祖父の水天宮


 

<米原駅 東口にかつて存在した水天宮>


 大垣市にお住まいの、小森輝夫様より、東海道線米原駅東口にかつて存在した水天宮について、詳細な文献を頂きました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。その資料は私にとって興味深いことが書かれておりましたので、小森様にご了解を頂き、要約版として、ここに転載することとします。
 

祖父の水天宮

 東海道線が大垣・関ヶ原を経て西に延び、琵琶湖にぶつかる地点に米原駅はある。鉄道はそこから西南に向きを変える。駅は大津・京都を経て関西に延びる本線と、琵琶湖に沿って北上し長浜・敦賀方面へと延びる分岐点だ。その為この駅は、きわめて重要な東海道線の要衝でもある。
 
 その駅構内の一角に小さな社殿がある。今は鳥居も半壊し、鳥居に掲げてあった『水天宮』の額も落ちて地面に置かれている。鳥居から20m程の所、周囲を紅葉、銀杏、ヒマラヤ杉等の大木に囲まれて、苔むした社殿がひっそり佇んでいる。1辺が1m60cm程の檜皮(ひわだ)葺きの屋根は苔むして、いわくありげな古い歴史を物語っている。
 
 周囲の木々がよく育って高く聳えているのは立派だが、それが4坪程の境内に根を張り、土を押し上げて盛り上がっている。その為石垣にもひびが入ったり、玉垣も傾いていたりして、相当に痛んでいる様子が痛々しい。この水天宮(正確には護水神社という名だが、人は水天宮と呼ぶ)の社殿は、私の祖父、豊治郎と深い因縁がある。私は今、その古い歴史を辿ることにした。
 
 
 祖父 豊治郎は1864年(元治元年)、私の住む町の北郊にある、池田山麓の村に生まれた。そして大正13年12月20日に60歳で没したという。彼はその山村の生活を嫌って、身一つで村を飛び出したと聞く。その後の詳しいことは知らぬが、縁あって当時の官営鉄道(後の鉄道省)に就職した。明治の10年代だと思うが、当時は東海道線が開通する前の、いわば鉄道の夜明け前であったらしい。工事の容易な平坦地は既に鉄道は敷かれていたが、東には箱根峠、西には関ヶ原の難所があり、中部には、木曽、長良、揖斐の三大河川が工事を阻んでいた頃だ。要するに、所々に線路があるという状態であった。
 
 東から西へ延びてきた東海道線も、ようやく尾張一宮まで達していた。さらに西へ向かう計画はあっても、前述の三大河川の鉄橋を架ける工事に手間取っていた。東海道線が一宮まで延び、一段落した頃、東海道線は京都から東の路線が計画されていた。当時、京都と大津を結ぶ路線は、土木技術の未熟さゆえ、トンネルを極力避け、比良山系の南を大きく迂回して伏見を通っていた。大津から東には鉄道はなく、伊吹山地と鈴鹿山脈の重なる間を縫う、狭い峠の山道を人は歩いて山越えしてしていた。それが中山道であったと思う。この岐阜県側にあったのが関ヶ原だ。関ヶ原は、古くは応仁の乱や天下分け目の決戦で有名な場所だ。平安時代は不破の関が置かれ、古来から東西行き交う交通の要所であった。そしてこの鉄道の黎明期でも重要な地位を占めた。

 (当時) 凡例  = 鉄路  - 水路

 ==【京都】=【大津】 ←未開通→ 【尾張一宮】=【名古屋】==

 中山道の滋賀県側、古くより栄えていたのは豊臣秀吉が開いた長浜だ。大津から陸路を北上して長浜に達する途中には、近江八幡や彦根がある。古来、河や湖があれば陸路より船の便を選んだのは普通である。この水の街道に官営のしっかりした汽船の航路が出来たのは明治15年である。同年、北陸の玄関口である敦賀と長浜の間に鉄道が敷かれた。これで大陸との玄関口と繋がったことになる。

 ==【京都】=【大津】−【長浜】 ←未開通→ 【尾張一宮】=【名古屋】==
                  ↓
                 【敦賀】

  しかし大津から東は関ヶ原の難所が阻んでおり、分断されたままであった。そこでまず関ヶ原に中継点を起き、鉄道を伊吹山の南を迂回した後、北上させて長浜と結んだ。同時に関ヶ原から東へは垂井を通り大垣までを開通させた。

 ==【京都】=【大津】−【長浜】=【関ヶ原】=【大垣】 ←未開通→ 【尾張一宮】=【名古屋】==
                  ↓
                 【敦賀】

