サイバー老人ホーム青葉台熟年物語

青葉台風土記

(青葉台武庫川河畔より西宝橋をのぞむ

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1.西宮市塩瀬町  2.生瀬村の歴史 3.生瀬宿の歴史
4.名塩村の歴史 5.塩瀬町の文化財 ・浄橋寺
・教行寺 ・木之元寺(木之元地蔵尊) ・名塩紙 
6.青野道の紛争 7.その後の生瀬宿 8.青葉台の今昔
9.生瀬高架橋 10.新生瀬橋開通 11.隠れた名所
・裏六甲赤子沢コース 蓬莱峡 ・福知山線跡
12.台風23号武庫川を襲う 13.国道176号線工事
 西宮市青葉台は西宮市北部に位置し、JR宝塚線生瀬駅を最寄り駅とし、国道176号線及び武庫川を挟んで北摂丘陵を背にした風光明媚な住宅地です。
 その昔、宝徳四年(1452年)の夏、京都相国寺の長老で、五山文学者である瑞渓周鳳が有馬温泉に遊んだ折、その入湯記「温泉紀行」に次のように書いております。
 「生瀬川を渡し舟で渡ったが、川の東岸は奇岩や怪石がそびえ、鉄を削ったように鋭く、その岩を破って小さな松が八、九本生えて絶景である。川の西岸は上下にわたって竹薮が密生し、これより西は有馬郡である。」

 この奇岩怪石がそびえ、岬のように武庫川を遮るようにに突き出た地形の上にあるのが昭和42年に阪急電車によって開発された「青葉台」住宅地です。平成元年9月に住居表示が改定するまで、西宮市塩瀬町に属しており、現在、総戸数355戸、総人口1,300人の小さな住宅地であります。(写真:青葉台「岬」)


1.西宮市塩瀬町

 青葉台の属する行政区域、西宮市塩瀬町は昭和26年に西宮市と合併するまでは有馬郡塩瀬町であったが、古くは摂津国有馬郡の生瀬村と名塩村であったものが、明治22年の市町村制公布により合併し、塩瀬村となった。その後、昭和29年に市制変更により塩瀬町になったものである。

2.生瀬村の歴史

 生瀬村はかつて有馬温泉に通ずる有馬道及び丹波地方に通ずる丹波街道の生瀬宿として重要な宿駅であった。
この地が最初に記録にのるのは仁治二年(1241年)浄土宗法然上人の高弟で、浄土宗西山派の祖と仰がれる善恵坊証空(西山上人)が有馬温泉に入湯した際、「摂州武庫川のほとりに伽藍を建て浄橋寺と号す」と記されたのが最初である。
 生瀬の地名は狭い峡谷を流れてきた武庫川が生瀬と現青葉台に挟まれた場所に来て川幅が広がり滑らかな瀬に変わっているがこの滑瀬(なめらせ)から由来していると言われている。

3.生瀬宿の歴史

 生瀬宿はもともと1300年余の歴史を持つ、日本最古の温泉、有馬温泉へ通ずる宿場として発達し、同時に丹波地方から人・物の取り次ぎ所として重要な宿場であった。

 奈良西大寺の叡尊上人(思円)の日記「感身学正記」に「建治4年(1278年)2月28日に播磨に赴く途中生瀬に宿泊」と記されている。

 特に17世紀に入り、全国の宿駅制度が整備されると共に、三田、篠山、福知山方面に至る丹波街道、西宮宿より生瀬宿を通り、武庫川の支流の大多田川の川筋を遡り有馬温泉に至る有馬道、更には現在の宝塚市の小浜宿を通って伊丹の昆陽(こや)から京都に通ずる西国街道の重要な宿駅として栄え、延宝五年(1677年)のものと推定される「摂州有馬郡生瀬村馬借村絵図」によると、当時の戸数107戸の内、庄屋と3軒の専業百姓家を除いて103軒が何らかの形で宿駅の仕事に従事していた。(写真:生瀬宿の面影を残す現在の生瀬町)

4.名塩村の歴史

 名塩の名前が歴史上現れるのは生瀬より下ること200年余り後で、最初にそれらしき地名が出るのは康正二年(1456年)「造内裏段銭記」と言うものに「参貫文 八幡大乗院、摂州有馬郡内塩荘」記されているのが最初である。

