Dr.Mikiの
ぶんつくがまがま


このページでは、Dr.mikiが音楽やその他諸々に関するエッセーを綴ります。



自虐の詩(うた)
 生まれてこの方100回は風邪を引いた。2O代には年4回は引いてて、特にライブ前には必ず引くので、もうギャグになっていた。しかしこの頃は毎朝飲んでるリンゴ酢のおかげか、年2回、しかもヘビーなのは2月くらいに引く1回のみになった。
 でも今年の2月のは最高潮の時、完全に鼻がつまり、夜中の3時頃で点鼻薬も買いに行けず、2時聞くらい口で息をするはめになり「ガビざば、だずげで〜」と涙した。やっと片鼻が通った時は、あまりの心地よさに卒倒するように眠りに落ちた。
 そんな折、.「伊東家の食卓」で「綿棒1本で鼻が通る方法」をやってました。うう、嬉しい。それは棒の所がプフスティツク製の綿棒をU字形に曲げ、各々先っぽの綿の部分を両方の鼻の穴に突っ込むと云う荒業であった。目からウロコがごそっと落ちた。
 で9月の終わりいよいよ風邪気味になって、鼻がつまり始めた晩やってみました。おお、なんか少し痛いけど空気が通る!ツーンとして涙も出るけど、白虐的な気分だけど、効き目あり〜!!しかしこれって・・・と思い、小さな鏡で自分の鏡を見たならば、これ程アホな顔はあるのだろうか。ただでさえ大きい鼻のあながビヨーンと横に広がり、目は涙で真っ赤、しかも右の鼻の穴からは御丁寧に長い鼻毛が1本ひょろ一と出てるのでした。
 べッドに仰向けに倒れつつ、うひゃひゃと笑いで死にそうになりつつ、鼻毛を引っこ抜くとくしゃみが7回くらい出て・さらに涙でぐしょぐしょ、痛いやら、気持ちいいやら、情けないやら、可笑しいやら、ツーンとするやら、夜中に鏡を見ながらゲラゲラー人笑い、異様なナチュラルハイだった。けれどやがて静けさが訪れたとき非常に寂し一気分になり、鼻の通った嬉しさも忘れて虚脱した。誰か知らんが、僕の守護霊も涙していたであろう9月の夜。皆も風邪には気をつけるように。


「千と千尋の神隠し」を見て
 映画が始まって五分もたたずに、主人公の千尋とその両親は神隠しにあってしまう。両親は豚にされ、千尋は魔女に名前を奪われてしまうのだ。物語はひたすら面白い。見終わってから、二時間五分もあったとは...とあっけにとられてしまう。 
 このごろ宮崎駿氏は自分や登場人物を、よく豚になぞらえるのだが、千尋の両親が豚にされてしまうところにも、氏の苦しみが滲んでいるようにも思えたりする。
 この映画の不思議の街は、日本人だったら皆見たことのある街だ。八百万の神々が寛ぎにくる湯屋「油屋」は子供の頃修学旅行で泊まった、きんきらきんの大旅館のようだし、そこで働かされる千尋や従業員の部屋は、大学の頃のクラブ合宿で寝泊まりした大部屋みたいだ。
 神隠しにあった当初の、真昼の通りの極彩色の遊戯場もしかり、夜が来てから一変する妖しい光の通りも、確かに心の何処かにある風景なのである。この映画ひょっとして、コクトーの映画「美女と野獣」のオマージュかもしれないとも思ったりした。コクトーのほうは全編西洋のセンス・オヴ・ワンダーで溢れかえっていたが、それを日本人としての自尊心の強い宮崎監督は、日本のセンス・オヴ・ワンダーに塗り替えたように思う。雨の日にやって来る、どろどろの「オクサレさま」。おそらくは報われぬ愛の化身なのであろう「カオナシ」。一言も喋らなかったけど、そっと小さな人間の子供・千尋をかばってくれたような、大根の神「おしらさま」。「となりのトトロ」から再登場の「ススワタリ」は実は大好物がコンペイトウだった、なんていうのもすごく可愛くて楽しい。(一匹に二コずつコンペイトウを持ってわいわい大騒ぎ!)
 ただ個人的好みとしては、エンドタイトルの唄が、さねよしいさ子の「いとこと二人で」か「うてなのありか」あたりだったらもっと良かったのになあと思いました。宮崎駿氏に早く、さねよしいさ子を発見してほしく思います。「もののけ姫」も力作だったけど、監督自身どうまとめるのか、何だかまとめあぐねてたみたいに思えたので、その点ひたすら楽しく不気味な「千と千尋の神隠し」はこの夏ドクトルミキいちおしの映画であります。ううむ、あと二回は見たいぞ。



