明通寺本堂

所在地 福井県小浜市門前 種別 寺院(真言宗御室派)
構造形式 桁行五間・梁間六間 一重 入母屋造 向拝一間 檜皮葺
時代区分 鎌倉前期 年代 正嘉2年(1258)
指定年月日 1953.11.14  所有者 明通寺
平城天皇の御願寺として、大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂が、本堂を建立し、棡(ゆずりぎ)の大木で薬師如来坐像、降三世明王立像、深沙大将の三体を造って安置したことに始まると伝えられる。その後数年で、三重塔、仁王門その他の諸堂が完備し、往時は25坊があったとされる。しかし創建後、天慶6年(943)、康平5年(1062)、建久年中(1190/1198)と3回の火難にあう。
その後、中興頼禅法印が正嘉2年(1258)に本堂を再建し、さらに文永7年(1270)に三重塔を再興して、今日に至っている。
現在の本堂は、正嘉2年(1258)に上棟、文永2年(1265)に落慶法要が行なわれたと記録されている。桁行五間(正面14.72m)、梁間六間(側面14.87m)。柱は丸柱、長押を打ち、和様のたたずまい。内部は、梁間六間の中央に菱格子欄間と格子戸の間仕切りを入れて、内陣と外陣に分けている。


正面の建具はすべて蔀戸
正面の各柱間において、頭貫と桁の間に蟇股が設けられている。

大正12年に解体修理される。


正面の軒下

柱の上の組手は、三斗組、大斗、肘木、巻斗からなる一手先組で形成されている。
一手先組の間の中備は間斗束
二つの桁を繋ぐ支輪が設けられている。垂木は平行の二軒・繁垂木
向拝の内部 虹梁に若葉が彫られている 向拝の蟇股
入母屋破風妻飾懸魚

懸魚は三ツ華懸魚


本 堂 内 部
外陣の身舎部 虹梁大虹梁)組入天井 外陣の庇部 蔀戸と繋虹梁

菱格子欄間で仕切られた 内陣 手前外陣

外陣の庇部 繋虹梁と垂木
内陣には、本尊の薬師如来坐像と、左脇侍の降三世明王立像、右脇侍の深沙大将立像が安置されている。
降三世明王は、本顔とその左右・背面の四面にそれぞれ三眼を持ち、八本の腕を有する、四面八臂の明王であり、胸の前で指を交差させた降三世印を結び、ヒンズーのシヴァ神にあたる大自在天とその妃の烏摩を踏みつけて立つ。貪(貪欲)、瞋(怒り)、痴(無知)の三毒を降伏させるという。
深沙(じんじゃ)大将は、多聞天の化身といわれる。インドへ向かう三蔵法師を救った護法神として知られ、沙悟浄のモデルとされる。炎髪、頭上の髑髏、腹前の童子面、左手の蛇が、深沙大将の象徴。仏画に描かれることはあるが、彫像としては数が少なく、貴重。

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