根来寺多宝塔(大塔)

所在地 和歌山県岩出市根来 種別 近世以前/寺院
構造形式 五間多宝塔、本瓦葺
時代区分 室町後期 年代 明応〜天文
指定年月日 1952.11.22(0096) 所有者 根来寺
新義真言宗の大本山、一乗山・大伝法院・根来寺は、覚鑁上人(興教大師)の開山になる。覚鑁は金剛峰寺の座主となり、退廃した高野山の信仰を立て直そうとするが、高野山内の衆徒と対立し、保延6年(1140)に根来の豊福寺に移る。根来は、覚鑁が高野山に建立した大伝法院の荘園であった地であり、正応元年(1288)には、大伝法院も高野山から根来に移った。
爾来、根来寺は、新義真言宗の根本道場として栄え、堂塔2700、寺領72万石といわれ、多くの僧兵を擁して戦国大名なみの勢力になる。しかし、天正13年(1585)、羽柴秀吉により攻められ、殆どが灰燼に帰する。
現在、秀吉の根来攻め以前の建造物として残っているのは、国宝の多宝塔(大塔)と重文の大師堂のみであり、その他は江戸時代以降に再建されたものである。


明応5年(1496)に建立されたとされる、我が国最大の木造・多宝塔である。弘法大師が構想した高野山の根本大塔の古式に準じているとされ、現存する大塔形式の唯一の遺構である。
高さ約40m、横幅15mの堂々たる重量級であり、見るものを威圧する。

秀吉の根来攻めの際に焼失せず、奇跡的に残った堂塔の一つ。扉などに、このときの弾丸の跡という窪みが多数残る。


二重目を支える大きな亀腹と、四本の支柱。 大きな屋根を支えるために、組物は、四手先組になっている。


初重は五間四方と規模が大きい。通常の多宝塔は三間四方であるから、その巨大さがわかる。
四天柱で囲まれた内陣の周囲に12本の柱があり、一重目の大きな屋根を支える。
相輪から上層の屋根の四隅に鎖を垂らし、その鎖に風鐸を下げる。


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