石山雅人のPOOR BOY WOOGIE

このページでは、石山雅人が音楽や、その他あれこれつべこべを綴ります。

子連れロッカー宣言
来年1月(予定)、晴れて子連れロッカーになる。

もう15年くらい前、某ロックンローラーがインタビューで言っていた。
「子供育てるってのはロックなんだじぇい」と。この言葉が本当なのか自分で確かめてみようと思っている。友部も清志郎も子供が居ても唄を作り続けている。
俺もそうありたいと思っている。

若い頃、30歳を過ぎたら音楽なんて出来ないんじゃないか?唄なんてかけないんじゃないか?
と思っていた。その頃の俺には30過ぎの人なんてすごく大人に見えたし、悪く言えばオッサンにしか見えなかったのだ。けど、自分が30過ぎてみると、やっぱり唄を書いているし、ケッコンした時もそうだった。ケッコンしたらもう曲なんて書けないんじゃないか?
俺の感性も終わりなんじゃないか?と言う思いが胸をよぎらなかったわけじゃない。でも、ケッコンしたってやっぱり曲を書いて、ライブなのだ。

きっとこれからもそうなんだろう。
生きて、歳をとり、体力も少し落ちたけれど、フィーリングはあまり変わらない様に思う。
そのあまり変わらないと言うのがもう、頭の固い大人なんだろうか?
よく分からなくなってきた。

とにかく、子連れロッカーになるのだ。

ずいぶんさぼっちまった
このコーナー、ずいぶんさぼっちまいました。
いかんいかん。

ところで、お盆休みに北九州へ唄いに行って来たのである。
大阪の音楽仲間の、青木君の故郷で、彼の紹介で小倉の「JAIL HOUSE」と言うお店と、黒崎という街の「KING KONG」と言うお店の2軒でライブをしてきた。
ライブは青木君の人徳もあって結構お客さんも集まってくれ、楽しいライブだった。
35歳を過ぎて九州まで唄いに行くとは思ってもなかった。
行って良かった。ほんと

で、九州へ行って思ったのは、九州の人ってやっぱり熱いのね。って言うか人と人のつながりが強いって言うのかな?大阪とは違う、まして新潟(ニイガタのガタの字が書けない人ってけっこう多いのね。)は明らかに違う人間性。
多くの芸能人を輩出しているのが何となく納得できる様な気がした。

食べ物と言えば北九州もやっぱりラーメンは豚骨で、大阪の人間が知っている豚骨よりもコッテリ、ギトギトの店が多いようだ。街中を歩くとどこからでも豚骨の匂いが漂ってくる感じだった。
そして、もう一つはやっぱりメンタイコ。
大阪のスーパーで売っているような着色料の色は付いてないし、値段もやっぱりそれなりに高いのだった。お店によってつけ込むだしの味が違っていて、メンタイコの本場ではその味の違いを楽しむのがメンタイコを食する醍醐味になっているらしい。なんでも石原裕次郎が好んで有名になった激辛のお店もあるらしい。

小倉の街を歩くとタトゥーを入れているやつが多いことに気がつく。
何でも名の通った彫り師がいて、知り合いの口利きがあれば安くしてくれたり、宣伝用にただで彫ってくれることさえある、と青木君が教えてくれた。夜、バーを飲み歩けばタトゥーを入れたヤツらがゴロゴロと居た。

めんたいロックと言えば博多のイメージだけど、実はルースターズや鮎川誠は北九州の出身だという。たしかに北九州の街にはめんたいロックの匂いがプンプン漂っていた。

所詮、ただの戯言なんだがね
戦争がなかなか終わらない。この文章は少し前に書いた物だけれど、誰か読んでくれるだろうか?