 これは時の室町幕府が皇居造営のため、八幡大乗院を通じ、内塩荘に参貫文を上納させたと言うことであるが、有馬郡に名塩以外に内塩荘らしき地名が見当たらないことから推定したものであるが、荘とは当時、荘園をさし、当時の参貫文の価値がいかほどであったか分からないが、戸数も少ない隠れ里のような名塩には相当しないと思われる。

 その後「文明七年(1475年)九月に浄土真宗の蓮如上人が北陸路への布教活動の後、船で若狭を経て、丹波に渡り、名塩の信徒に乞われて名塩に来てしばらく滞在した」と「大谷本願寺通記」および名塩の「教行寺縁起」に記されている。

 更に縁起に「この時、村民僅かに二十四屋」と書かれていることからも、荘園云々は該当しないように思われる。それでは蓮如のような偉大な高僧が何故名塩のような隠れ里にわざわざ道を迂回してまで来たかと言えば、当時室町幕府治世のもとに迫害されていた本願寺派の文字通り隠遁のためではなかったかと推測する。

 但し、前出の瑞渓周鳳の「温泉紀行」後段に「これより西は有馬郡である。さらに左に、律宗の寺があって、十三重の小塔が立っているが、先年(7年前)ここで、赤松播磨守父子が自害したと言われている。」と記されており、この赤松父子とは勿論、室町幕府の重鎮、赤松播磨守満政のことであり、律宗の寺とは現在の名塩木之本の木之元地蔵尊で知られる木元寺のことであり、名塩という土地は室町後期より存在していたと思われる。
(写真:かつての難所、猿首岩の場所に立つ「左有馬道と木ノ元地蔵尊」道標)


5.塩瀬町の文化財

・浄橋寺

 宝塚から国道176号線の生瀬橋を渡って国道から外れて左の狭い道を入った小高い住宅地の中に前出の西山上人が仁治2年(1241年)に開いた浄土宗西山派の名刹である浄橋寺がある。現在の伽藍はすっかり立て替えられ小さくなっているが、本尊は阿弥陀如来像、両脇侍は観音・勢至菩薩立像で、本尊は像高276センチ、脇侍は230センチの堂々たる何れも寄せ木造りで、鎌倉時代の作と目されて国宝に指定されている。((写真:端正な佇まいの浄橋寺山門)

 また、同寺にある梵鐘も同じく国宝に指定されている。寛元2年(1244年)9月の製作年月と願主沙文証空の名と、池の間(胴)に端正で拡張高い文字で上人の教義を正確に表現しているので、上人自ら撰し、自ら筆を執って書いた名鐘とされている。
(写真:国宝阿弥陀如来像)

・教行寺

 浄土真宗本願寺派の中興の祖、蓮如上人によって創建された由緒あるお寺である。上人が北陸から河内への教化への方衣の途中で名塩の住民に招請されて立ち寄った際に庵(中山道場)を開き、後に四世准超の時(1634年)現在地に拡張移建され、近在門徒の中心寺院となった。当初、中山道場は名塩御坊と称せられ、吹田の富田教行寺の別院であったが、後に広教寺の寺号を経て西本願寺派の名塩教行寺となった。
(写真:教行寺参道に立つ「蓮如上人御舊跡」の石碑)

 

 現在の寺域は名塩の集落を一望にできる高台にあって、高い石垣に囲まれた様子は寺と言うより砦を思わせる寺構えである。更に門前に至る坂道に同門の教蓮寺と源照寺の二箇寺を従えており、堂々たる構えである。この二寺は教行寺の宿坊だったと言う説があるが、一宗派の末寺がこれだけの宿坊を持つと言うのも信じ難いが、最盛期でも戸数500戸の集落が、これだけの寺を運営できた経済力は驚異である。(写真:城郭を思わせる教行寺の山門)

・木之元寺(木之元地蔵尊)

 この寺は、文安2年(1445年)播磨の武将で室町幕府の重鎮であった赤松播磨守満政が戦いに敗れてこの地で一族郎党124人と共に自害し、これを供養するため、討手の有馬郡領主赤松持家がこの寺を建立したと言われている。
 当時は真言の流れを汲む律宗寺院であったようである。安永4年(1775年)の「塩渓風土記並びに八景発句」には「木ノ本、元来真言伽藍の寺跡なり、建武の頃、赤松円心創起の地にしてその党の墳墓今に残れり、亦地蔵菩薩の霊像残り在す」とあり、赤松一族に縁ある寺となっている。しかし、その後荒廃し、大正12年に再興しており、今では浄土宗西山光明寺派寺院となっているが往時をしのぶものはない。今では毎年8月23日に行われる地蔵盆で知られ、阪神間からも多くの参詣人で賑わっている。(写真:木之元寺山門辺り)

