを弾いたり、ギターでアルペジオやスリーフィンガーを弾き唄っているのを。
そればかりか木の人形みたいなのを(関節が曲がって音がでるようになってる)こきこき膝の上で鳴らし唄ったりしてる。なんて素敵なんだ!僕もあんな人になろう!と強く強く決心してしまったのでした。
今でもあれが誰だったか分からないのですが、ともかく僕はギターを練習する決意をした。
で、兄に「アルペジオってどうすんのん?」って聞いて見たのです。すると兄はうっとなって「これしか知らんねん」といって1・2・3弦をつかった簡単なのを教えてくれました。兄はそれでビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」を弾いて見せてくれたのでした。    そのとき僕は気がついたのであった。
実はギターって1・2・3弦だけひくと何にも押さえなくてもEmなのよ。ということは左手でコードを押さえなくても、右手だけでアルペジオの練習が出来る。
これが全ての始まりでした。で兄のコードブックを見つつ、まずいろんなコードの1・2・3弦だけ押さえて覚えていった。3か月くらい1・2・3弦ばかり弾いてたような。
ベンチャーズ・ファンの兄は本当はエレキ・ギターが欲しかったけど、高くって両親に買ってもらったのが2,800円の鈴木のガット・ギターでありました。

でも僕はフォーク・ギターが欲しくって、それが中3の正月にお年玉で買ったFG-160です。今も僕の手元にあります。大学の3年まで使ってたんだよね〜。反射神経の鈍い僕は、セーハの完全Fが押さえられるようになるまで2年近くかかった。高校でフォーク・ソング部の部長になったときも、実はまだ完全なBmを押さえ
られなかった。でも必殺ごまかしコードを自分で考えて唄っておったです。

 だからギターの練習で悩んでる人の気持ち、よおっく分かりますよ。僕のギター教室には超絶技術はありません。でもギターを弾いて見たいのに、ギターがなんとなく怖いと云う人はぜひ来て見てください。みなさん弾けるようになってます。
今でも嬉しく思うのは、教室に来てたスガハラケイスケ君が、1年であれだけになったこと。
唄やギターを通じていろんな出会いがあります。まるで花束のようです。
僕に一番の幸福を運んでくれたもの、それが音楽と、ギターだったのでした。

ギターの話し、とりあえずしめくくり
僕が 小学校の6年くらいのとき、五つ上の兄が急にギターをやってみろと言い出した。
実は僕もやってみたかったから、兄に教えてもらったんだけど、「ほら簡単やろ?」とおしえてくれたAmとのコードチェンジが、僕には全然簡単ではなかった。絶望した。に、兄ちゃんはこんな難しいことやってんのか、
やっぱり僕はどんくさいんや、と油汗が噴き出し劣等感が僕を串ザシにした。
父や兄にはなんでもかなわない、それで僕にはそのころ不安神経症の軽い発作が出る始末。
 僕のどたばたが始まった。僕はともかく唄を作って唄いたかったのだ。中学生になったらソプラノ・リコーダーを吹き吹き、まずメロディーを作ってみた。全部ハ長調かイ短調になるわけで必死に譜面を書き、詞を考えて記録してみた。始めにメロディーを吹き、ほんでもってアカペラで唄う。それをこっそりカセットにいれて聞いてみたら、これがまた非常に間抜けであった。
木琴を適当に叩き唄ってみた。和音っちゅう考えを知らんもんだから、さらに悲惨な結果。

 兄はよくギターを弾きながら、加山雄三やビートルズを唄っていたがそんな風には全然ならん。兄ちゃんてやっぱりすごい〜とまたまた思った。ここがさすがに兄弟。尊敬はしたけど妬みはしなかった。
また兄は兄で優しく、僕をそのことで追いつめたりはしなかった。感謝してマス。
僕がそこで思ったのは、兄ちゃんがギターなら、なんかさらに別のもんで自己表現を〜。世の人が思いつきもしないようなものでアバンギャルドに。しかも手近なもので。
それで木琴のばちで扇風機の羽根の回りの金属の囲い、あるでしょ?あれをかんかん叩いて唄ってみた。 かんきんこんきん。・・・さらにとんちんかんであった。これが中学生のやることか、とテープを聞きつつひとり内側に涙をこぼした。とどめの打撃であった。
もうあかん。なんかもっと簡単に和音というものののでる楽器は無いのかっ!僕は毎日悩んだ。家にギターは1本あるけど、あれは怖い。僕をいぢめる、などと思いつつある日歩いていた、今里は新橋通り商店街。
そこの楽器屋さんのショウウィンドウに見たものは、たてごとみたいな妙な楽器。
其の名も東海・クロマハープ。やたらたくさん(36本)弦が張ってあり、コードネームが書かれたスイッチのようなものもたくさん見える。おお!ひょっとしてあれを押して弾けば和音が出るのでは!と僕はショウウィン
ドウに鼻息を吹きかけつつ推理した。価格1万円。そして、中1終わりの正月のお年玉をぶち込み、僕は勝負に出たのであった。
と、ここまで書くとまるで阿佐田哲也の「麻雀放浪記」の出だしで、いきなり麻雀ではなく、ちんちろりんの勝負で始まるように渋いネタフリ枕。なことはないけど、次回に続く。(しめくくりとちがうんか〜い)       