例のアメリカのテロ事件以来アメリカでは「イマジン」を放送したらいかん、とかなんとからしい。テロや、空爆、アメリカや日本などなどについて、ここで書こうとは思わない。
だけど「イマジン」の件はどうも納得行かない。


自由の国アメリカなんだろ?あんな事があったからって、誰がどんな唄を唄ったってそんなの勝手だろ?
それに、テロの直後、マドンナが「報復はさらなる報復を呼ぶだけだ」って声明を出したって聞いたけど、他のミュージシャンのコメントは聞かない。
’80年代、何かとエイドをやりまくっていたアメリカのミュージシャンは、今回アフガンには何もしないのか?アメリカの空爆で毎日人が死んでるんだぜ。
へっ!いったいこの世界はどーなってんだろう?
何から何までよくわかんねー事ばっかりだよ。
どんな正義があるのかわからんが、毎日人が死んでいるんだ!!

しけたニュースはもうたくさんだ。

GET IT ON
気がついたら、もう20年もギターを弾いている計算になる。
それにしては何ともおそまつな俺のギター・・・。これはきっと何かの間違いに違いない。
子供の頃から算数のたぐいは苦手だったからきっと計算間違いなんだろう。

初めてギターをさわったのは中3の終わりだったと思う。兄貴が拾ってきた(たぶん)クラシックギターとおぼしきものにアコギのスチール弦を張った物だった。
高校の受験を控えているのにどんどんギターに夢中になって、学校帰りに楽器屋のショーウィンドウを眺めて歩いたものだった。
高校入試の試験が終わったその足で楽器屋に行って、初めて試奏っつーのをさせてもらったんだと思う。

あの頃から気分だけは対して変わらないまま大人になっちゃったよ。
年とともにやらなきゃいけないことがどんどん増えるけれど、やりたいことはこれしかない。

ねー、壁に掛かってる
GIBSONまた退屈な世界から俺をさらってくれよ。

おやすみ、John Lee Hooker。
 おやすみ、John Lee hooker。
 ほんでもって、何かとアンガトね。
 どうせあの世に行っちまうんだったら、一言言ってくれれば会いに行ったのに・・・。

 ’84年だったか’85年だったか?あんたがフラっと京都まで湯ドーフを食いに来たついでにタクタクでやったLIVE。ありゃー最高だったねー。なんせバックでギターを弾いてたのは、まだブレイクする前のロバート・クレイだったしね。ロバート・クレイが何曲かやった後、客席の後ろ〜あれは2階だったのかな?〜から、ギューギュー詰めの観客をかき分けて、ニヤニヤ笑いながらステージへ歩いてゆくあんたはまるでイカレたチンピラの親分みたいにカッコ良かったぜ!!

 しかしなんだね。
 人生はBoogieって訳だ。あんたのBoogieは最高だったぜぃ。
 まったくもって上手いんだか下手なんだかよくわからないあんたのギターにも随分やられたもんだ。あんたはあんた以外の誰にも出来ないやり方でBoogieし続けたんだね。それに「ブギー・チレン」この曲は、ブルースってのは単なる様式美や雰囲気(とかく日本人はブルースに酒場のイメージを抱いたりさ、何かと渋いイメージでとらえがちだよね。)じゃなく自分のことを正直に唄えば良いんだって事を教えてくれたもんだった。

 色々お世話になったお礼と言っちゃ何だけど、あんたへのお中元にあんたが大好きだった「おたべ」の詰め合わせでも送ることにするよ。

 安らかに眠っておくれ。John Lee。
だってあんたときたらMuddyやLightnin’に比べたらどんだけ長いこと働き続けたかわかりゃしないんだから・・・。 




    いつか行ってみたいところ
 インターネット検索エンジンにこのホームページを登録したはずなのに、検索できない。いつもお世話になっているLIVE HOUSEのパソコンでそんな状態だったんで、うちのパソコンでも試してみたがやっぱり出てこない。で、とりあえず検索で出てきたURLをクリックしてみると、北海道の芦別にあるLIVE HOUSE 『DYLAN』 のホームページだった。もう18,9年続いているお店らしい。
 ’98年、野外イベントのレポートなどをぺらぺらと見ていると、高田渡、南正人、友部正人などと共に、シーナ&ロケッツも出演したらしい。しかもシナロケ(鮎川さんもシーナも)高田渡のファンだと言う。レコードも持っているらしい。
            
えぇ〜。
 高校の時 ’70年代の日本のフォークを聴きあさっていた頃高田渡にであったのをきっかけに買った山之口漠の詩集は今も我が家の本棚に宝物のように並んでいるし、R&Rに目覚めた大学時代、俺のお手本と言えばロケッツ、RC、スライダースだったんだぜぃ!!
    
