ARROW, K. J.,SOCIAL CHOICE AND INDIVIDIAL VALUES, New york and London, John Willey & Sons, Inc., Chapman & Hall,Limited, 1951, pp.xi+99, 8vo アロー『社会的選択と個人的価値』。1951年刊初版。 アロー Kenneth J. Arrow (1921-) ニューヨーク生まれ。経済学者のサムエルソンとは姻戚である(ポール・サムエルソンの弟ロバートがファミリー・ネームをサマーズに換え、ケネス・アローの妹アニタと結婚した。生まれた子供がクリントン政権下の財務長官であったローレンス・サマーズである。ここにあげた人は、二人のノーベル経済学賞受賞者をふくみ、総て経済学者である)。ユダヤ系ではあるが、父親の銀行が大恐慌で倒産したことにより、物心がついてからは貧しい暮しであった。しかし、家には豊かな時に揃えた蔵書は豊富だった。タウンゼント・ハリス高校(初代駐日公使の名に由来する)を経て、無料教育のニューヨーク・シティカレッジに進学する。大学では社会科学と数学を学ぶ(1940年卒業)。学問で身を立てるつもりはなかったが、就職難からコロンビア大学の大学院へと進む。数学で修士号を得るも、経済学部の統計学者でもあり経済学者でもあるハロルド・ホテリングから、専攻を経済学に変更する条件で特別奨学金を得た。 第二次世界大戦のため、学業を中断、1942-46年空軍(アメリカ陸軍航空隊)の気象士官(大尉)として働いたり、学業から離れて保険会社のアクチュアリー(保険計理士)と成るべく勉強したりした(宇沢弘文の如くアクチュアリーとして保険会社に勤務したことはないようである)。1946年ホテリングの紹介でシカゴ大学のコウルズ委員会経済研究所に勤務、クープマンズやマルシャックの影響を受ける。1948年からランド研究所にも関係した。 ランド研究所は元々空軍の戦略を研究する目的で設立された。草創期はフォン・ノイマンの主導で、ゲームの理論や数理計画法が研究開発された。アロー自身も、軍事研究にも携わったが、1948年には彼の「一般(不)可能性定理」がランドの研究報告書として発表される(注1)。後に、これがコロンビア大学提出の博士論文のテーマとなり、1951年にコウルズ委員会のモノグラフとして、本書が出版される。事実上社会選択論という学問分野を拓いた本である。反響は大きかったものの、余りに独創的であったせいか容易に理解されなかった。論文を審査した経済学者アル・ハートが同僚のセオドア・アンダーソンに話したというこんな挿話が残っている、「テッド、これを見てくれないか?正しいかどうかは言わなくていい。重要かどうかだけ言ってくれ」(パウンドストーン、2008, p.61)。 その後の活躍は推して知るべし。1957年若手の登竜門であるジョン・ベーツ・クラーク賞を受ける。スタンフォード大学を拠点に長く研究を行い、多くの日本人経済学者、二階堂副包、稲田献一、宇沢弘文、根岸隆、村上泰亮等が薫陶を受けたのはよく知られる所である。ハーバー大学教授に招かれ(1968)、1972年にはアメリカ経済学会会長就任とノーベル経済学賞受賞の栄誉に輝いた。 社会選択論以外の大きな仕事としては、一般均衡理論の研究がある。競争均衡の存在、安定性と効率性及び均衡とコアの関係を、位相幾何学等の手法を使い明らかにした。ハーンとの共著である『一般均衡分析』(1971)がある。その他、危険と不確実性に関する研究(『危険負担理論論文集』(1971)、「仕事を通じての学習」を技術進歩と結びつけた論文や経済成長、公共投資の理論の研究等その研究対象は広い。しかも、経済学の中核部分を、本質な所で把握するその独創力は、第二次大戦後におけるヒックス・サムルソン世代に続く経済学の巨峰である。そのくせ、性格に奇矯な所がなく、教えを受けた中谷巌の書きものやパウンドストーンのインタビューを読んでも、大家ぶったところがなく極めて温厚な常識人である。 アマルティア・センは本書の出現を「ビッグ・バン」になぞらえた。以前に何もなかった所に社会的選択論を創造した謂である。しかしながら、新しい選挙制度として学者が提案したものが、調べてみるとかってベネチアの総督やローマ法王の選出に使われていたという歴史的事実として再発見されたケースがままあったように、社会的選択論もその原型は既に存在した。ここでは、アローの業績と関係が深い、コンドルセ「多数決の確率に対する解析の応用について」(1785)をあげる(注2)。いわゆるコンドルセ・パラドックス(循環)を扱った論文である。