園城寺金堂
所在地 | 滋賀県大津市園城寺町 | 種別 | 寺院(天台宗寺門派) |
構造形式 | 桁行七間・梁間七間、一重、入母屋造、向拝三間、檜皮葺 | ||
時代区分 | 桃山 | 年代 | 慶長4年(1599) |
指定年月日 | 1953.03.31 | 所有者 | 園城寺 |
附指定 | 指定年月日 1953.03.31 | 厨子 | |
長等山園城寺は、天台宗寺門派の総本山であり、一般に三井寺と呼ばれる。天武天皇15年(686)に弘文天皇の皇子・大友与多王が、自宅「田園城邑」に氏寺を建立したのが起源と伝わる。 貞観元年(859)、入唐求法を終えた円珍(智証大師)が唐から請来した経典類を収納し、台密を研修するために、東院を営み、同8年(866)に延暦寺別院として再興する。正暦4年(993)、慈覚・智証両門流の確執が激化し、智証門流は比叡山を離れ、以後、園城寺は延暦寺から独立する。 平安時代を通じて、園城寺は朝廷や摂関貴族から帰依を受け、栄えるが、比叡山僧兵による焼き討ちをはじめ、中世戦国を経て大小50回に及ぶ戦火にあう。特に、織田信長の焼き討ち、豊臣秀吉による堂塔の破却で、壊滅状態になる。 慶長3年(1598)、臨終の秀吉により園城寺再興の許しを受け、北政所などの助力で慶長の復興が開始される。このときに現在の主要な寺観が造られ、徳川家の庇護を受けて、寺勢を盛り返す。 明治の初め、天台宗寺門派を組織して、総本山となる。第二次大戦後は、天台寺門宗総本山となり、現在に至る。前代の金堂は、文禄4年(1595)豊臣秀吉による闕所破却の命を受け、延暦寺西塔に移される。 現在の金堂は、闕所の命令が解けた慶長3年(1598)より、北政所などの願により復興に着手し、翌年に上棟している。大正13年(1926)の解体修理に際して、この復興の銘文が確認されている。 |
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桁行・梁間ともに7間で、 正面27.21m、側面23.17mのほぼ正方形。 周囲に縁を廻らし、正面に三間の向拝を備える。 内部は、正面から二間が外陣、中央三間が内陣、後二軒が後陣。 |
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床下と亀腹 | 正面軒下の組物と蟇股 |