・名塩紙

 これは文化財ではないが、名塩を世に知らしめた物で名塩紙がある。名塩紙は江戸時代に起こり、寛永15年(1638年)作、正保2年(1645年)に出版された俳人松江重頼の著わした俳諧書「毛吹草」に諸国の物産が紹介され、摂津の条に「名塩鳥の子」紙が出ている。
 鳥の子紙と言うのは産地に自生している瑞香科(チンチョウゲ)に属する雁皮を使って製紙されるされる紙の総称であり、鳥の子の名の由来は紙面が鳥の卵の様であると言うところから来ている。名塩紙がどのような経路を経てもたらされたかは諸説があるが、蓮如との直接の関係は別として、当時では貴重品である紙の製法が一朝一夕にもたらされたとも思えず、蓮如の来訪説とあいまって当時の紙の一大生産地であった越前から宗教上の弾圧を逃れて移住してきた移住者またはその関係者からこの地に根付いたと考えるのが妥当のような気がする。
 名塩紙の特色はこの地の特殊な土を混ぜて漉き込むことにより、変色せず、虫に食われないなどの特色があり、寺院等の障壁画などの下張りとして珍重された。
江戸中期以降は各藩の藩札に用いられるなどして、名塩が大いに栄える礎になり、いささか「白髪三千尺」の感もあるが、名塩千軒とも称せられた時期もあった。
安永4年(1775年)当時で戸数400戸、人口2,000人の集落に今も残る8台のダンジリを持つ経済力はかなりのものであったと想像される。
 今では、その技術の保存に力を入れているが、原料の雁皮は栽培するものでなく、背後に連なる北摂丘陵に自生していたものを採取したとなっている。いたるところに群生していた植物とも思えず、青葉台の背後のつながる北摂丘陵を探したが見当たらず、400年の永きにわたってどのようにこれを確保していたのか解明できなかった。(写真:古い民家も残る旧蘭学通り)



6.青野道の紛争

 生瀬と名塩は距離にして2キロにも満たない距離であるが、過去においてこの両村は現在の青葉台の中を通っていた青野道を挟んで深刻な紛争があったのである。
それは三田・篠山方面に抜ける旧丹波道が生瀬宿を出て間もなく、有馬道と分かれる大多田川と武庫川との合流点で左側は急峻な絶壁が迫り、右は武庫川の深い淵に挟まれて最大の難所(猿首道=さるこうべ道)になっていたのである。
 その対岸が当時は「青濃山畑」と呼ばれた今の青葉台である。この難所を避けるために今の宝塚を過ぎて生瀬橋を渡る前に右に折れ、そこから花折嶺(現花の嶺住宅)という小高い山を越えて青葉台の最奥部に出て、そこから武庫川の川辺に下りて対岸の木之元の集落に渡る道として青野道があったのである。
 ところがこの道を通ると生瀬宿を素通りすることになり、生瀬宿としては何の恩恵も無いことになるのである。本来宿場と言うものは幕府を支える機関であり、幕府の命により人足や牛馬を確保する義務があり、その代償として人や荷物の取次ぎに対する報酬が約束され宿場を維持してきたのである。
 ところがその報酬が目の前を素通りすることになったから大変である。一方名塩にしてみればわざわざ危険な猿首道を通るより、安全でしかも経費の安い青野道を通って小浜宿に出る方がはるかに便利であったのである。この紛争は貞享3年(1686年)に始まり、宝永2年(1705年)には五代将軍綱吉の出した「生類憐みの令」によって、青野道を通って道場河原宿(現神戸市北区)から小浜宿(現宝塚市)までの継ぎ立ては牛馬にとって可哀相と言うことになり、生瀬継ぎ立ての猿首道を街道とすることで落着した。寛政12年(1800年)に書かれた「生瀬駅文書」に「享保年中迄道モ宜敷、牛馬共往来候ヘ共、只今ニ而ハ道荒」と記されている。
 しかし、その後も争いが続き、文化2年(1865年)両方の道を街道とすることで落着するまで、実に百余年の永きに渡って紛争が続いてきたのである。その後生瀬宿は宿場の存亡を賭けて猿首道を整備したため、青野道は自然にその使命を終わったのである。現在青葉台の最奥部の北摂丘陵に至る雑木樹林の中に微かにその痕跡を残している。(写真:かすかに痕跡を残す旧青野道)



