東大寺金堂(大仏殿)

所在地 奈良市雑司町 種別 寺院(華厳宗)
構造形式 桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、本瓦葺、正面唐破風付、銅板葺
時代区分 江戸中期 年代 宝永2年(1705)
指定年月日 1952.03.29 所有者 東大寺
附指定 1952.03.29 棟札1
東大寺は、毘盧舎那仏を本尊とする華厳宗の総本山。
天平13年(741)に聖武天皇が発した国分寺・国分尼寺建立の詔を機に、金鐘寺が大和国国分寺に昇格し、東大寺はこの寺を前身とする。聖武天皇は天平15年(743)、毘盧舎那仏の造立を発願し、天平勝宝元年(749)に鋳造が終了し、天平勝宝3年(752)には金堂の建設も開始される。この頃から東大寺という名で呼ばれるようになり、金堂の他に、西塔、東塔、講堂などの伽藍が整えられる。
平城京を守る官立の大寺として栄えるが、平安遷都以後は衰退し、平安末期の平氏による南都焼き討ちや、戦国時代の兵火で主要伽藍が焼失するなど、大きな損害を受ける。しかし東大寺は、重源により鎌倉期に、公慶により江戸期に、それぞれ再興され、往時の姿を今に伝えている。
大仏殿と呼ばれる金堂は、天平の創建の後、治承4年(1180)の平重衡による治承の兵火、永禄10年(1567)の松永久秀による永禄の兵火で2度焼失した。現在の建物は、江戸時代中期の元禄から宝永年間に再建されたもの。
天平当時、正面幅は現在の七間(約57m)よりも広く十一間(約94m)あったと推定されるが、資金不足によって現在の姿になったという。ただ、側面(約50m)及び高さ(約47m)は創建当時の規模をほぼ踏襲しており、現存する木造建築ものとしては、世界最大規模といわれる。


2度の再建で、建築様式も変化し、創建当時は日本で独自に改良された様式で建築されたが、1度目の鎌倉時代の再建の際には、宋から輸入された大仏様(天竺様)が採用される。
2度目の江戸時代の再建の際には、伝統的な和様と大仏様の折衷様式が用いられている。

母屋は大仏様、軒天井は和様の小組格天井。また正面中央の唐破風屋根は、江戸時代に流行した意匠が採り入れらたもの。


毘盧舎那仏
右脇侍の虚空蔵菩薩坐像(江戸時代:重文)

丸い柱に肘木を直接差し込むさし肘木の手法にみられる大仏様の建築様式

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