観心寺金堂

所在地 大阪府河内長野市寺元 種別 近世以前/寺院
構造形式 桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
時代区分 室町前期 年代 正平年間(1346-70)
指定年月日 1952.03.29 所有者 観心寺
附指定 1952.03.29 棟札 1枚
観心寺は、寺伝によれば、大宝元年(701)に役小角によって開かれたとされる。そして空海が大同3年(808)に当寺を訪ねた際に、境内に北斗七星を勧進し、また弘仁6年(815)に再度訪れた際に、本尊の如意輪観音を刻み、寺号を観心寺と改めたとされる。歴史的には、空海の弟子の実恵(じちえ)が淳和天皇からの拝命で、天長4年(827)に伽藍を建立したものであり、このときが実質的な開基であろう。
以後、高野山と奈良・京都の中宿として発展し、特に後醍醐天皇に厚く信任され、最盛期には塔頭が五十余坊あったとされる。その後、足利、織田、徳川により圧迫を受けて衰退し、現在は塔頭ニ坊となっている。しかし、国宝の金堂の他、重要文化財の建造物として建掛塔、鎮守堂、本坊書院を擁し、それなりに充実した境内が営まれている。


和様禅宗様大仏様を取り入れた南北朝時代の折衷様を代表する、密教の仏堂である。


大坂府下最古の国宝建造物であり、室町時代初期の建立。
豊臣秀頼、江戸中期、明治の始め、昭和の始めなど、度々の修理を受けている。
昭和59年の大修理により、現在の、白漆喰と朱塗りの木部との対比が鮮やかな姿が蘇った。

国宝の秘仏・如意輪観音坐像が本尊として安置されている。


妻飾虹梁大瓶束 懸魚猪ノ目懸魚 柱の上の組物出組 中備双斗


外陣と内陣

内陣の厨子に本尊の如意輪観音坐像が安置されている。脇侍は不動明王と愛染明王であり、両脇の板壁の内側に両界曼荼羅が、外側に四天王が描かれている。


境内の建掛塔(たてかけのとう)は、楠木正成により三重塔の建立が開始されたが、正成が湊川で戦死したことにより、一層目で建築が中止されたといういわくが伝えられており、不釣り合いに大きい茅葺の宝形造の屋根が被せられた、ユニークな建物である。また鎮守堂は訶梨帝母天堂であり、小振りだが、春日造の目を引く建物である。
霊宝館には重文指定の仏像などが数多く展示されており、仏像ファンには必見。なにより無料なのがうれしい。(2008.10.04)

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