7.その後の生瀬宿

 猿首道を通って名塩、三田、丹波地方に通ずる丹波道は明治14年に県道となり、その後何回かの改修拡幅が行われ、昭和27年に国道176号線として内陸部との重要な幹線として県内有数の渋滞道路として今に至っている。
 一方、生瀬宿は明治31年に福知山線(現宝塚線)が生瀬(当時は有馬口駅)まで通じ、翌32年に福知山まで全線開通し、更に有馬温泉まで県道宝塚・有馬線が整備されるに至ってその使命を終わったのである。
最近まで宿場の面影を残す建物などもあったが、阪神・淡路大震災によりほぼ消滅してしまった。また、名塩に付いては洋紙の発達により名塩紙の需要も減退の一途を辿り、現在は文化財保護的な目的で微かにその命脈を保っている。
 ただ、最近この名塩地区のかつて雁皮゚を採取した原野(財産区)が大々的に宅地開発され、同時に福知山線の路線変更による新駅が出来たため町の趨勢は名塩に移っている。ただ、長い歴史の変遷の中で、生瀬と名塩との間には気風のちがいがあるように感ずる。生瀬は幕府を支えてきた旦那衆的気風でおっとりしていて、名塩は技術屋集団としての先取性がある。この学問好きな気風が幕末に至り、この山峡の僻地に幕末の蘭学者緒方洪庵(夫人は名塩出身)の門弟による蘭学塾が起こった所以かもしれない。

8.青葉台の今昔

 かつては青野道が走り、また生瀬宿から武庫川を挟んで現176号線の猿首道と難所を形作っていた現青葉台の地もその後個人の所有に変わり、昭和39年に宅地開発を目的にここに橋(西宝橋)が架けられた。

 昭和41年には阪急電鉄に開発許可が出され宅地開発が行われるとともに、昭和42年から分譲が開始された。その後数次にわたる開発と分譲が行われ、現在の総戸数355戸の青葉台を形成している。

 昭和46年に中国縦貫道がかつての青野道とほぼ並行してこの住宅地のど真ん中を貫通することになり、猛烈な反対闘争が起こった。当時、この種公共工事にについては政治家の手腕が評価され、誰もが無条件で有り難がっていた時代に世間も注目する「青葉台闘争」として2年余に渡って激烈な闘争が行われ、最終的に現在中国縦貫道「青葉台シェルター」としてその姿を止めている。

 ただし、現在の中国縦貫道の上りは青葉台シェルターで急坂を大きく左にカーブしながら下っており、中国縦貫道有数の事故多発地帯になっている。青野道が廃道になって百年の歳月が経過しているが、この青葉台の地は今を去る760余年の昔から、道路を巡る紛争と交通の難所として今もなお変わりない不思議な縁に結ばれた地である。
 平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では西宮市・宝塚とも大きな被害を被った。青葉台から僅か2キロ東に行った宝塚駅周辺でも阪急電車が高架上で大きく傾いたり、歌劇場前の「花の道」では壊滅的な被害を被ったが、幸いにも青葉台では倒壊はおろか建て替えを必要とする被害も一軒も発生していない。専門的なことは別にして、自然の力の計り知れなさをつくづく思い知らされた。(写真:生瀬高台から見た青葉台)

 この震災では未曾有の悲劇を生んだが同時に数え切れない美談も生まれている。僅か1日の日を明けずに、目の前の176号線はひきも切らない救援物資を載せた大型トラックに埋め尽くされ、誰もが感謝の気持ちを込めてこれらを見詰めた。

現在の青葉台の抱えた最大の問題は住民の老齢化である。現在1300人の総人口のうち、65歳以上のいわゆる高齢人口は22.8(全国平均16.7%、2015年予想25.2%)パーセントであり、これに60歳以上を含めると実に32.2パーセントである。これは西宮市全体の同じく14.2パーセント、19.9パーセントと比較しても際立った比率を示している。この比率がこのまま推移するとは思われないが、豊かな高齢化社会の実現を目指して微力をつくしたい。