時を経て、チャールズ・R・ドジソン(ルイス・キャロル)もコンドルセ論文を知らないまま(知らなかったことは、後に書くダンカン・ブラックが確認している)、同様のことを扱ったパンフレット『票決を取る方法』(1876)を発表した。循環という言葉は、ドジソンが使用したものである。アローも本書の元となる発想を得たのはコンドルセ・パラドックス(彼は選挙のパラッドクスという)に気付いたことにあるようである。彼もまた、このパラドックスの発見を「独創的発見では全くないことを確信していた」(アロー、1977、p.147:以下本書邦訳は頁数のみの表示)が、コンドルセの論文は知らなかったと本書第二版で書いている。インタビューでは、デジャヴェ感があり「以前どこかで聞いたように思えたんだ。その日以来いままでずっと、ほんとに聞いたことがあったかどうかはっきりしないままでいる。」(パウンドストーン、2008、p.55)と述べている。 そして、コンドルセ論文は存在に気付かれたとしても、難解で読み通されなかった可能性が強いことを付け加えておこう。「なぜなら、この難解というのは、数学的研究にあるのではなくて、これらの研究をはじめるため、あるいは研究の結果を述べるためにも用いられる表現にあるのである。多くの場合、コンドルセが何を云おうとしたのかを理解するのはほとんど不可能である。数学の著作を広く読んできたわれわれの経験からして、彼の著作の曖昧さと自己矛盾は他に類をみない。…我々は、この著作がほとんど研究されなかったのだと思う。なぜならこの著作がきわだって望ましくないという反論が認められないからである。」とトドハンターは皮肉っている(トドハンター、1975、p.301-2)。ただ、コンドルセが提示したパラドックスの最初の詳しい実例は、選択対象が経済政策に関するものであったことは記憶されていいかもしれない(注3)。 次にコンドルセ・パラドックスそのものの説明に入る。まず、大相撲の千秋楽で勝星が最多の者が3人いた場合の優勝決定方式「巴戦」をイメージしてもらおう。A,B,Cの力士がいて、第一番取組(AとB)でAが勝ち、第二番(AとC)でCが勝った場合を考える。第三番取組は(BとC)である。もしBが勝てばA、B、Cは三すくみで決着がつかず、いずれが強いとも云いかねる(現実の巴戦は二連勝したものが優勝となり、確率論的に公平でない)。 いま、個人1,2,3の三人からなる社会があり、x、y、z の三つの選択対象があるとしよう。ここで、後の便宜のために、記号を導入する。[以下ホームページ・ビルダーを使用して、添字、イタリック書体を表記するが、貴君のパソコン画面には上手く表示されない場合があるやもしれない]個人1が x より y を好む時、x P1yと表すことにする。P の下の添字1は個人1のものあることを示す。そこで、この社会では、各個人が 個人1 x P1 y P1 z 個人2 y P2 z P2 x 個人3 z P3 x P3 y の選好(個人1は、x をy より 好み、 y をz より 好む等々)を持つものとする。 この時、社会としての選好、社会選好順序を多数決で決めることにする。x と y については、x を y より好む者2名(個人1、3)に対し y を x より好む者1名(個人2)であり、社会的選好は、x P yとなる。P に添字がないのは、社会的選好であることを示す。このようにして、この社会の社会的選好を多数決で決めると、 x P y , y P z, z P x となり、社会的選好が矛盾し、順位を付けることができない。これがコンドルセが見つけた「コンドルセのパラドックス」とか「コンドルセ循環」と呼ばれるものである。もちろん、社会の構成員数が増えても、同じ選好(この場合6とおり)を持つ人数の分布によっては同様のパラドックスが起りうるし、選好対象を三つ以上に増やしても同じことが起きる。 これだけの準備をして、いよいよアローの本書にとりかかる。 この本は、個人の選好と社会的選択の関係を論じたものである。「資本主義的な民主国家には社会選択を行いうる方法が本質的に二つある。一つは「政治的」決定をするために典型的に用いられる投票であり、他は「経済的」決定をするために典型的に用いられる市場機構である」(p.3)。本書では、「社会的選択の仕方に関する種々の価値判断の整合性について以下で論ずる場合に、投票と市場の機構の区別は無視し、両方とも集団的な社会選択という一層一般的な範疇の特別な場合とみなすことにする」(p.10)ため、ここで扱われる選択の対象である x ,y ,z …は、選挙の理論では候補者であり、経済学においては、消費選択理論の諸財の量のベクトルであり、企業の理論では投入・産出量ベクトルであり、厚生経済学の財・労働量のベクトル等々でもある。