まさかこんな所でつながっていたとは・・・
 一見まったく異質にも思えるこの人達がこんな風につながっていたとはまったく驚いたねー。ジャンルやスタイルは違ってもいいもんはいいんよねー。
そやけどロケッツと高田渡、この両方を理解するヤツはあんまりいないんよね。残念なことに・・・。最近キンチョーのCMであい変わらずの姿を見せてくれる高田渡といい、いつまでも熱いロックンローラー鮎川誠(何故かこの人だけは昔から鮎川さんと言ってしまう。)といい、まったくすんばらしいのさ。へっ。

 ま、それはともかくとしてこのお店のHPはメチャクチャおもろいです。キース・リチャーズとのエピソードには腹を抱えて笑いました。そのほかにもライブ・レポートなんか読んでいると、人前で演奏するって事はいったいどういうことなんだろうと考えさせられることも多かったりして・・・。

 キョーミを持った人は是非訪れてみて下さい。

             http://city.hokkai.or.jp/~dylan/index.htm

 いつか行ってみたいところなら山ほどある。たとえばニュー・オーリンズ。たとえばパリのポンピドゥー・センター。たとえばチベットの寺院。
 またひとつ、いつか行ってみたいところが増えてしまったよ。




もう一人のチルドレン
 ゴールデンウィークを利用して信州へ行って来たもうひとりのDYLAN’S CHILDREN〜中武秀光〜に会いに・・・。
 最初はミキさんや俺のLIVEのお客さんだった中武君が’99年スガハラケイスケとアコースティック・ユニット『セクシー・チョコレート』を結成したときは正直言って驚いた。だいたい彼が、楽器をやっていることさえ知らなかった。最初はなんだかぎこちなかった彼らの演奏もおよそ1年たった2000年に入ってからすごく充実した物になってきたなーと感じ始めたその6月、彼は仕事を辞め、ノリにノッていた『セクシー・チョコレート』を解消して長年の夢だったアラスカへ旅立っていった。
 3ヶ月北米大陸をウロウロしてようやく日本に帰ってきたと思ったら今度は北海道の友達の所で数ヶ月過ごし、今は長野県松本で一休みしている。
またお金を貯めて今度はヨーロッパに行きたいという。今、松本で静かに一休みしながらこれからが新しい旅の始まりのような気がすると言っていた。旅の途中で知りあったカナダ人や韓国人の友達とメールでやりとりしながら魂で旅をしているのだ。
 彼のオヤジもオフクロもとっくにあきらめているらしい。
 『セクシーチョコレート』のライブで突然詩の朗読をしてミキさんや俺を驚かせたり、いきなりアラスカへ旅立っていったり彼のやることにはいつもハラハラドキドキさせられてしまう。世界中の何処にいてもいつかまた会える気がするヤツ。中武秀光。彼は紛れもなく、もうひとりのDYLAN'S CHILDRENなのだ。
 また旅の途中の唄達を聴かせておくれ。




 もう一人のDYLAN’S  CHILDREN〜中武秀光の作品は、【みかんHOUSEの住人達】のコーナーで紹介しています。




ジョン・レノンが死んだ日
 ’80.12.8(日本時間は9日だと思う。)ジョン・レノンが死んだ日、俺は中学3年だった。その頃の俺はまだ洋楽なんてキョーミが無く、ビートルズという固有名詞と誰でも知っているような代表曲しか知らなかった。晩メシを食って、自分の部屋に行って何をしていたかは覚えていないけれど、とにかく自分の部屋にいた。夜9時頃、たぶんお茶でも入れようと思って居間に行くと、NHKの「ニュースセンター9時」で『ビートルズのリーダーだったジョン・レノンが射殺されました。』と、なんだか大きなニュースみたいだった。
 お茶を入れ、部屋に戻ると、なんだか知らないけれど泣けてきた。不思議な涙だった。今から思えば、あの頃俺が知っていたビートルズの曲はほとんどポールの曲だったし、どうして泣いてしまったのかいまだによく解らない。ただ何故か解らないんだけど激しく胸さわぎしたのを覚えている。