ギターの話し、再開 その3
初めてOOOの実物を弾いたのは、何かのコンサートの楽屋みたいなとこで金森幸介さんのOOO−18だった。ミディアム・ゲージが張ってあったようで、すごくひきしまった音だった記憶がある。
な・なるほど、プ・プロはこういうのを使うんぢゃなと思ったが、前書いたとうり、結局買ったのは一般的なD−18でした。それだって、米屋さんで7キロも痩せながらバイトして頭金をため、2年ローンを払っていたので、今度は少し小型をと思ってもそれはかなわぬ願いだった。  だった。
梅田の32番街のナカイ楽器で金40万円也のOOO−28のシェイデッド・トップのやつを見たときも、ふああとため息をつき撤退していったりしたが、そのかわりタカミネのエレアコでコアの合板の006NPTっちゅうのをくやしまぎれに買った。
梅田の 阪神百貨店の十字屋楽器の店長さんが、「泉州たまねぎファイターズ」のベーシストの前田さんで、個人信用月賦で1万5千円の3回払いにしてもらったのであった。
(いわゆるニューヨーカーサイズで、型番は変わったけど今も売っています。)
でも5年くらい使ったけど、プリアンプが2回故障して、結局人に譲ってしまった。でも一番の理由は生音の鳴りが、やはりいまいちだったのでした。
それから時は過ぎ、1989年。もうそのころD−28も買っちゃったりしてた僕の前にOOO−28のシェイデッド・トップのやつがまた出現した。関西楽器の大坪さんから連絡があり、見においでと云われ、しかも値段は当時の半額だった。
大坪さんの「これええで、いっときー。いっときぃやあ」攻撃の前に僕はあえなくくずおれ、またローンをかけてしまうのでした。
家で唄作り用に使おうと思ってたのに、あっという間にライブで使いまくるようになった。
桃谷のビーハウスに出てた時は殆どOOO−28を使った。もう弾いた弾いた。
けれど、ソフトケースのストラップがはずれて地面に落下して、後ろの板が割れてしまひました。すぐ修理に出したけど、丁度そのころ、和歌山で有山じゅんじさんと下田逸郎さんの前座の仕事があり使いたかったのに、修理が間に合わず使えなかった。
D−18を持って行ったのですが、こういうこともあるし複数ギターがあっても良いんだな、と納得したりもしました。
そういえば、ぼくらのベースをやってくれている中野君もOOO−28のナチュラルを持っていたけど、やはり大坪さんの「これええで、いっときー。いっときぃやあ」攻撃の前に屈したらしい。  それをまた彼は最近手放してしまったのですが。
今年の1月、石山君のライブのバックで演奏中、またまたOOO−28を舞台に落として粗忽なところをご披露したりしてます。へその王神社ではD−18も倒しました。
だんだんぼろぼろになりますが、なんとか致命傷にならず良い音で鳴っているギター達。
オーベーションのバラディーアも使ってますが、これなんかトップを割りました。でも治して、割れたとこにはお守りに「どんと」さんのシールをべたっと貼って使用中。
もう金はいっさい無い。誰か古いO−18ください。D−41かD−40でも良い。
おくれ。くれへんやろな。ちょうだい。
ギターの話し、再開 その2
 高校の頃、フォークソング部の部長をしてた。
今フォークソングとは云わないのではないだろーか。アメリカのグラミー賞には、コンテンポラリー・フォークという部門があってぼくらの今やってることは多分それなんだろうけど、一般にフォークソングとゆーのはギター弾いて唄う若者の唄などとゆうイメージなのだろう。
「アメリカン・フォークソング、つまりアメリカ民謡の伴奏形式で唄う日本語の唄」などとまどろっこしいこと云う人もおらず、現在Jポップの中にそういうのは組み込まれた。
70年代と比べると、よりアフタービートが強調されて、アコースティック・ギターの使われ方も自然になってきたが、反面、わこうどの数が減っている分、新たなギター人口は減少しているみたいだ。
反面おっさんのギター好きはやかましい。あと20年もすれば、老人ホームはじゃかじゃとギターかき鳴らすぢぢいとばーちゃんで賑やかなことだろう。若い人はみな老人ホームにギター習いに行ったりするのではないだろうか。
で話しはとんだけど、高校の時、男はドレッドノート(ウエスタンとも云った。)の大型ギター、女の子は小ぶりなトリプル・オウサイズ(フォーク・サイズと云ってた)を使うのが普通だった。勿論、マーチンやギブソンなど夢のまた夢、ヤマハかモーリス、ヤマキ、アリアが多かった。
値段も1万2〜3千円から、高くて3万円くらい。S・ヤイリを持ってたら、羨ましがられ、マーチンなど持ってるぼんぼんは憎まれた。
たしか3年のとき、1年生のフォークソング部員じゃない生徒がマーチンのブルーケースを持ってるのを目撃し、皆うらやましすぎて無口になっちゃったりしていた。
それはいいとして、春になり1年生の新入部員、特に女の子が入って来ると、男子部員は皆そわそわしてしまひ、チューニングをしてやったり、おもいきり自分のテクニックを披露したりして、一斉に浮足出すシーズンを迎えるのであるが、そんなとき女の子の小ぶりなギターを弾いてみると、内心(これえーやんけ)と思ったりしたのであった。
僕は背が164cmしかないので、実はドレッドノートは大きいのであった。でも楽器店のショー・ウィンドーにはまだマーチンのOOO(トリプル・オウ)サイズはあまり陳列されておらず、そういうのの存在をはっきり知るのは大学に入ってからでありました。(続く。)