   いいもん見せてもらいました。
 以前週に一度、大正区の泉尾までギターを教えに行っておりました。友人の安田君が「リトルトゥリー」というギター屋さんをやってて、好意でアルバイトさせてもらっておったのですが、三軒家をぬけて泉尾へと、ギターを背たらいテクテク歩く道のりは、下町育ちの僕にとっては大変快いもんでした。パンでも買おうとコンビニに入ると、同じく買いもんのおばちゃんに「にいちゃん、稼いできたんか?」と声かけられたときはびっくりしましたけど。ギターを背に黒めがねだったので流しだと思われたらしい。「ま、まあ」とか間抜けな返事をしながら(これから稼ぐんやけど。)などと思いつつ、さばけた土地柄に「ええ感じやんけ」と呟くドクトルミキでした。眠ったような古い商店街でたこ焼き買ったり、おでんを買ったり(味の染みた厚上げが好き)いつも摘み食いをしつつ通ったのでしたが、ある日とても渋い光景を目撃したのでした。
 古い商店街を抜けたすぐの角にこれまた煤けたように古い八百屋さんがあって、店の中には段ボールやカゴが山となり、もう店内での商いは不可能な模様。で店主のおじさんは外の地べたに段ボールを敷いて、キャベツやにんじんやじゃがいもを並べて夕方商戦の準備中。とそこへ腰の曲がった、八十くらいのおばあちゃんが買い物カゴさげてまっしぐら。するとおじさん中腰で片膝を地面につけ、もう片膝あげたイナセなスタイルで手をパンと叩き、片手をキャベツ(本日のイチおしか?)の方に差し出して、おばあちゃんの目を真っ直ぐ見つめ「奥さん、毎度」。日本の八百屋さんの心意気、神髄を見た気がいたしましたですよ。「商いはお客との真剣勝負。」との真っ白な垂幕が僕の心にさっと下ろされ、ひるがえったのでありました。そこを通りすぎる10秒ほどの出来事でしたが、真のプロにはまるで呼吸の如きリズム感あり!ほんと、いいもん見せてもらいましたと思いました。きっとあのおばあちゃんも買い物のプロだったのだらう。大正区恐るべし。渋いぞ三軒家〜泉尾間。
 という訳で僕が通ってた(今はもう行ってないけど。)
「リトルトゥリー」もマニア垂涎のギターで一杯の良いお店です。かって「関西楽器」の名店員だった大坪さんがスタッフですぞ。

     
電話06-6555-3292ギター好きはGo!