 R&Rに目覚めたのは高校を卒業した頃だったと思う。そのころ、初期のビートルズをよく聴いていた。あの疾走感がたまらなかった。でも、当時は中・後期のビートルズにはあんまりキョーミが無くて、ジョン・レノンと言えば「Twist And Shout」だったな。ポールはなんだか学級委員みたいであんまり好きになれなかった。あの頃の俺には、ビートルズと言えば「Twist And Shout」のジョンだった。それとソロになってからのアルバム『ロックン・ロール』。このアルバムからたどって古いR&RやR&Bを聞くようになった。そして気がついたら、中・後期のビートルズはもちろんディラン、ストーンズ、トム・ウェイツ、ザ・バンド、ニール・ヤング、たくさんのブルースやR&B、JAZZ。あー、そして書ききれないくらいの多くのMusician達・・・。深みにはまってしまった。

 もう引き返せないことに気がついたのはいったいいつだったんだろう?そんなことを考える暇もなく、ただただ音楽が好きで仕方なくてここまで来てしまったんだよねー。きっと。



          心の振り幅
 唄うたいって言うのは心の振り幅が広い。
ゴリゴリのロックも歌いたければ、ギター一本でつぶやく様にも歌いたい。ポップな曲もやりたいし、シブシブな曲もやりたい。甘いラブソングも歌いたければ、ハードなことも歌いたい。マジメな唄も唄うけれど、スケベな唄も唄いたい。
 だけど、メンバーを集めてバンドを組んで活動すると、コレは良いけどアレはダメ。ダメッたらダメ。絶対ダメ。なんて事が多くてなかなか自分の中の色々な物が出せないことが多い。別にそれはそれでバンドがうまく行ってるときは気にするほどのことでもなかったんだけれど・・・。それに大体がバンドなんだから、それは俺一人の音楽じゃなくてメンバー全員の音楽なんだから、メンバーの好みや音楽性に左右されるのは当然と言えば当然なんだろう。
 だけど、バンドがポシャッたら自分一人では何もできないってのは困ったもんだった。これは考えもんだった。自分一人で何でも出来るようにならないかんと思った。
 そしてバンドをやめて、結局新しいバンドは組まずに弾き語りで行こうと思ったとき、不安も大きかったけど、これからは今まで出来なかった曲もできるなーと思ったのも事実だったんだ。バンドを意識して作った曲も多かったから、そんな曲達をどんな風にプレイしたら良いんだろう?そんな不安と、今まで出来なかった『Another Side Of 石山雅人』もこれからは演れるんだぜぃ!!と言う何かから解放された気持ちとが入り交じっていたもんだ。そういえばディランにも『Another Side Of Bob Dylan』って言うアルバムがあったね。
 きっと唄さえしっかり唄っていれば、細かいこと〜ギターのテクや、音的にさびしいことやその他諸々〜は何とかなるだろうと勝手に思いこんでいた。一人で、アコギ一本で唄うR&Rも、センスのあるヤツならきっと解ってくれるだろうとあんまり根拠のない希望を持っていたような気がする。
 何か新しいことを始めるときはそれなりの覚悟が必要だ。うだうだ考えているよりはギターを持って唄う事だ。ギターなんてのはずっと弾き続けていればそれなりに上手くなるもんだ。がんがんライブをやって、他のヤツの演奏を見てテクを盗んだり、教えてもらったり、家に帰って色々と工夫してみたりしてればある程度は上手くなるもんなんだよ。
 ねぇ、そこの君、君もそろそろ腹をくくって唄ってみなよ。考えてるだけじゃ何も始まらないぜぃ!!