        ギターの話し、再開
このエッセイの初めのほーで、ギタ−の話しを書いたけど、ちょっと間違いがありました。最近、「ヤマハFGの本」というのが出て、それを立ちよみしててなるほどお〜、と思ったんだけど、僕が中学生の頃買ったヤマハのFG−160はサイドとバックがサペリの合板だったのだった。ナト−だと勘違いしていた。サペリはスパニッシュ・ギタ−なんかに使われる材で大きな音がします。ヤマハは合板材でも楽器用の良いものを使うので弾き込むと単板ほどではないにしろ、鳴るようになってきます。ただし、安価なギタ−はネックが弱点で反りやすい。
僕のFG−160は最近、手元に帰ってきたけど、もう指板がはずれるーというくらい、アジャスト・ロッドをまわしても弦高たかいのでエクストラ・ライト弦のしかも4・5・6弦に1・2・3弦を張って、ナッシュビル・チュ−ニングにしてあります。いずれライブで出番があることでしょう。  ピックアップもつけたしね。
そのFG−160の次に買った6弦ギタ−がD−18でした。大学3年、二十歳の年。当時マ−チンのなかでは一番安いギタ−だったけど、嬉しかったなあ。
頭金5万円を米屋でバイトして貯めて、あとは7400円の24回払いだった。
出来たらD−35、もしくはD−28とも思ったけど全然手が届かなかった。
今は、D−18も結構もてはやされて、同じマホガニ−・ボディの、スタイル16や15や17やD−1や、DMなんかもあるけど、当時D−18だけ使ってると何か地味な感じがした。勿論FG−160とは段違いでしたが、渋いギタ−なので若かった僕には違和感あった。
それで7〜8年あと中古でD−28買ったら、とたんにD−18の良さがまざまざと分かった。まずD−18は非常に弾き安い。それと高音がとてもきれい。ほんで唄のじゃましない。今じゃ後悔してるけど、弾くのに怪力のいる男のギタ−、D−28は後輩に売却することに。
三田の山奥でやってるブル−グラス・フェスを覗きに行ったら、会場中D−28だらけであきれかえったのと、おなじころにOOO−28の中古買っちゃって支払に困ったのが原因でしたが。あればあるで良かったんだけどなあ。早まった。若気の至り・・。
僕のD−18も、もう買ってから23年経ちました。今はピックアップに、フィッシュマンのナチュラル2がついて假奈代さんとのライブ「結婚式2」でも、びっくりするくらい素晴しい音で鳴ってくれました。
ソロで唄う時にはD−18が一番良いような気がします。ただかなりフレットが減ってきた。でも打ち変えするのに、しばらく手放すのもいやなんだなあ。
バンド編成の時、よく使ってるOOO−28やバラディ−アなんかについては又次回。
みんーな大切なギタ−なんですけどね。僕には。FG−160も。

     ’02年5月  ドクトルミキCD制作月間
 ライブなんかでお客さんがカセット買ってくれる度に、「CDはないの?」・・と聞かれるのが気になってて、今年の5月、  ふんがーと踏ん張って一挙にCDを4枚というか4種類製作いたしましたのである。もし明日交通事故で死んでも、これで思い残すことはないといえるかもしれないが、これだけでは寂しいのでもっと生きねばとも思います。 ジャムズの森中店長からいただいたオールド・マッキントッシュがかなり使えるようになったのと、石橋楽器で業務用のCDRレコーダーがバーゲンで売ってたのと、音源がDATで残してあるのとの合わせ技にて、5月始めよりずりずりと作業を開始。以下各CDの説明。気になったら買ってくださひ。(エコーかかる。)

☆DMH−001「煙が目にしみる」¥1,500
 ドクトルミキハウスレーベルの第1弾。カセットのときの音源からカバー曲を集めてみました。自作インスト曲の「ブルースタイル」を除くと、みんな僕が歌詞を日本語にしてます、というか英語を唄うのは不得意なのじゃ。それと昔、96年に大阪城野音でドクトルミキバンドでやった時の演奏などもプラス。
ジャケットは始めてちゃんと描けた、ドロゥイング・ソフトによるピエロちゃん。どなたか、「アルダス・フリーハンド3・0J」の日本語説明書見せてくださいひ。いまだに分からん箇所がある〜。
全10曲収録で34分と短めなので、お得な1,500円。

☆DMH−002「水の人」¥1,800
 ドクトルミキハウスレーベルの第2弾。カセットの時は「エデンの東」に続いてやつぎばやに作ったため、遠慮しいしい出してたら30本しか売れなかった「水の人」がCDになって帰って来た!しかもよくよく考えて選曲やりなおし、2曲削って、2曲足ししかも、曲順が全然変わった上に、ジャケットもデザインしなおしたのでなんか別ものに。石山雅人の「夜の風景」は変わらずはいっていますが、さらにスガハラケイスケの名曲「ピノキヲ」も唄ってます。あとはみな自分の曲ですが、「淀川抒情」という自分では少し愛着のある唄も加えました。生ギターの音色が中心の伴奏にて、全12曲収録。
昨今の高すぎるCDの価格に抗議の意味も含め、リーズナブルな1800円。

