TVBS「真情指数」蔡康永訪陳昇 (98.9)

Part T

テレビのトーク番組の採録です。陳昇蔡康永(聞き手)Vivien


遊走天地的素人歌手 陳昇

陳昇は、実は、最初は音楽創作者になることを志していたわけではありません。最初の希望は画家になることだったと聞きました。その志を誓った場所は、奇妙なことに歴史博物館の前。十九歳の時、ここで絵画展を開くと誓った、と陳昇は言います。その時、他に誓いを立てられる画廊はなかったのですか。どうして歴史博物館に足を運んだのですか。

それが駅の前にあるからさ。分かるだろ、南部の子供たちは、たとえば林強が言ってるように、火車慢慢前走・・・・我的希望和什麼好康的都在那裡(林強のファーストアルバムに収められた、夢と希望を抱いて台北へ出て行く若者を歌った「向前走」の歌詞。オリジナルは台湾語)。だから実際、たくさんの南部から来た人が、そう・・・・駅を出ると、向き合うことになるというわけさ・・・・・あの牛の銅像に、あっただろ。

ええ・・・・新公園の中ですね。(新公園は通称。正式名称は、今は二二八和平公園。台北駅側の入口からすぐのところに牛の銅像がある。Vivien の大好きな侯考賢の映画「風が踊る」では、主人公のケニー・ビーがこの銅像のそばで、ヒロインの鳳飛飛と運命の再会を果たします。鳳飛飛はこのインタビューの PartW にも登場します)

たくさんの人が行く・・・・ここから始まる。つまり、OK、夢はここから始まる。僕に十年の時間をくれ。きっとすべてを征服しよう。あの時に思ったはずだ・・・・あの頃はまだ當兵(兵役に就くこと)もなくて、そこを通るたびに心の中で思ったんだ。よし。あそこでちょうど絵画展があったんだよね。それから公告の垂れ幕もあった。僕に十年の時間をくれ。この垂れ幕はすぐに僕の名前に変わるんだってね。いつもそう思ってたな。あの頃・・・・どちらにしても、地縁が重要な要素だったんだ。

聞くところによると、受験する時、元々は美工(デザイン科?)を受けたかったけれども、結局は・・・・汽車維護(自動車整備科?)に合格したんですね。

実際には・・・・工業、高工で勉強していた頃は、自分が何を学びたいのか、まだはっきり分からなかった。ずっと。もうすぐ兵単(兵役通知)が来る、當兵に行くという時になって、やっと思ったんだ。つまり・・・・何か芸専、美術系の類を受験したいと。

當兵に行くのをあとに延ばすためですか。

でもないな。そうじゃない。つまり絵を画くことを学びたくなったんだ。當兵は僕にとっては、それほど大きな圧力じゃなかった。

最初の仕事は広告会社でしたね。當兵が終わってから、比較的正式な仕事の前に、エレベーターの整備か何かをした。そうですね。

そう、それはもっと早かった。當兵の前だよ。

あなたは一体どれだけのことをしたんですか。

真面目なことは何もしたことがない。この一生でした最も真面目なことは、レコードを作ることってわけさ。

だから、その後、広告会社に入り、話に聞いたんですけど、広告会社に入って美術部門で働けると思っていたのに、結果はどうも業務員にされたようですね。


廣告公司裡沖照片 被主管溌冷水

あの頃は何か仕事がありさえすれば、それで・・・・彼らは僕に走り使いをするように言い、僕はそうした。今でもたまにあの頃の広告会社の主管に出会うことがある。彼が僕に言ったことを覚えているよ。暗室に呼ばれて・・・・君、ちょっと・・・・来て、君に話がある。僕は昇進だと思ったんだ。美術デザインか何かをやらせてくれるんだと。彼は言った。わしは思うんだが、君は毎日暗室にいたって仕様がないよ。というのも、その頃、写真の現像に興味を抱き始めたからなんだ。彼は言った。言っとくがね、美術と美工は別物だ。君は毎日芸術家になろうとしている。さっさと仕事を変える方がいいんじゃないか。ちょっと現実的になりなさい。これを友達に話したら、そんな話はイコール、とっとと辞めてくれないかという意味だ。そうだろ。その後、僕はその仕事を辞めたんだ。

しかし、そんな勤務態度では、恐らく広告なんて取れないでしょうね。あなたが取ろうとしていたのは、バス停の看板に載せる広告ですね。(星座と血液型から見るビジネス占い : 陳昇の蠍座B型は全タイプの中で最も会社勤めに向かないと出た! さもありなん。笑)

僕は・・・・何でそのことを知っているんだ。

知っていてはダメなんですか。あなたは広告を半個でも取ることが出来たんですか。

半個も取れなかった。

それであなたは全然・・・・収入がなかったんだ。

全くのところ・・・・あの頃はただぶらぶらしていただけだ。

ぶらぶらしていたと。

當兵の前後は実際ただぶらぶらしていた。収入はどこから入っていたか。実際のところ、あの頃のわりと大きな収入源は、夜、酒場に行ってバーテンをしていた。それが・・・・わりとまともな収入だったと思う。

道理で、あなたの小説にはバーテンダーについての描写が多いわけだ。彼らは無気力(もとの単語は「蒼白」)だとか。(バーテンダーは歌詞の中にも登場します。彼らが蒼白なのではなく・・・・ → 「Last Order」


在酒廊站Ba台 看盡人生百態

そう、バーテンダーは面白い職業だ・・・・どんな人に会うか、自分では決められないわけだからね。毎日毎日、挨拶しなきゃいけない。そのうえ、わりとヒマな日だと、恐らく猫さえ姿を見せない。だから、独りでそこで自分自身のことで遊ぶようになるんだ。その後・・・・お客が多くなると、例えば休日、全く口を開く機会までなくなってしまう。だから一日、いつも、面白い人間になれるように自分を訓練しなければならない。話をすることを好まない人もいれば、一方・・・・話好きの人もいる。で、バーテンダーは時には犬のように忙しい。時には国王のように大きな権力を手にする。そうだろ。だからそれは・・・・つまりその頃、しかしその頃も、僕は何も正式なバーテンダーじゃなかったんだ。ただその辺で果物を切り、また人生の百態を見ていただけさ。分かるだろ。本当のバーテンダーは大バーテンダー。僕はその頃、どっちかというと、この夜の仕事で生活を維持していた。それから、昼間はずっとチャンスを探していたってわけだ。

画家になるチャンス。

実際にはその頃、いつもあの・・・・バス停の広告を取りに出かけなければならなかった。毎日上から下りて、朝、簡単な報告を終えると、上から下りて行く。頭の中では劉家昌(映画監督として有名。最初は歌手としてスタートし、作詞作曲も手がける。のちに陳昇の師となりますが、その話は PartW で)の歌を歌ってた。バイクに腰を下ろしてこんな風に、我往那裡去 才能找到自己(僕はどこへ行けば 自分を見つけ出せるのか)。毎日、この歌を歌ってた。(この歌をモチーフにした小説もあります → 「我往那裡去、才能找到自己」

それでその時間はどれぐらい続いたのですか。半年。

除隊してからずっと、僕のこのまともな仕事は、多分・・・・一年半ぐらいだ。ほとんどいつもこんな風に過ごしてた。



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