もって、本書が経済学のみならず政治学等の社会科学に大きな影響を与えたことが解るであろう。 そして、本書においてアローは、社会選択に関する著名な「一般不可能性定理」を証明した。一般不可能性定理は、フェルマーの定理と同じくその証明を理解するのは困難だが、定理の意味する所を理解することは容易である。証明については後に触れるとして、定理の示す所を次に記す。 もう少し記号を追加する。上記のとおり社会に属する個人を i (普通数字を用いる)、個人の選好対象となる社会状態を x ,y ,z … で記す。個人 i が x より y を好む(prefer)ときは、x Pi y と表し、彼が x と y を同じように好ましい即ち無差別(indifferent)とするときは、x Ii y と表す。そして、彼が x が y より好ましいかまたは無差別である即ち x が y より悪くはないとするとき x Ri yと表す( R は,ordering Relationから来たものか?)。x Ri y は、x Pi yまたは x Ii yということである。 一般不可能性定理とは、「市民の主権と合理性の原則」(p.50)条件の下で、社会的厚生関数がありうるかという形で表現できる。ここで、アローのいう社会的厚生関数とは、社会の各個人 i (1, 2, 3 …)の選好対象( x, y, z …)に対する選好順序 Ri をもとにして、社会的な選好順序 R を導出するものである。 R= f ( R1,R2,R3 …) 結論をいえば、要求を満たす社会的厚生関数は不可能だとなったため、「一般不可能性定理」と呼ばれるが、アロー自身は「一般可能性定理」と呼んでいる(もっとも、アローも元々は「不可能性定理」としたのだが、クープマンの悲観的すぎるというアドバイスで「可能性定理」に変更しのだが、悲観的印象は拭えなかったらしい)。 次に、社会的厚生関数に要求される「市民の主権と合理性の原則」の内容を見てみよう(区分に付けた名称は様々に名付けられているが、ここでは主としてフェルドマン/セラーノによる)。 1. 完備性と推移性 選好の合理性のことである。さらに二つに別れる。 a )どのような x および y についても、x R y もしくは y R x が成立する(完備性) b )どのような x、y、z についても、x R y かつ y R zであれば、x R z でなければならない(推移性) a )は選好対象の比較が可能であることを示している。b )推移性の説明の前に、非推移性の事例をあげる。太郎は花子を愛し、花子は次郎を愛している。この時太郎は次郎を愛することにはならない。これが非推移的関係である。個人の選好の場合、太郎であれ花子であれ、花より団子を好み、団子より現金を好むなら、花より現金を好むという推移性が成立すると考えるのは自然である。しかし、アローは社会的選好にも推移性を要求するのである。 政党の投票の例にする。個人1が民主党を自民党より好み、自民党を公明党より好むなら、公明党を民主党より好むことはないとするのは自然である。しかし、アローの要求は、全投票者が民主党を自民党より好み、自民党より公明党を好むなら、全投票者は民主党を公明党より好まなければならないのである。個人レベルで推移性が成立しても、二者比較の投票を行えば、非推移的結果がでるのは、先のコンドルセ・パラドックスの例で明らかである。アローはあいまいさを許さぬ決定的な選択を要求し、全候補者の順位を付ける方式を求める。 なお、諸書において、これら二つのルールが区分されずに、一つにまとめられているのは、社会のみならず個人にとっても要求されるルールだからであろうか。 2. 普遍性 どの個人のどのような選好順序に対しても、社会的選好順序が定義されていることである。後に説明する単峰性の性質を持つ効用関数だけでなく、あらゆる選好順序の組合せに対して、アローの社会的厚生関数が使えること意味している。難しく云えば、社会的厚生関数の定義域の非限定性条件(unrestricted domain)を満たすことである。 3. 全員一致性(パレート条件との整合性) 社会の全員が x Ri yであれば、社会的選好順序も、x R yであること。このルールも一見明解であるが、考えてみるともうひとつ腑に落ちない所もある。普通の社会的な選択、例えば選挙において全員一致は、ほぼ有り得ない。 