☆DMH−003「酔いどれ路地の朝(あした)」¥1,800
 90年代の初め頃、ライブハウスのデモ用なんかによく、シーケンサーを使い厚めの伴奏の録音をやったのですが、そういった音源を集めたもの。順番的にはこれが第1弾なんだろうけど、ドクトルミキハウスレーベルの第3弾に。カセットの「メランコリイ・マン」と「エデンの東」を買いのがした人は買いませう。
僕の10代から20代に作った主な唄が10曲収録。ラストの「この先は話さないよ」のみ、友人の藤本裕(今は養子にいって橋本裕)の作で、ギター1本の弾き語りになっています。ジャケットのライオンくんはしぶとく頑張る、唄うたいさんの象徴なのです。こってり入って1,800円。

☆DMH−004「かなよちゃんh」¥1,800
エッセイにも書きましたが、詩人の上田假奈代さんと今年の3月、「結婚式2」という詩の朗読と唄のライブをやりました。このCDはそのとき假奈代さんに送った、プレゼンテーション用のCDがベースになっていて、
假奈代さんの詩を6曲、僕の「エッチな唄」や「見知らぬダンス」などいろいろ含め11曲収録しています。ただし録音はかなりやりなおして、「嵐電」の冒頭にはちゃんと假奈代さんのセリフなんかも入っているのだ。「結婚式2」で唄った殆どの唄を11曲収録。それにしても假奈代さんは素敵なひとでした。彼女の孤影が今も胸にうずく。假奈代ちゃんシールのおまけつきで1,800円。

CD4枚製作し終えたとたんに、ガチャピン君ことオールド・マック LC520はハード・ディスクの寿命が来て昇天してしまい、それにしてもなんと役に立ってくれたことよ。今はやはり大中古のパフォーマ5210(ガチャピン君2世)で原稿を書いとります。
年内にはガチャピン君2世を使い、5作目の「けやき通りの午後」を製作予定。

もうどんどん突っ走ってしまうのであった。                 

老いと云うこと

「さんまのからくりテレビ」に「御長寿クイズ」と云うのがあり、けっこう気に入っている。一番笑ったのは、司会の鈴木アナが「アルプスの少女と云えばさて誰でしょう?」と問題を出したら、勢いよくブザーを押したお爺ちゃんが大声で「カルタ
ン!」。     誰やねんそれ?
しかし僕が笑っていても本年74才になる我が母は、「ああああ〜もう〜」と苦悶の表情を浮かべてしまう。日頃から自分の老いにがっかりしている母には、笑い事ではないのだろう。
  僕も仲間内の新年会で去年、「ああああ〜もう〜」と恥ずかしさに震えた。石山夫妻に菅原君、それに石山夫人豊子さんの友達で某劇団の個性派女優のA子さんの4人が我が家に訪れ、鍋を囲んで楽しい一時だったのだが、僕の隣に座っていたA子さんの色香に酔った僕が、一人最終的に楽しくなってしまい顰蹙を買った。らしい。

 実を云うと覚えていないのである。ただ次の日、起きるとやたら 心が恥ずかしい。さぞ鼻の下伸ばしまくり、酔いまくりだったのであろう。しかも、飲み過ぎの僕に石山君が「もう程々に...」と云うと僕は物凄くいや〜な目で彼を睨んだらしい。

 若い人達の中で年上の人間は、一番きちんとしてなくてはならない。飲む時と云うのは心の持ちようがそのまま出てしまう。本当はひどく寂しかったのだと思う。同い年のよく飲む連中は皆、別の道を歩み、今の友人は皆あまり飲まない。僕の私生活も自業自得で孤独である。
 そんなこと当たり前で、ちゃんとした態度がアルコールでとれなくなるのは、少しずつ老いが脳に近付いている証拠なのだろう。
 僕が若い時分軽蔑した中年の酔っ払いに、今なりつつあるらしい。
  どんなに寂しくてもそれは自分のせいだ。
此処のところ酒を控えてはいるが、月に1度は一人で飲むことがある。愛に恵まれないのは僕一人では無い。世界は淋しい人だらけである。
 脳よ、早く諦めて朗らかに笑っておくれよ、そしてでっかい声で「カルタン!」と皆を笑わせてくれ、と少し酔いながら思うのである。




楽しかったぞ
 しかし、ライブがこの頃楽しいのである。ウィルキンソン・中野氏のベ−ス参入でバンド形式が多くなった事もあるけれど、十代半ばから大方うん十年、唄を作って唄っており、やっと楽しみ方のコツが分かって来たのかもしれません。
 以前はライブ中は夢中でやってても、失敗やら、構成のまずさや、それからくるお客さんの反応がアレだったりして、後味わる〜くライブ会場を後にしていた事が実に多かったのである。それが、最近「あれっ?」と思うほど気持ちよかったりする。