  「今川のおばあちゃんのこと」 その参 
 幼稚園に上がる前位だったか、今川の家に白い猫がいた。生野区の実家の猫とは、又違う毛色だったのが珍しく、捕まえようとして逃げられ、その猫が帰って来なくなった事があった。それはすごくショックだった。「三樹ちゃんが追いかけたから、庭の木のほら、あの枝を伝って逃げてしもうたよ。」と笑いながらおばあちゃんは、何度も僕に云うのだが、『なんであんな事したのに、おばあちゃんは僕をおこらへんねやろう?あの猫はどこへ行ってしもたんやろう?』と長い間思っていた。
 おばあちゃんの家には小さな庭と縁側があり、夏場には涼しい風が吹くので、おじいちゃんがよく籐椅子に深く座って目を閉じていた。おじいちゃんは静かな人だった。けれど92才で亡くなる前、おじいちゃんは真顔でおばあちゃんに、「おまえは早よ死ね」と云ってたそうである。僕の母など「あれは本音やった」としみじみ云ったりするのだが、その母が時折語るおばあちゃんとおじいちゃんの人生は、子供だった頃の僕などには到底理解しずらいものだったようだ。おばあちゃんはその濃厚な感情、と云うか激情ゆえにおじいちゃんをかなり苦しめていたらしい。よく喋る賑やかないとこ達も、おばあちゃんとの間に様々な事があったと、後に聞いた。
 本当はそんな場面を見てはいないのに、おばあちゃんが縁側に座り、猫が伝って逃げて行ったあの木を、ぼんやり見ている映像が心に浮かぶ。
 自分の中にある激しい感情も、天然パーマも、丸顔団子鼻に至るまでおばあちゃんの血なのだが、それでもおばあちゃんの事は、実を云うと未だによく分からない。
もちろん、母や伯母、いとこ達にもっと聞いてみたり調べたりすれば、事実としては色々呑みこめるのだろうけれど、祖母とその最後の孫と云う、年齢の差の距離は容易に埋りはしない。
 けれど今はその「分からなかった」と云う事が悔やまれるのでは無くて、とても不思議なありのままの事として、「分からないと云う事がついに分かった」とふと思ったりする。




 「今川のおばあちゃんのこと」その弐
 一階の仏間と云えば、もうひとつはっきり覚えている事がある。
話す事も出来無かったのだから、2才前だったのだろう。その晩、僕は仏間に寝かされていた。母が横に寝ていた。階段の上り口の壁に、子供のような影が写ってゆらゆら動いていた。今でもあれが何だったかよく分からないのだが、ともかく僕はそれが怖くて火が付いたように泣いた。母も起き出して「どうしたん?」と根気よくいつまでもあやしてくれるが、その影はいつまでも消えない。絵本に出てくる影絵のような感じだった。母にそれを訴えたくていつまでも泣いていた気がする。 ともかく今でも不思議だけど、そんなこんなで僕がぐずったり、寝付けないでいると母はよく「三樹ちゃんの寝るまにあもついて〜」と云う子守唄を唄ってくれた。「あも」と云うのはオモチの事らしいが、子供心にそれがすごく甘くておいしそうで、唄ってもらうのが嬉しかった。母もまた祖母によく唄ってもらったのかもしれない。物悲しいメロデイの子守唄だった。
 それで、おばあちゃんの家は好きだったけれど、泊まるのは苦手だった。おばあちゃんの家に居ても、夜が更けてくると僕は母をせかして、早く家に帰りたがった。僕達が今川の家の門を出ると、決まっておばあちゃんは、家の前でいつまでも手を振っていた。僕達も何度もふり返って手を振る。曲がり角の手前の別の家の塀から、うっそうと繁った松の枝葉が、終夜灯の黄色い光を浴びて黒ぐろと影をつくって浮かび上がり、いつも見ないでおこうとしても見てしまう。 やがて、駅の方への曲がり角に来てふり返っても、おばあちゃんの小さな姿はまだ手を振っていて遠く、ひどくたよりなげだった。
 電車とバスを乗り継ぎ、生野区の父の待つ実家に帰ると、表の車の騒音や蛍光灯の明るさに僕はほっとするのだが、家に帰ってもしばらくは、おばあちゃんの家にある何とも云えない寂しさのようなものを、少し連れて帰ったような気がして、又メランコリックになったりもした。

                            (またまた次回へ続く)