  大垣-関ヶ原間はかなりの上り勾配となり、後押しの機関車をつける必要があった。それが鉄道唱歌に唄われた「後押しの機関車」であり、その機関車の基地が、大垣機関庫であった。やっと関ヶ原〜長浜〜(汽船)〜大津と繋がり、中山道は機能を失った。しかし、このルートは大回りであり不便であった。そこでどうしても関ヶ原と大津を直接結びたいと考えられた。当時、中継点を彦根とする案があったのだが、井伊家の城下町だった誇り高き町は、汽車の煤で街が汚れると言って鉄道を嫌った。そこで彦根に代わる中継点をと選ばれたのが、米原村である。当時の米原村は、お椀を伏せたようなこんもりした小高い山々に囲まれた、静かで長閑な農村だった。
 
 ==【京都】=【大津】−【米原】=【関ヶ原】=【大垣】 ←未開通→ 【尾張一宮】=【名古屋】==
                  ↓
                 【長浜】
                  ↓
                 【敦賀】

 米原はこうして関ヶ原と京都を結ぶ東海道線と、敦賀へ至る線路の重要な拠点となった。関ヶ原と米原間が開通したのは明治22年のことだ。同じ頃、東の方でも難工事であった木曽、揖斐、長良の三大河川に鉄橋が架けられ、とぎれていた一宮と岐阜・大垣間が開通した。一方、同時進行で米原と大津間は、彦根の郊外を通った鉄道で結ばれた。また旧東山トンネルも掘り抜かれて、大津・京都間も開通した。こうして一宮〜京都までの全線が一気に開通した。明治22年のことであった。

 以上のような理由で無理矢理に作られた米原駅は、敦賀と東海道線の拠点として重要な場所になった。そこには当然機関庫か設置され、多くの職員が集まった。古来より、人が集まるところには充分な水があることが絶対条件である。しかし不幸なことに米原村は、全く地下水に恵まれなかった。地上の設備はできあがったのだが、米原機関庫では職員の飲料水はもちろん、蒸気機関車に使用する水さえ適当な物がなかった。管理責任者は必死に水源を探し井戸を掘ったが、やっと掘り当てた井戸は泥沼臭かったり、汚い不純物を含んだ水質だった。それで責任者は、米原村民がただ一つの頼みとしていた、村を取り巻く山の谷水を村人に懇願して分けて貰った。そしてようやく渇いたのどを潤し、毎日の炊事に使った。しかし鉄道利用者が増えると、その水だけではとても足りなかった。そこで窮余の策として、琵琶湖から水を引くことにした。しかし今のように湖水を浄化して飲料水とする技術もなかった頃だ。蒸気機関車に必要な水は確保できても、依然として飲料水は不足していた。米原機関庫は水のない土地に人が集まるという無理な施設だった。もし駅に火事が起きたとしても、ただ黙ってみているしか仕方のない、危険で不安な状態が20数年間も続いた。
 
 私の祖父 豊治郎が登場するのはその頃だ。複数の方が、水天宮の由緒記を保存してくれていたのだ。それは大正9年9月の文書である。それによると、豊治郎は明治44年9月に米原保線区の職員として赴任した。そこで機関庫の窮状を知り、水源の探求に真剣に悩んだという。ある日、豊治郎は怪しげな一人の老人に出会った。そして豊治郎の悩みを聞いた老人は、豊治郎に水の湧く地点を指さして教えたという。豊治郎の進言によって大正3年4月に掘られた井戸からは、きわめて良質の水がコンコンと湧き出たと由緒記にある。管理責任者は豊治郎の徳に感謝し、大いに慰労して記念品を贈りたいと考えた。しかし豊治郎は『出来ることならここに水天宮の神社を建て、神様の思し召しの尊いことを長く伝えたいと思います』と希望したという。
 
 水天宮はこうして関係者の拠金により立派に建立され、大正3年5月12日に盛大な祭りが行われた。その後、毎年5月12日には米原機関庫の職員が参加して、例祭が行われていると言う。
 
 しかし時代の変化は人の心の変化をもたらす。水のない時代を体験した者は水を得て涙を流し喜びに舞い上がったとしても、時代を経た若い人たちにはその感動を伝えることは至難の業だ。今では琵琶湖を水源とする上水道が町中に引かれ、蛇口を捻ればいくらでも水の出る時代だ。
 
 JR西日本の責任者の話では『駅構内のその一角は駅前再開発の為に、清算事業団の整理の対象となっている。そして平成10年秋には、その土地にブルドーザーが入るらしい』という。官営鉄道は色々に改称された後、鉄道省から国鉄に代わり清算事業団によって幕を引かれた。その精算事業団も、この平成10年の秋で仕事を終える。米原駅に命の水を与え、多くの人々に喜びを与えた水天宮は、この平成10年10月末、数十年の仕事を終え、ひっそりと姿を消す。
 
  

小森 輝夫

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