東京日本橋蛎殻(かきがらまち)町にある水天宮の由緒書きによれば、水天宮の起源はこのように書かれて いる。1185年、壇ノ浦の戦いにて幼い安徳天皇が入水されたとき、共に海に身を投じた女官が生き残り、九州 の久留米で命をながらえた。彼女はそこに小さな社を造り、なき天皇や平家の菩提を弔った。それが日本にお ける水天宮の起源であると。 大正3年の春、この社殿で祖父が護符と鏡をいただいて、米原駅の水天宮として祀ったのは事実だ。それか ら85年後、無惨にもその水天宮が消えることになった。私は宮司さんにお会いして、そのいきさつを話した。老 年の宮司さんは『やむを得ませんなぁ。どなたかにお守りして頂ければ結構です。』と、嘆きながら言った。 |
水天宮 炎上
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<米原駅 東口にかつて存在した水天宮> |
ある機会に私が新聞社から取材を受けた際、余談として米原駅の水天宮のことを話した。鉄道省は国鉄に 変わり、国鉄は清算事業団によって整理された。その清算事業団も平成10年10月で解散した。国鉄はJR各 社に分裂し、生き延びるのに賢明な時代だ。その流れは止めようがないが、あおりを食らって一つの小さな社 が消える。時代の流れとはいえ、神社でさえ使い捨ての感があることを私は記者に嘆いた。その記者は、その 話を記事にしたいという。私は喜んで資料を提出した。そして水天宮が取り壊される2日前、平成10年10月1 8日、記事はこの地区と滋賀の地方版に載った。 平成10年11月20日。とうとうこの日がやってきた。米原水天宮の周辺は紅白の幕で囲まれ、その幕は強 い西風に激しく揺れ動いていた。私の心情をこの風と幕が表現しているようであった。神社を焼く鎮魂の儀式 を焼納清祓式(しょうのうせいふつしき)という。清算事業団がお招きした近くの神社の老宮司さんは、社殿にも 手洗い舎にも、また周囲の木々にも敬虔なお祓いをした。厳粛で立派な焼納清祓式であった。私は代表として 玉串を奉納し、この水天宮を護れなかった罪を祖父に詫びた。 土台から切り離された社殿は白木の角材に載せられて、ゆっくりと地上に降ろされた。85年前、祖父の手が 触れた社殿の扉を開け、私はご神体の小さな鏡を記念にいただいた。護符はなかった。小さな社殿は、火をつ けても安全な広い場所に移された。今はただの古い木造品になった廃社に、参列していた工事責任者は少量 の灯油を振りかけ、丸めた新聞紙を柱と板の間に差し込んだ。私は躊躇うことなくマッチを擦った。 この数日は雨も降らず、よく乾いた社殿はメラメラと炎を上げた。檜皮葺の屋根は音を立てて炎を吹き上げた。 檜皮の下に銅板が張ってあるのだろう、緑っぽい炎が火色に混ざって悲しみの色を彩る。その炎は、祖父の悲 しみの涙のように思えた。 新しい駅舎の向こうを新幹線が通過する。すべてコンピュータで動く特急列車と、邪魔になって燃やされてゆ く社殿が一つの視野に重なっている。私は一人、社殿が燃え尽きるまで強い西風の中に立っていた。時代の凄 い移り変わりを、凝縮された短い時間の中で見ているのであった。こうして祖父の水天宮はあっけなく命を終え た。 振り向くと玉垣も灯籠もあっという間にショベルカーが破壊していた。玉垣の中にある紅葉や他の木々は、無 惨にもショベルカーの餌食になった。玉垣の外の大銀杏やヒマラヤ杉は後日切り倒すという。 雲は低く垂れ込めて、西風は弱くなっていた。もう社殿を燃やすための風も必要ないのだろう。明日は雨かと 思わせるような、暗い不気味な雲が西の方角を覆っていた。 |
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