「今川のおばあちゃんのこと」その壱
 母方の祖母が90才で死んだのは、僕が22の年の冬だった。12月なのにそう寒くもなく、晴れていて秋の葬式のようだった。それともそんな気がするのは、少し前の祖父の葬式が夏の炎天下で、太陽が明るく、その光の記憶が祖母の葬式の方にも少しこぼれているのかもしれない。祖母には明るい秋の日が似合っていたように思う。
 祖母は近鉄南大阪線の今川駅の近所に住んでいたので、僕や兄は「今川のおばあちゃん」と呼んでいた。感情が濃厚と云うか、よく笑いよく泣いたおばあちゃんで、最後の孫だった僕は溺愛された。
 街中の大通りの前の僕の実家と違い、おばあちゃんの家は東住吉区の住宅街だったので、母や兄と泊まったりした夜はとても静か過ぎて、僕はなかなか寝付けなかった。ときおり終電間際の近鉄線の音がかすかに聞こえたり、もっと遠い向こうから夜汽車の汽笛が聞こえたりする。僕は幼稚園か小学1〜2年というところだったのだろう。母や兄は隣で寝息を立てているし、突然階下から柱時計のぼーんという物悲しい音がして不安になる。薄暗がりの中で、襖の上の方に掛けてあった「ビーナスの誕生」か何かの絵が、今にも動きだしそうな気がして固く目を閉じた。
 けれど朝になれば今川のおばあちゃんの家は、あっけらかんと明るかった。一階の仏間に居ると決まっておばあちゃんは「ほら、あそこのスミのとこで、ひょいと立ち上がって歩きだしたんやで 三樹ちゃんは。」と僕に云う。実際、この今川の家で僕は初めて立って歩いたらしく、おばあちゃんにとってそれは、純粋な驚きと喜びだったのだと思う。ともかくあんまり何度も云われたので、「おばあちゃん またゆうー。」とむくれると、それにも笑って大喜びのおばあちゃんだった。

                           (次回へ続く)



林檎ちゃん オソルベシ
 2本目のカセツト「エデンの東」のジヤケットのカラーコピーに、雨降る松原駅前のセプンイレフンに行った時の事だから、99年の四月頃か?店内でかかっていた椎名林檎の「歌舞伎町の女王」を聞いてビピり、店員の兄ちゃんに コレガ噂ノ宇多田ヒカル?と尋ねたマヌケは僕である。ともかく有線でかかっていたその一曲を聞いていたく感心し、後にアルバムを聞いて更にブッ飛ぶ事になる。大ヒットした<本能>だって本人は適当につくったそうだが、案外、日本人の心情に忠実なメロディラインと唄は、何度流れて来ても納得させられた。
 ジョン・レノンは「子供に嘘をついたら、彼等が16〜17才になった時、必ず仕返しされる」と云っていたけど、彼女の唄は正に復讐のクリエイトだった。トラウマは別に無いそうだが。<蝉の声を聞く度に/目に浮かぶ九十九里浜/皺皺の祖母の手を離れ/独りで訪れた歓楽街>「歌舞伎町の女王」のワンコーラス目からの情景の、急転直下に舌を巻き、手に汗握る。かってはプロデューサーに、難しいだの、マイナーだの、アーティスティック過ぎるだの云われたであろう世界が、歌手と曲の凄まじいカで理解され始める。それも十代の少女達を中心にして。ココの所専門学校で、作詞を教えておりまするが、リンゴズチルドレンとも云える鬼ッ子達もチラホラ出現し始めていて興味深い。 但し林檎嬢の歌唱カもまたケタハズレなので、フォロアーには大変なことだ。
 さねよしいさ子や、もりばやしみほ、矢野顕子、大貫妙子などのしっかりと可憐に育った木々の向こうに・突如派手な枝葉を広げた林檎の木は、ブルースを通り抜け、暗闇に溶けて、真っ赤な実をつけたのである。
 「ここでキスして」なんぞと云われると男はタジタジなのだ。云われたことは勿論ないが。                           