余談ながら、私くらいの年代の人であれば、『日本人とユダヤ人』にあった「全員一致の決定は無効である」というユダヤのサンヘドリン(最高裁判所にあたるらしい)の規定を思い浮かべるであろう。著者がユダヤ系だから余計に連想するのかもしれない。このルールはもちろんサンヘドリン規定の否定ではない。それでも、まんざら無関係ではないことは、アロー自身はこのルールを「市民主権の条件」と呼んでおり、それを「社会的厚生関数は賦課的であってはならない。」(p.48)と表現していることにある。賦課的とは、 x, yに関し個人的順序 R1, R2, R3…の如何にかかわらず、x R y となる場合で、「これは社会が慣習的な法典にしたがっていろいろな決定を行うタイプの社会選択」(p.47)のことである。アローは因習的な社会選択を否定しているのである。 しかしながら、全員一致性が用いられるもう一つ理由は、経済学者に馴染み深いパレート基準と結びついているからであると思える。パレート基準とは、x,y を選択対象とし、すべての i について x Ri y で、少なくとも一人が x Pi y である場合、x R y とするものである。すなわち、社会に一人でも y Pi xとする個人がいれば、社会的選択は x R y とならない。特にアローの場合は、個人総てが x Pi yであるとき、社会選択が x P y となるもので、弱パレート条件と呼ばれる。多数決にくらべると大幅に控えめなルールであるが、経済学者にとっては取り扱い易い基準である。(下の項目である)独立性を満たしておれば、全員一致性を満たす社会選択ルールは、弱パレート基準を満たすことが証明される。 4. 非独裁性 社会的選択はただ一人の個人の選好によって決定されてはならないこと。個人 i の選好 x Pi yが直ちに x P y を決定し、 i 以外の選好は全く反映されない「独裁者」の存在は許されない。民主的な決定ルールとしてこれを要求することは妥当であろう。 5. 無関係な対象からの独立性 x と y という二つの選好対象について、社会的選好順序は個人 i の x と y についての選好によって決定され、それ以外の対象の存在によって影響されないこと。一対独立性(pairwise independence)ともいわれる。これは、ルールの簡略化のためにも必要とされる。二つの選択対象を考える際に、それ以外の対象について考慮する必要がないからである。対の間で行われる社会選択が全部わかれば、推移性から社会的選好順序の全体が定まる。パウンドストーンによって、独立性に反する例(注4)をあげる。食事のデザートにアップルパイとブルベリーパイの二つから選べるとウェートレスから告げられた客が、アップルパイを選んだ。数分後戻ったウェートレスがチェリーパイもありましたと告げる。すると客は「なぜ早くそれをいわないのだ。それなら、ブルベリーパイにしよう。」というような場合が独立性に欠ける事例である。彼が好まなかったチェリーパイは無関係な対象であり、これが二者択一を変えさせたからである。もっと端的にいえば、(これもパウンドストーンの口真似をすれば)2011年の都知事選において、石原慎太郎が東国原英夫に勝利するかどうかは、渡辺美樹が出馬しているか否かに左右されてはならないのである。 繰り返すが、上記5条件を満たしながら、個人の選好から社会的な選択(選好)を決定する方法はないことを著者は明らかにしたのである。このことを当時「経済学では通常用いられない」(p.19)記号論理学を使って証明した。その証明は、そのままでは「ギックリ腰ならぬギックリ頭」(稲田、1970、p.21)になるほど難しいとされ、実際小生の如き頭ではよく理解できなかった。ただ、後の教科書の表記ほど記号は多用されていないので、素人でも論理の道筋はおぼろげながら追うことが出来る。ようやく、「フェルドマン=鈴村の論法」(福岡、1994)や「稲田の別証」(稲田、1970)という簡略版の証明で概要を理解したにすぎない。アローは本書第五章で、選択対象が二つの場合は多数決が条件を満足する社会的選択であるが、早くもニ個人三選択対象のケースで条件を満たす社会的選択の不可能性を明らかにする。一般的な場合(注5)は、アロー自身の言葉では「効用の個人間比較の可能性を排除した場合、個人的嗜好から社会的選択に移行する方法で、広範囲の個人的順序の組に対して定義され、しかも満足しうるものは賦課的であるか独裁的である他ない。」と結論付ける。「投票のパラドックス(コンドルセ・パラドックス:引用者)を除去する投票方法は一つもなく、比例代表機構もだめなことを示している。