 ついこの間の3月21日、詩人の上田假奈代さんの発案でやったライブ「結婚式2」は本当にそれはそれは気持ちよかった。假奈代さんの朗読に、僕がギタ−を重ねたり、假奈代さんの詩に曲をつけて僕が唄ってみたり、僕が唄ってる横で假奈代さんが綾とりしたり、クライマックスに僕の「エッチな唄」の返詩、「県境にて」を假奈代さんが朗読したあと、チャック・ベリ−の「ロックンロ−ル・ミュ−ジック」に彼女の詩を散りばめて僕が書いた「ロックンロ−ル・ミュ−ジック假奈代ミックス」を、ディランズ・チルドレン全員並びに、会場全部で唄い、踊り狂ってのグランド・フィナ−レは正に大盛り上りの大成功だったのです。
 普段着物姿で妖艶な假奈代ちゃんも、この日は大張りきりでゴ−ジャスなウエディング・ドレス。
しかも、フィナ−レでは率先して、ゴ−ゴ−を乱舞。次の日腰が痛かったそうである。
かなり変態な、いや大変変わったライブだったけど、発案者の假奈代嬢はおりしも二枚目のCDの録音を京都で行ないつつの強行軍。限界点でパワ−を発揮していたのでした。
 でも僕ら唄うたいと違い、ア−ティストっちゅうのはすごく打ち合わせを大切にするのである。勉強になりました。おかげですごく充実感を味わったのだけど、お客さんの中にはとまどった人もいただろう。あきれた人もいただろう。でもインパクトはあったはず。

 詩人と唄うたいが二人よって何が出来るかなと充分練って、その上でたくさんの友人、石山君、中野君、スガハラ君は勿論、ひょんなことで假奈代ちゃんと僕と共通の知人だった吉野の綿鍋さんに音響をやってもらったり、会場の天人のジュンちゃんやスタッフの皆さん、シタゴココロプロジェクトの皆さん、そして来てくださったお客さんと全て一丸となって、「結婚式2」というライブは成功したのでした。

  ライブ中の、特にうまく行ってる演奏者の気持ちってね、そりゃ凄いのよ。冷たく酔ってるっていうか、もう一人の自分が、やってる自分を静かに見ててね。
 こういうのを経験するとあなた、そりゃやめられまへん。一瞬の中にある永遠をまざまざと目撃する事になるのです。

 またど−せ失敗もするだろうけど、創り唄い、老いの孤独をときおり一本背負いで投げ飛ばし、
ミキちゃんは行く。それはきっと假奈代ちゃんも。ディランズ・チルドレンも。

ううう。わしらはもっともっと、楽しいことをするのぢゃ。ゆるしてね。 




ギターを磨く
暇な夜、何をやるかというと、勿論詩や詞を書いたり、小声で唄を作ったりもするけど、万年スランプなので、そうそう進む訳もなく、ギターの練習も夜のこととてやりにくくほんでもって、結局ギターを磨き始めたりする。
  ところが、ラッカー塗装のギターは難儀なのである。
  真夏、パンツ一丁であぐらかいてギター弾いていたら、スネげと毛穴のあとがくっきりサイドの下側にプリントされてしまったりして、自分のスネげならまだしもこれが広島在住、横張登36歳、(工場経営元シンガーソングサラリーマン)のスネげあとだったりすると、しくしく泣いてしまうのである。
  こう云うことも重なってギターは段々、輝きを失ってくるのであるが、全てを解決するすんばらしいギターポリッシュを発見!
  その名も「タートルワックス」である。
元来アメリカ製のカーワックスなのですが、コーナンでは売っておらず、心斎橋のギターショップ
「ストリングフォニック」(電話06−6120−1828)に何故かある。というのも、マーチンの職人さんが仕上げに使うくらい、ギターにも大ヒットだからだー。
  比較的新しいギターなら、一回磨くだけで大丈夫だけど、20年もたって煙草のヤニやら、汚れのひどいギターは何度も何度も何度も根性で磨くのである。
 ちなみに私は一本5時間もかかってもう明け方だった。すごく美しい光沢にうっとり。またライブ時の汗にも強くなるよ。
 「タートルワックス」は一本1,800円。そんだけの値打ちはあるのぢゃ。ただし、めんどくさがりで、長時間磨くと気絶する人には向きません。 




         フクちゃんの思い出

フクちゃんはいつも僕に「もう猫ひろて来たらあかんよ!」と云っている母が、行き着けのパーマ屋さんで貰って来た猫である。シャムハーフとペルシャのその又ハーフで、ずっと我が家には猫がいるが初めての長毛種で、色は真っ白、目は青のぷりちーベイビーだった。でもちょっとぽーっとしていて、運動神経が鈍く、よくテレビの上に飛び乗ろうとして失敗し、ずりずり〜と落ちていたりした。
ニャーというより「うー」と鳴くのも可愛かった。でも困ったことに病気がちで、とくにてんかんの発作がでた時には本当に慌てた。すでにいたミーとケイの日本猫シスターズは無類の健康を誇っているのに、フクちゃんはほんと心配の種だった。でも風邪引いて、寝ている時鼻水が鼻チョーチンになってたのは爆笑だった。
それと冬にはほんとあったかくて、カイロを抱いて寝てるようだったのだが、僕がネマキ替わりに海老茶色のトレーナーを来ている時は要注意だった。お腹の上に乗ってグルグル盛んに云ってたと思うとジョ〜......。おしっこを漏らしてしまうのでありました。
フクちゃんの名前は僕が唯一通読可能だった少女漫画「動物のお医者さん」に出てくる、見た目そっくりの猫からとったのだが、やはり幸せに長生きして欲しかったからと云うのもあった。でも外を恐がり、発情期も来ず、花瓶の菜の花を不思議そうに見上げている姿は、何だかとてもいいじらしかった。
そしてフクちゃんは5才で腎臓ガンになってしまった。丸々肥えてたのが痩せ細り、ここはあかんよと云ってもトイレのタイルの上で横たわってしまう。身体が熱くて苦しかったのだろう。
もう今日あたり駄目かもしれないと思ったその日、僕はライブだった。梅田のバナナホールで唄ってた時も気になって、打ち上げも遠慮させてもらい、家にだーっと戻ってみると、やはりフクちゃんはタイルの上だった。僕が「フクちゃん大丈夫か?」と云って抱き上げるとフクちゃんは「かふー」と長い息を吐き、そして死んでしまった。「あんたが帰るまで待ってたんやわ..」と母は云った。