ギターの想い出B
 D-18も 000−28もピックアップをつけて(ピエゾね)LIVEで使いまくりだったけど、一度野外で雨が降ってきて、みるみるラッカー塗装が雨のしずくで白くなって、心底びびり、野外対応ギターがいる!!と思った。
 丁度その頃、オヴェーションが円高で安くなり、また9Vの電池も外から交換できるようになったので、心斎橋のヤマハで「カスタム・バラディーア」を買った。またしてもローン増大。結局これが今もメインになっている。
 ラウンドホールで、シングルカッタウェイのスーパーシャロラボウルだけど、バランスはものすごく良い。いくら力を入れても音が乱れない。ずぶぬれになっても水気さえ取ればすぐに復活する。もっとも音は木のソリッドボディーとは少し違う。しかし石油だって昔の植物とか木とかのなれの果て、科学的に調合された木じゃ!!と無理矢理思うことにしている。幼少のみぎりよりプラモデルを愛する僕は、プラスティックやカーボングラファイトに偏見はないのである。
 ただ、TOPはソリッドウッドの方が安心するかな。精神的に。

 ところで、初代のヤマハFG−160はD−18を買った後に後輩に5千円で売りつけたのだが、最近手元に帰ってきた。今弾いてみるとなかなか味わい深い音なのじゃ。
 クリアーで明るくて日本的。きっとあの頃のヤマハの合板材はちょっと特別なもんだったのだと思う。赤ラベルの次の、いわゆる黄ラベルだが、ネックをいたわるためナッシュビル・チューニングにするか、エクストラライトを張っている。

 それから、高校入学の時、父親が千円札20枚くれて、心斎橋のミヤコ楽器で買ったモーリスのB−20という12弦ギターもまだ持っている。ほとんど録音でしか使わんけど「イイッ」と思ったことはない。でも今はジャズギタリストになった、友人の橋本裕がこれでリードギターを弾いたときは感心した。やっぱりギターってウデなのよね。
 D−18と 000−28についてはまた今度。ブンツクガマガマアウアウアウアウ!!


ギターの想ひ出A
 FGー160は大学の3年生まで使った。その後しんどい思いをして、マーチンD−18の新品を’79年に買った。78年製で今でも中古じゃ値段がリーズナブルな70年代マーチンである。買ってから、なんちゅうアダルトな音じゃ、見栄えも地味だが音も地味、とつくづく思ったが、そのころすごく好きだった田中研二さんと同じD−18を買った!と言うのは心の支えになった。もっとも田中さんのは60年代のビンテージだった。
 10年後にD−28の80年製が14万円で出てたので買った。これはテンションも強くて男のギターだった。三田でやっているブルーグラスフェスを見に行ったら、会場中D−28だらけで何かうんざりしていたら、丁度そのころ昭和町の関西楽器に 000−28のサンバースト(マーチンではシェイテッド・トップと言うのじゃ)があって、名物店員の大つぼさんに「これ行っときやー」と言われて又買った。ローン地獄のエントロピー。結局D−28は 000−28の支払いのために10万円で後輩に売ることになった。
 その間実はタカミネの 006−TPNっちゅう合板のエレアコも買ったりしていた。阪神百貨店の十字屋楽器の店長が「泉州たまねぎファイターズ」のベースの前田さんで、信用払いで無利子の4回払いとかだったなー。結局これは生音が良くなくて売っぱらった。



        ギターの想ひ出@
 ボブ・ディランって若い頃から、ギターに関して渋かったなと思う。フォークシンガーの伝統かも知れないけど、 00とか 000サイズのギターを、それも古い弦を張ってあるという感じで、締まった音を出していた。楽器屋さんの壁にギブソンのニック・ルーカスモデルを弾いている若き日のディランのポスターが貼ってあり、いいなぁと思うが、今出ているレプリカはピックガードの形が違うようだ。
 「ナッシュビル・スカイライン」のジャケットでは、Jー200を持ってニッコリしているが、そう云えばニュー・ポート・フォーク・フェスティバルのジョン・バエズと一緒の有名な映画のシーンでもJー200だったような気がする。けれど、たとえJー200を弾いても低音がドスドス出るような使い方ではなく、固くまとまったシブイ音で、要するにどんなギターを使っても、ギターはその人の音しか出ないのだと思う。
 僕が中学生のマルガリータだった頃、何しろマルガリータはギターが似合わなくて、それには閉口したけど、ヤマハのFGー160をお年玉をためて、アベノの近鉄百貨店で1万6千2百円で買った。西商という高校の文化祭へ行ったら、高校生の兄ちゃんがDタイプのフォークギターを弾いていてその音にしびれたので、もうスズキの2千8百円の鉄線ギターはイヤだー。と僕も買っては見たけど、音の感じが随分違った。
 FGー160はボディがナトーの合板だから、思えばDー18なんかのマホガニーのタイプの音でクリアーで繊細なのだった。あの頃の僕の音のイメージは多分Dー35の音だった。吉田拓郎の「高円寺」のあの音で、西商の兄ちゃんのギターもその手のコピーモデルだったんだろう。今でも、あの人、金森幸介さんだったのでは?と思うことがあるが、それにしてもギターはその人の音しか出んと云ったそばから、ギターの種類による音の違いをうんぬんする自分は支離滅裂だ。あぅ。