キヨシローと矢野顕子
 忌野清志郎の30周年コンサートの模様をおさめた「RESPECT 忌野清志郎」というビデオがある。多くのミュージシャンが清志郎の曲を歌うという、なかなかおもしろいビデオなんだけど、その中で矢野顕子がRC SUCCSESIONの後期の曲「海辺のワインディングロード」をピアノ1本で弾き語りしている。原曲をまったく思い出せないほど大胆なアレンジで、完全に自分の曲にしてしまっていて、RCファンはかなり驚いたんじゃなかろうか?
 コンサートの最後に出演者全員がステージに上がって「雨上がりの夜空に」を演るんだけど、清志朗が矢野顕子を紹介するとき「尊敬するヤノアキコ!」と叫んでいた。

 お互いに尊敬しあっているミュージシャンを見ているとなんだかすごく楽しくて仕方がない。もちろん、それはすごくうらやましいことでもある。単に友達と言うだけではなくミュージシャンとして尊敬しあえるってのはそんなにはいないもんだ。

 清志朗と矢野顕子といえば’91年頃、清志朗がアルバム「Memphis」を出したとき、「ミュージック・ステーション」で「世間知らず」を二人だけで演奏していたのを想い出す。タモリが、なぜ矢野さんと演るのかと訊いたのに対して、清志朗が、「レコーディングが素晴らしかったから、あの感じを再現するには矢野さんと演るのが一番良いと思った・・・」と言っていたっけ。(レコーディングはあのMG’Sをバックに演奏したのだ。)もちろんCDになっている演奏とはまったく違う演奏だった。
 たぶん清志朗は気分というか、精神的なというかそんな意味で「あの感じ」を再現したかったんだろうなー。

 尊敬しあうミュージシャンってのは実にカッコ良い。そして美しい。俺もライブで色んなミュージシャンと知りあうけど、いつも「そんなヤツと出会いたいなー」、と思いながら、またライブに向かうのサ。



             清志朗さん,矢野顕子さん、敬称略でごめんなさい。



忘れられないヤツ
 君と出会ったのは大学の音楽サークルだった。まだ二人とも新入生で、大学のサークルと云ったら自分たちよりも遙かにうまい先輩達がいて、ここでもまれれば、自分たちの音楽も一段と磨かれるんだろうと、とんでもない幻想を抱いていたっけ。まあ悪いところばかりではないにしろ、自分たちのイメージしていた物とはまったく違ったこのサークルを、俺も君もすぐにやめてしまった。
 初対面の時、君は俺に「マディ・ウォーターズって知ってるか?」と聞いてきた。俺は当時、マディのLIVE盤を一枚聞いただけだったんだけど、その粘っこさ、何とも云えない重たさになかなか馴染めないながらも、心惹かれる物を感じていたからマディの話題でちょっと盛り上がったんだけど、君はマディがいかに凄いのか、カッコいいのかを一生懸命力説していた。
 

 k君は友達づきあいの苦手なヤツだったから他の連中とは仲良くなれなかったみたいだったけど、俺とは時々連絡を取ってお互いの家を行き来して音楽の話ばかりしていた。一度君がLIVEをやるからと云うんで見に行ったことがある。今から思えばお互いまだ18,9歳で、STONESのコピーバンドだったし多分バンドの演奏なんてきっとオソマツな物だったんじゃないかと思うんだけど、ステージの上でボーカリストとして動き回り、叫びまくっていた君はもの凄かった。まるで、自分以上の何者かになろうとして今の自分が持っている物を何もかも燃やし尽くしてしまうような感じだった。凄かった。俺は客席で息つぎも出来なかった。
 

 ついに言葉には出さなかったけれど、コイツにはかなわないと本気で思った。それから1年位したある日、突然君は「俺なんかじゃマディやミック・ジャガーにはとてもじゃないけどかなわない。」と云ってスパッと音楽をやめてしまった。その後も連絡は取っていたけれど、だんだんと疎遠になってしまった。今はもう何処で何をしているのかも知らない。
 あれから15年もたつけれど、いまだにあのステージの上の君のことが忘れられない。あんなに熱いヤツをいまだに見たことがない。スパッとやめてしまった君、そしていまだに唄っている俺。この差はいったい何なんだろう。ただ一つ云えるのは、若き日にあの君の唄う姿を見たことは俺にとって大切な財産になっているって事なんだろう。