もう3年程経ってしまったが、ついこの間こんな夢を見た。子猫がたくさん鳴いているのでその方を見ると、何と丸々肥えたフクちゃんがその子猫達にお乳をやっているのである。「フクちゃん子供出来たんか〜良かったなあ!」と僕が喜色満面で云うと、フクちゃんはちゃんとニャ〜と答えたのだ。でも目が覚めてすぐ思った。「フクちゃんてオスやったやん。」


西岡恭蔵の死
もう10年以上も前、テレビで俳優の原田芳雄がガット・ギターを手に「これはどっかの刑務所の囚人が作ったらしい唄なんだけど」とか云いながら、滅茶苦茶なコード進行で「プカプカ」を唄い出したときはたまげた。
 勿論、「プカプカ」は象狂象こと、西岡恭蔵がジャズ・シンガー安田南にインスパイアされて作った名曲だ。「みなみの不演唱」(=ブルースと読ませる)と云うサブタイトルはそこから来ている。
 本人の歌唱や、ディランセカンドのカバー、最近ではサザン・オールスターズまでかなりのシンガーに取り上げられてはいるが、冒頭の原田某のように西岡恭蔵を知らない人が多いのが悔しい。

 それは、西岡恭蔵が死んでしまった今もそうなのだ。テレビの件以来、原田芳雄のことは全然信用していないくらいなのだが、それは僕らが鼻水垂れのフォーク少年だった頃から、西岡恭蔵が作りにおいてヒーローだったからなのだ。
 元来ボブ・ディランのファンで「ディラン」という喫茶店に居て、「ザ・ディラン」というバンドを、大塚まさじや永井よう達と組んでいた西岡恭蔵は、やがて唄作りにおいて「童画師」と呼ばれるファンタジックな境地に早々と到達する。

 それは、僕や友人に、いくら誰かの唄が好きであっても、「自分で作り唄う唄は自分独自の物でなければならない」と云う大原則を示していたのだ。つまり、ボブ・ディランがボブ・ディランであるように、西岡恭蔵は西岡恭蔵になったのだ。
 ウディー・ガスリーの1ファンであったボブ少年がやがてボブ・ディランになったように、ボブ・ディランの1ファンだった西岡少年は西岡恭蔵になったのである。
 当然、多くのシンガーソングライターにめろめろの僕も、やがて篠原三樹少年からドクトルミキへの脱皮を図るようになるが、これは大変だったので又別の話。

 70年代、大阪の天王寺野音で5月に行なわれていたコンサート「春一番」では、西岡恭蔵の作品は、いつも圧倒的支持を受けていたものだ。「春一番」のテーマソングがアルバム「街行き村行き」に収録されているが、こうくるか〜という作り方である。
 恐らく、ジョニ・ミッチエルがウッドストック・コンサートを唄った「ウッドストック」の線を下敷にしたのだろうが、ジョニが油絵なら、西岡恭蔵はパステル画である。
 コンサートの人々の多くのざわめきの向こうに潜む何かを、両者共巧みに各々の手法で捉えていてステキだった。聞いてみて欲しい。

西岡恭蔵の死は、夫人でもあり作詞者として後期の唄作りのパートナーであったKUROさんの病没に負うところが大きかったのかもしれないが、唄作りに生き、恭蔵さんのように生きたいとあこがれていた僕たちには大変なショックだった。
 石山君なぞショックのあまり「堕落しませう」と云う唄を作ってしまったくらいである。

 けれど、今になって思うのだ。
恭蔵さんはあまりに唄の中に、夢と愛と友情を込めすぎたのではないかと。現実を振り返った時に、自分の唄とあまりに違う虚無に呆然とし、恭蔵さんは旅立って行った。
 そして、また僕は思うのだ。
恭蔵さんの行ったのはあの世ではない。自身とKUROさんの作ったパステル画の世界へ、西岡恭蔵は旅立ってしまったのだと。

 もしも自殺を踏みとどまる事が出来ていたなら、西岡恭蔵は「プカプカ」を作った頃の無頼さを取戻し、凄惨な物をしたがえた、新たな世界を唄ってくれたのではないか...と、残念でならない。


酔いどれ路地の朝
1989年の8月の終わり頃、
バイト先の北浜地下の書店で立ち読みをしていた僕は
情報誌「エルマガジン」のライブ欄を見て、あれれとつぶやいた。
「Bハウス:9/1 ドクトルミキ」とある。

その頃、毎月一回 僕はベースの谷池泰典君と組んで、
「ドクトルミキバンド」名義でライブをやっていたが、
9月の出演はもっと後のはずだった。

何かの間違いと思い、あわててBハウスのマスター、徳原武さんに電話すると
「ごめんごめん、急に穴があいちゃってミキくんをいれたんやけど、
連絡するの忘れちゃってたんだよ〜 何とか頼むね〜」とのこと。