9.生瀬高架橋

  5年程前から176号線の生瀬橋上下線の渋滞を解消するためのJR宝塚線を跨ぐ高架橋工事が行われている。この工事、生瀬橋東詰め宝塚市側から急傾斜で武庫川と現在の176号線を越えて旧生瀬宿の東外れに至り、そこから更にJR宝塚線を跨ぐという難工事である。橋といっても傾斜橋であり、曲線橋である。しかも一日中交通渋滞している国道とJRを跨ぐのであるから大変な工事で、最初に武庫川の中流に橋脚ができて以来、生瀬川取り付き部分に生えていた樹齢300年を越す榎木の移転に3ヶ月を要し、最近ようやくJRを跨ぐことができた。この跨ぐ工事も部分完成している武庫川上の橋の上に跨線橋を組み立てる台を作り、その上で跨線橋を組み立てて、それを移動させるといういわば三重に橋を作るような込み入った工程をとっている。この様子、浄教寺の縁起となった760年前にここに橋を架けるように諭した西山上人はどのような思いで眺めていることであろうか。
 完成は来年5月であるが、これでようやく176号線の混雑を避けて、旧生瀬宿の抜け道を通る為の一日何百台という「ユーターン橋」で知られる青葉台への「西宝橋」の混雑からも開放されることになり、完成が待たれる。

10.新生瀬橋開通

 平成13年4月27日足掛け5年の歳月と総工費300億円の巨費を投じて「新生瀬橋」が完成した。開通式に先立って4月20日に地元生瀬の春祭りの山車が渡り初めを行い、安全を祈願した。27日は午後3時より一般車両の通行が始まり、従来の生瀬橋を通過するのに酷いときは30分もかかっていたが、わずか5分足らずで通過し,宝塚市内に入ることが可能になった。(完成なった新生瀬橋)

 思えば今を去る860年の昔、法然上人の高弟で浄土宗西山派の祖と仰がれる西山上人が有馬温泉に遊山に行く旅人を困らせていた川人足に対し,この地に橋を架け、その渡り賃で生業を立てるように諭して以来、760余年にわたり常に街道の難所であったのであるが、この新生瀬橋の開通によりようやく解消することになったのである。

 新生瀬橋の完成により176号線を通る車には多大の便益を提供することは当然であるが、この橋の完成を誰よりも喜んでいるのは混雑する176号線を避けて間道を抜ける車のUターン場所になっていた青葉台と狭い道路を沢山の車の抜け道にされた旧生瀬宿の人達であったかも知れない。(JR宝塚線と交錯する新生瀬橋)



11.隠れた名所

 大阪周辺の人に「生瀬」と言えば、「ああ、あそこの河原にキャンプに言った」という答えが返ってくるほど、青葉台の武庫川河畔は手近な行楽地である。現在でも日曜祝日、それに行楽シーズンになると大勢の人が水遊びや、バーベキューに訪れる隠れた名所となっている。ここ以外にもJR生瀬駅を基点とする「隠れた名所」を紹介する。

・裏六甲赤子沢コース

 ご存知六甲山は神戸の背後に連なる山並みであるが、この山域は単に神戸にとどまらず、西宮市、芦屋市、宝塚市、三田市にまたがった広い山域を有している。標高は940メートルほどの山であるが、標高ゼロメートルから一気に立ち上がっていることから、決して生易しい山ではない。

 主な登山道は神戸側、いわゆる表六甲にあるが、こちら裏六甲の登山道も捨てたものではない。その代表的なものは最高峰から宝塚駅に至る東尾根登山道になるが、全長が16キロ余りで通常は全山縦走などの下山道に使われる。それだけに普段は静かな山行きが楽しめる。ただし最高峰まで4時間半程度は覚悟しておく必要がある。

 生瀬からの登山道は赤子沢コースと大多田川コースがある。赤子沢コースは駅前から生瀬高台住宅を最奥部までつめて、右端の小道を樹林の中に入って暫く下り、小さな起伏を超えると赤子沢からの小川にぶつかり、ここで宝塚・有馬線からの道と合流する。ここから5分ほど登ったところが源流であり、周囲が木立に囲まれた桃源郷のような平地がある。赤子沢コースは、この沢を詰めていくのであるが、近年は余り利用する人も無く、踏み跡を探しながら樹林の中を登ると1時間半ほどで東尾根縦走路に出る。古典的山歩きを好む人には申し分ないコースである。