ブルースが教えてくれたこと
 ブルースミュージシャンではないけれど、やっぱりブルースは最高だ。もう随分長いことお世話になっている。高2の頃初めて買ったブルースのレコードはスリーピー・ジョン・エステスだった。あまりのヘヴィさにその後はしばらく聴かなかったなー。3ヶ月に1回くらいレコードをプレイヤーにのっけて聴いてみるんやけどなかなかなじまなかった。そんなことをくりかえしているうちにマディ・ウォーターズに出会い、ライトニン・ホプキンスに出会い、ブルースへの憧れは募っていったんだ。
 まだレコードの時代だったからジャケット買いってのがあって、これはジャケットがくさいから内容は良いはずだ、とか自分勝手に決めつけて随分レコードを買ったもんだ。T・ボーン・ウォーカーなんかケッコウがんばってコピーしたけど、ギターの才能がなかったからあんまり身に付かなかったねー。
 ホントにたくさんのブルースを聴いた。で、だんだんと解ったことがある。みんな自分のやり方でブルースしてるって事。超絶テクのギタリストもいれば、ちっともうまくないヤツもいる。Vo.にしてもそうだ。ブルースと言えばしゃがれ声のイメージだけど、クリアーな声のヤツ、まるで女性のような声のヤツもいる。みんな自分なりに工夫して自分だけのやり方でやってるんだ。どの曲もたった3つのコードでやってるのにどうしてこうもみんな違うんだろう。どうしてみんな不思議な存在感にあふれているんだろう。
 奇をてらったり、誰か風にやるんじゃなくて、自分の中でしっかりとかみ砕いて消化してから吐き出すってことが大事なんだ。きっと。そうすればそれがいかにありきたりのスタイルだったとしても、ちゃんと自分の表現になっているんじゃなかろうか?
 大切なのは唄うたいとして、ミュージシャンとして芯が一本通ってるかどうかって事なんだよ。きっと。
 ブルースがそのことを教えてくれた。自分勝手にそう信じている。



    
友部正人というシンガー 
  DYLAN’S CHILDRENというかなり大げさな名前でホームページを立ち上げることになった。このDYLAN’S CHILDRENと言うのは,Dr.ミキがまだ若かった頃
、日本のフォーク・シーンでよく使われた言葉らしい。言うまでもなく,DYLANの子供達〜DYLANからすべて始まったのだ、という意味だ。
 それはさておき、Dr.ミキ、スガハラケイスケと俺を結びつけたのはDYLANと言うよりは友部正人だった。Dr.ミキは’70年代に青春期を向かえ、’70年代フォークを胸一杯に吸い込んで育った。中でも友部は特別な存在だったらしい。
 そして俺は’80年代、9歳年上の兄貴の影響で友部に没頭する。もちろん二人ともその他の音楽にも熱中し、友部とは随分違う音楽スタイルを身につけたのだが・・・。ちなみに俺はDYLANというよりはSTONES CHILDRENだった。
 ’92年頃大阪、生野区のライブハウス[BEE HOUSE」で俺達は出会った。俺が歌った大胆なアレンジの「STAND BY ME
を気に入ってくれて、その後二人とも友部に大きな影響を受けたことを知り、年齢の差を超えて仲良くなったのだ。
 もっとも若いスガハラケイスケは,Dr.ミキがギターの講師を務めるJAM’Sギター教室の生徒だった。何事にもお人好しのDr.ミキは事有るごとに色んな曲の入ったテープをケイスケに渡したらしいのだが、俺の歌った友部の「長いうで」のテープを聴いて友部に夢中になり、友部に強く影響を受けながらも、けして物真似に終わらない彼独自の音楽を確立していった。
 そんなこんなで俺達にとって友部正人というシンガーは重要なキーワードだったって訳だ。



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