自分は出られるが、組んでいる谷池君に聞いてみると、その日は無理だった。
ひさしぶりのソロか。まあええわ。ちょろいもんや。
「腕を見せたるわ〜。」
後少しで31才に成るその頃の僕は、自信過剰で
その割にへこんでばかりいたくせに、性懲りも無く思ったのだった。

さて9/1。
いつもの出演日は第2金曜だったか、第3金曜だったか忘れたが
その1日が金曜だったかまでは、実は覚えていない。
ただいつものように雨が降っていた。

当事、工場の煙突が巻いた「ばい煙」が、週末金曜あたりに決まって
雨を降らすんや、と誰かが云っていた。
それでレギュラー出演日は雨ばっかりだったような記憶があるが、
実際は心が雨だった、というほうが合っているだろう。

ウケなかった。
お客さんは多いのだが、いつもの顔ぶれではなく
この唄ならどや、ほならこれは、がことごとくはずれ
しまいには、パラパラの拍手までがとだえてきて
ついにある曲で、ジャラーンとギターのエンディングの後、
しーんと静寂。
人生初のライブ拍手なしを経験した。

 出始めの頃、お客さんの喧噪うずまく中の演奏では、
 まるで戦っているような反応があった。
 僕らの演奏が終わると、まばらな拍手とともに
 お客さんの声も、休憩するように静かになる。
 また僕らが演奏を元気よく始めると
 お客さんもその音に負けじと話声のボルテージを上げる。

 Bハウスは基本的に、うまくて手ごろな値段の料理が売りの酒場だった。
 お客さんも「まあ良けりゃ聞いたろ
 あかなんだら、聞けへんで〜」という感じだったのである
 
 ライブが終わり、ギャラの4000円を握りしめ
 谷池くんと桃谷の商店街を歩く頃には
 もう頭は真っ白。

 駅前のたしか谷中屋という飲み屋でジョッキを二人握りしめ
 「どうしたらもっと聞いてもらえるんやろ〜」
 とうつむくばかり。

 でも根が阿呆やから、あれは何かの間違い、
 次ぎこそ大喝采や〜と、二人また桃谷に出発する
 そんな繰り替えしだったのだ。

 しかし1〜2年もすると、聞いてくれるお客さんがぼつぼつ現れ、
 「ジャニス、もう忘れよう」とか名物曲も出来、
 自信を持ち始めていた矢先だった。

で、最悪に受けなかった9/1のソロライブ。
僕はヘコミ、店の中からは、ことさらコメントもなく
いつも励ましてくれる厨房の高仲くん(彼も唄ってた)も黙り込み
僕はただギャラをもらい、頭を下げ、すごすごと店を出た。

手にしてたギターD-28は、近々後輩に売ることが決まってて
最後の使用だったのに、なんちゅう結果。 ギターケースがやたら重い。

パチンコ屋の店先のシャッターの前の
歩行者の雨靴で濡れそぼった鋪道に
酔いどれじいさんが一人座り込み
しゃがれた声で「ずいばせん・・ずいばせん」
とくりかえし、つぶやいていた。

「誰にあやまっとんねん」と不機嫌につぶやいた僕は、
まるで自分の姿を見てるようでたまらず
足早に桃谷駅の改札を通った。
飲み屋に向かう気もおこらなかった。
早く寝床で傷をなめ、眠ってしまいたかったのである。

けど、家に帰っても悔しさで眠れなかった。
ところが明け方ふと本をめくっていて気になる言葉を見た。
大好きな詩人、鮎川信夫さんの対談集の中にあった言葉。
「大体辛いなんてことは、たいてい気のせいなんだよ。」

僕は明かりをつけ歌詞を書き始めた。
すぐに最後まで書けた。
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Friday    Night,Rainy    Night
 詞/曲        ドクトルミキ        ’89        9/2
                  
夢の終わりが来たのかな
お前もヤキが回ったと
ついてない事ばかりさ
このギターも人手に渡る

けれど俺は知っている
みんな気のせいだってこと
あんたが辛いとしたら
それはたいてい気のせいだって

Friday    Night,Rainy    Night
灯りの下        小さな店
俺は唄うけど        誰も聞いてない
唄が終わっても    拍手も無い
けれどBaby        どこかで誰かが聞いててくれるもの
床が傾いているよ
滑り落ちないで        Baby

帰り道の濡れた舗道で
酔いどれ爺さん座り込み
道行く人みんなに
何か謝っている

けれど俺は知っている
みんな気のせいだってこと
あんたが辛いとしたら
それはたいてい気のせいだって

Friday    Night,Rainy    Night
灯りの下        小さな店
俺は唄うけど        誰も聞いてない
唄が終わっても    拍手も無い
けれどBaby        どこかで誰かが聞いててくれるもの
床が傾いているよ
滑り落ちないで        Baby
Friday    Night,Rainy    Night
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さびの部分最後の「床が傾いている」という所は、
子供のころ行った遊園地の「びっくりハウス」に
錯角を利用した部屋で、実は傾いているのに真直ぐに見える床の部屋があり
そこに立ってみた時の妙に苦しい感じを思い出して、
うけないのに、がんばって唄わなあかん感じにたとえた。