草ぼうぼうの広野
 友部正人のCBSソニー時代のアルバム、「どうして旅に出なかったんだ」は、思い出深いアルバムだ。たしかバックはスカイドック・ブルースバンドで、それまで友部正人はずっと、ほぼギター一本で録音してたから、アルバム全体のにぎやかさと、ラストの曲「ユミはねているよ」の静けさが特に印象深い。
 何度レコードをかけても、ラストの「ユミはねているよ」が、あの時代の、あるいは友部正人の青春のエンディングテーマのように聞こえたものだった。おととしの四月、神戸の「ナフシャ」で行われた友部正人のLIVEに、僕と石山君、スガハラ君の三人はPAの助手と言うことで参加し、初めて身近に友部正人本人と声を交わしたけれど、静かなのにものスゴイ人だなと思ったりした。今は唄の力を力ずくで行使しているというか、早く歌い終わってニューヨークへ飛んでいきたいというムードだった。
 昔、初めて大阪へやって来たときとか、高岡で見た街のお祭り騒ぎを、ニューヨークでは日々静かに味わっているんだろうなぁ。
 中学生の頃、雨の降る日の薄青い室内で、友部正人の「にんじん」にレコードの針をおろした時の、あの一曲目の「ふーさん」のギターとハーモニカが忘れられない。僕の歩く道は、知っている道の正反対にあるよ、と教えられた気がした。雨だれの音や、沈黙に似た唄だった。
 今はジャズギタリストになった橋本(藤本)裕や、中学からの友人の関口夫妻や石山君、スガハラ君とも友部正人の唄をつながりとしてみんな輪を描いてきた気がする。
 レッドベリーやウッディ・ガスリーや、ディランや、友部正人が所々立っている草ぼうぼうの広野に、僕も双眼鏡とギターを手に立っていたいと思う。


DYLAN and ME
 昔,NHKで東京の無名フォークシンガーのドキュメンタリーをやっていて、そのシンガーが「ディラン あんたの子供を身ごもった〜」と唄っていた。
 ディランは、ほっとき上手なボスだった。もう何年も何年も音信不通になってるけど、今さら唄を聴かなくても、十分なほど知った気がするでっかい岩石か、地面のようだった。
 高一の時友達のお姉さんの恋人が、ディランのレコードを10枚程かしてくれた。オヤジがかくしてた「インバーハウス」というウィスキーを水道水で割ってグビグビ飲みながら、レコードを聴き、丁度「ハイウェイ61」の”ライク・ア・ローリングストーン”のサビの所で酔いとショックがシンクロしてハイになったのを憶えている。
 
   森のなかの大木がたおれて、そこから多くの植物が芽を出すように、様々な音楽がディランから生まれた。
 友部正人はディランに会えるだろうか?
 そういえば、今度日本に来るらしいね。ディランも老人になりつつある。
 唄の王の今日の機嫌はどうなのだろう?ディランはいつまで死と闘えるだろうか。
 アメリカ人、ディラン。ディランには日本は無関係な土地であり、日本人はよけいに無関係だろう
だがディランがディランであるように、君は君であり、僕は僕であれば良いのだ。
 そして、ディランは唄とギターのあつかい方を親方のように僕たちに示してくれた。なんとよい日々だったろうか。




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