・蓬莱峡

 かつて丹波道の難所、猿首岩のあったところから176号線と分かれて、大多田川に沿って県道有馬・宝塚線を徒歩で30分ほど登ると周囲の緑とかけ離れた白い禿山が現れる。このあたりは地表の土は洗い流されて、花崗岩の地肌が剥き出しになっている。取り分けここから右手の支流にある座頭岩付近は圧巻で、あたかも月世界を思わせる奇観を呈している。

 昔、有馬温泉に湯治に行こうとした座頭(盲人)が迷い込んで遭難したことからこの名前がついたということであるが、今は老若を含めたロッククライミングのトレーニング場となっている。この崩壊は今も範囲を広げており、その一部は若者たちのモトクロスの練習場としてにぎわっている。

 かつての有馬道はこの大多田川をこちらの岸、向こうの岸と渡りながら登ったのであるが、今は静かな山行きを楽しめる六甲登山道の一つとしで、船坂峠を経て東尾根縦走路に出る。



・福知山線廃線跡

 昭和61年に福知山線の宝塚・篠山口間が複線化されたのに伴い、生瀬−武田尾間がトンネルで結ばれ、その中間に名塩駅が出来た。それまで武庫川渓谷に沿って走っていた線路が廃線になったのである。やがてこの廃線跡をハイカーが利用するようになり、休日などおそらく西宮市で最も人気のあるハイキングコースである。

 通常は生瀬駅で下車して、176号線を10分ほど行くと左手に入り口があるがうっかりすると見落としやすいので注意が必要である。
 途中幾つかのトンネルと切り立った渓谷、それに何よりも高低差が少ないことから老若男女に親しまれるコースとなっている。途中には宝塚市が管理する「桜の園」とそれに付随するハイキングコースもあり、健脚向きのコースも設定できる。

 終点はこちらも旧武田尾駅に出るが今は建物は残っていない。周辺に売店や食堂などもあるが、時間に余裕があれば武田尾温泉で一風呂浴びれば最高である。付近の河原で持参の弁当を開くのもまた良い。









12.台風23号武庫川を襲う

  平世16年10月20日、台風23号が近畿地方を直撃し、折からの大雨により青葉台周辺でも多くの被害を出した。近くを流れる武庫川は、国道176号線を冠水ぎりぎりまで増水し、青葉台に通じる西宝橋のほぼ橋上にまで達し、もう少しで冠水する状況であった。

 被害は、かつて青野道の渡し場があったリバーサイド住宅は、住宅の大半が床上浸水し、家財なども流出する被害を蒙り、青葉台とリバーサイド住宅を結んでいた水管橋も流失した。
 また、下流側の花の嶺住宅では、住宅に繋がる森興橋の橋脚が傾き、通行止めとなった。その他、武庫川町のマンションセルビオ5号館前の旧国道176号線が流失した。上流の武田尾では、武田尾橋が流失した。

 この辺りがこれほどの被害をこうむった水害は、リバーサイド住宅が浸水被害を蒙った、昭和58年9月以来である。
 ちなみに、台風被害の復旧講師はよく平成17年3月頃から始められ、8月まで行われた。

13.国道176号線工事

 我が青葉台の前を走るのは国道176号線である。この176号線は京都府宮津市を起点とし、大阪市北区「梅田新道」に至る一般国道である。途中、篠山市、三田市等の丹波地方と、大阪圏の結ぶ幹線である。
 
 ところが、この道路、大阪圏の入り口に入る途端に交通の難所が続いている事はこのサイトにも示した通りである。
 この地域を通る鉄道は一足早く、昭和61年に篠山口まで複線化されたが、肝心の176号線の方は、最大の難所新生瀬橋は平成13年に完成したが、その他の何所は未だに解除されていない。
 
 それでは何もしていないかと言うとそうでもない。青葉台の先の名塩地区では地下にトンネルを掘ったり、山を崩して道路を引いたりしているようだがなかなか全貌が見えてこない。
 
 平成21年より、漸くこの青葉台の前あたりに工事の順番が回ってきて、我が家から見て真正面で工事が始まった。

 工事内容は、JR福知山線廃線跡のトンネルに沿って山を崩して道路を通すことらしい。ところが、この山の岩盤が無暗に堅くて、かなりの難工事だった。この工事の一部始終に渡って我が家から見えるから気が気ではない。

それでも、後期の3月末までは辛うじて間に合ったみた


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