曲もすぐ出来た。
その頃心酔してたジョン・プラインの「ドナルドとリディア」
みたいなカントリーワルツにして、もう明け方6時前だったか
本気で唄った。

そして買ったばかりのヤマハの4チャンネルのMTRを引っ張り出すと
すぐ多重録音をしてみたのである。
これがD28の僕の手許における最後の仕事になった。
「ついてない事ばかりさ/このギターも人手に渡る」
も、本当のことだったのだ。

その後、僕はしばらくして
「Friday    Night,Rainy    Night」を
Bハウスでも唄いだした。

地味な唄やから、お客さんの反応は大した事はなかったのだけど、
厨房でいつも聞いててくれる高仲くんが、気に入ってカバーしてくれて
そのことから、やはり店のスタッフで弾き語りの坂(ばん)君、
店の弾き語りのエースだったA-Show君、広島から来てた横張くんなど
何人かの唄い手によって唄ってもらえることになった。

面白いのは最初の高仲くんのカバーが
僕の原曲のワルツを、スローバラードでアレンジしていために
みんなはそっちのアレンジで唄い始めたことだった。

やがて高仲くんとウエイトレスの由巳ちゃんが結婚して
Bハウスでお祝パーティをした時、僕が唄ったのは
「Friday    Night,Rainy    Night」だった。
僕は趣味だった写真を二人のために撮り、つくったアルバムに
この唄の最初に書いた歌詞を貼付けた。

高仲くんや由巳ちゃんだけは聞いていてくれてる。
店のライブでの、僕の大事な心の支えの二人だったのだ。
唄うたいだったら解るだろう。
聞いて無い百人のお客さんより
聞いてくれる一人のお客さんのほうが嬉しい。
でもその一人を作るのは、良い唄を書きたい、書かねばという
本人の意志の持続だ。

やがてBハウスは経営者が変わる事になった。
僕ら元の唄うたいは、一時全員解雇されることになるが、
徳原さんたちの最後の営業日に、出演してた大半の唄うたいが集まり、
さよならライブが行われた。
その時、「Stand By Me」に見事な歌詞をつけて唄う歌手がいた。
ひどく痩せてクールな男、石山雅人だった。
彼との友情は今も続いているのは御存じの通り。
Dylan's Childrenの萌芽の夜だった。

やがて東京に帰った高仲家には二人の娘が出来、
石山雅人はBハウスの常連客の豊子ちゃんと結ばれ、
僕は厳しく長かったあの時代を祝うため、にまた唄を書いた。
それが「酔いどれ路地の朝(あした)」だ。
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酔いどれ路地の朝(あした)
詞/曲        ドクトルミキ        ’93        3/2

しらふなら取り付くしまも無く
酔っ払えばからんでタチの悪い
ウィスキーのひと雫なのさ
あんたら唄うたいは

勿論俺もその一人って訳さ
幸せすぎる目出度いこの国で
俺だって充分カワイソウ過ぎたさ
でもそれがどうしたって云うんだ

    酔いどれ路地のあしたに
    お前を見つけたのさ
    明日ふるさとの町に
    お前を見せに行くのさ
    お前と俺の小さな娘を
    太陽にかざしに行くのさ
    酔いどれ路地のあしたを越えて

不貞腐れたツラでほっつき歩いて
ヤクザに殴られた酔いどれ路地
でもギターだけは何とかかばった
大事なものはそれだけだった頃

    酔いどれ路地のあしたに
    お前を見つけたのさ
    明日ふるさとの町に
    お前を見せに行くのさ
    お前と俺の小さな娘を
    太陽にかざしに行くのさ
    酔いどれ路地のあしたを越えて

しらふなら取り付くしまも無く
酔っ払えばからんでタチの悪い
ウィスキーのひと雫なのさ
俺たち唄うたいは
俺たち唄うたいは

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実はヤクザに殴られちゃったのは、僕ではなく
あの頃からメランコリックだったA-Show君だったのだが
ある意味ロマンチックな出来事だったので
自分の事として、歌詞にさせていただいた。

このまま録音はしたのだが
最近のライブではAメロの2コーラス目を
「勿論俺もその一人って訳さ/幸せすぎる目出度いこの国で
俺だって充分お笑い草だった/でもそれがどうしたって云うんだ」
と唄っている。

また昔、徳原さんたちの頃のBハウスの味と雰囲気は
今里を本店とする居酒屋「JINANBO」と「そらり」に
そのまま受け継がれている。一度のぞいてみてはいかがだろうか。

もう10年以上軽くたってしまった。
実は最近、あの頃のことを嫌でも思い出す事件があったので
追憶にふけってしまったけれど、
「酔いどれ路地の朝(あした)」も「フライデイナイト、レイニイナイト」も
古い唄なのであまり唄ってなかったのである。

しかし今また唄ってみると、心はすぐさま蘇る。
今も無名な僕だけれど「希望をすてるな」と
あの頃の自分が必死に云うのである。     ドクトルミキ
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(この2曲は最終的に6曲いりのミニアルバム
「酔いどれ路地の朝(あした)」に収録しました。
古い時期の録音が多いので(カセット時代)音はたいしたことはないけど
興味のある方は聞いて見てください。
ただし「Friday    Night,Rainy    Night」は
「フライデイナイト、レイニイナイト」として新しく録音したものを
収録してあります。古い録音は次回アルバム、「忘れ物」に収録予定です。)

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