同様に、市場機構も合理的な社会選択を生み出さない。」(p.95)のである。 昔、稲田の本で「一般不可能性定理」を読んだ時には、なんと奇妙な条件を考え付いたものだと思ったが、今回勉強して了解できたのは、要するに「一般不可能性定理」とは近代の普通の社会では推移性を備えた社会的厚生関数は成立しないは成立しない、言葉を換えればコンドルセ・パラドックスを生じない社会的厚生関数は成立しないと単純化できるのではないか(と思う)。もう一点アローの選好方法は推移性をもとにした順位付け(ランキング・システム)を前提にしているため、これ以外の選考方法については触れるところがない。例えば、範囲投票(個人ごとに優・良・可・不可等四段階評価をして集計するもの)や是認投票(詳細は略)のごときについては社会的厚生関数は成立するともしないとも不明である。米国ではコンピューター・シュミュレーションの結果をもとに、これらの選挙方法の採用を請願する運動が存在するという。さらに、素人気安さで付け加える。アローの業績はゲーデルの「不完全性定理」に擬えられる(荒川、1997 等)。しかしながら、ゲーデル業績は偉大だったとはいえ、その方法は19世紀末以来の無限論の方法、対角線論法を使っており、時代の思潮に掉さしたものだとも思える。これに対し、アローは経済学に新しい武器「記号論理学」を持ちこんだ。アローのほうが、より革新的だとの感がないでもない。 本書が出版されたのはあたかも、スプートニク・ショック(1957年1号打ち上げ)時代の直前である。アメリカ的価値=民主主義、個人主義は集団主義や独裁体制に及ばぬのではないかという時代の不安にとって、アローの定理は心地よいものでは決してなかったはずである。「独裁主義国家」による計画経済は順調に成長しているように思われた。また、民主的資本主義は充分機能せず、競争的資本主義は計画経済に及ばぬではないかという考えを強めこそすれ、弱める物ではなかった。それは、学者や理解できないながら政治家の心に深いところで蟠ることになったであろう。 最後に、書き洩らしたことについてごく簡単にふれておく。第一に、「一般不可能性定理」の批判とその後の研究動向について。まず、個人の集合が個人と同じ選好を持つとするのは、社会を擬人化する方法論的誤りであるとする、ブキャナン等による定理に対する根本的批判がある。さらに、すでに本書のなかで、選択対象が一定の関連を持つ場合(単峰性、ダンカン・ブラックが1948年に「中位投票者定理」についての論文で明らかにした)は、他の条件を満たす社会的厚生関数が成立することをアローは既に述べている。これは、普遍性条件を緩めるものである。個々には異論が出そうな、アローの5条件を緩和することにより、社会厚生関数が成立することを証明しょうとする様々な試みがなされた。しかし、概して一般不可能性定理の頑健性を確認する結果に終わった。簡単にはアローの定理は崩せないのである。第二にアローの本には、重要な点が考慮されていない。「戦略的操作性」(戦略的投票)である。投票者はあくまで自分の内心に正直に行動すると見做されている。ライバルを蹴落とすために、ライバルに自分実際の評価より低いランク付けをすること等はないとされている。しかし、別のものを望んでいるふりをして、真に欲しいものを手に入れることがあるのだ。独裁者の存在を認める投票方式を除けば、あらゆる投票方式でこの戦略的操作が可能であると、後に証明された。「ギバート・サタースウェイトの定理」と呼ばれるものである。 2008年に亡くなった実験物理学者、戸塚洋二の追悼出版である『戸塚教授の「科学入門」』、に、こんな一節があった。「科学というのは、単に数式が観測に合う、というだけではだめです。物理学者がよく言うセリフですが、「この式の意味は何か」、「物理的にこの式を説明できるか」ということが問題になるのです」(p.152)と。社会科学の場合は、なおさらそうではないか思う。上記で式の意味にこだわった記述になっているのはそう解釈して頂ければありがたい。もちろん、示したいくつか例は自分で考え付いたのではなく、諸書の例を応用したものである。しかしなにせ、ジジイの固い頭で考えたこと、他の所を含め多くあるであろう誤りを教えて頂ければありがたい(頓首)。 本書は米国の古書店より購入。 なお、アローの署名と蔵書票を蔵しているので、見て頂ければ幸甚です。 (注1) 本書でも、選択対象として、「武装解除、冷たい戦争、あるいは熱い戦争」(邦訳、p.5)の例があげられているのは、軍事研究の名残であろうか。
(2012/1/31記、2016/8/15 リンクを変更) |