般若寺楼門

所在地 奈良市般若寺町 種別 寺院(真言律宗)
構造形式 一間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺
時代区分 鎌倉前期 年代 文永頃(1270頃)
指定年月日 1953.03.31 所有者 般若寺
般若寺は、飛鳥時代に高句麗の慧灌法師により開創されたと伝わる。その後、天平18年(746)に聖武天皇により、平城京の鬼門鎮護の定額寺に定められる。治承4年(1180)の、平重衡の南都焼討に際して、般若寺も総て灰燼に帰し、廃寺状態になる。
鎌倉時代に入って、建長5年(1253)ごろ、十三重石宝塔(重文)が再建され、続いて良恵上人、さらに西大寺の叡尊上人により、文永4年(1267)頃には完全に復興される。
その後、室町・戦国時代の戦乱による衰微、江戸時代の復興、明治維新時の廃仏毀釈などで盛衰を繰り返しながら、今日に至る。
コスモス寺として知られ、また本堂の本尊である文殊菩薩騎獅象(重文)は著名。他に重文指定のの経蔵、卒塔婆がある。
楼門は、鎌倉時代に再興された伽藍の回廊遺跡である。回廊は失われているが、楼門の両側に僅かに残っているのが遺構(?)。


一階部分は四脚門形式で、その上に二階部分を載せた構成の簡素な造り。二階の四周に匂欄がとりつく。

均整のとれた形と意匠は、鎌倉建築でも異色の傑作とされている。


開いた門の向うに、高さ14.2mの十三重石宝塔(国・重文)がそびえる。 楼門の側面
楼門の背面の二階 組物二手先組、中備は間斗束であり、全体として和様であるが、肘木の先の木鼻の繰形などに天竺様の影響がみられる。

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