湯築城

所 在 地  愛媛県松山市道後公園 別 名  
遺 構  曲輪 堀 土塁 復元建造物 復元土塁 形 式  平山城
築 城 者  河野氏 築 城 年  14世紀末
歴 史 湯築(ゆづき)城は、14世紀末頃から、伊予守護の河野氏の本拠の城として機能した。
現在、遺構として残る城館の基礎は、16世紀前半の河野通直の代になったといわれる。
天正9年(1581)以降、河野氏は、四国制覇を目指して伊予に侵攻した長宗我部元親と戦い、何とか持ちこたえていた。しかし天正13年(1585)に、羽柴秀吉の四国征伐軍に攻められ、河野通直は降伏し、湯築城は小早川隆景に与えられる。
天正15年(1587)、福島正則が湯築城主となるが、国分山城に居城を移し、湯築城は廃城となる。
歴 代 城 主 河野氏、小早川氏、福島氏


主郭を形成する丘陵部 内堀と土塁 いずれも復元整備されたもの


湯築城は、中央部の丘陵を内堀と外堀の二重の堀と土塁とで囲んだ平山城である。丘陵部は比高が30mほどであるが、南北にやや長く、南寄りの最高所を中心として階段状に曲輪が展開している。湯築城跡はそのまま道後公園となっていたが、発掘調査により各種の遺構が検出されている。
現在、発掘調査の成果として、道後公園の西部から南部にかけて、武家屋敷などが復元されている。


復元された武家屋敷の土塀と門 復元された武家屋敷の家屋


丘陵部の最高所から西方面の眺望 勝山とその山頂の松山城天守 伊予湯築古城之図


<アクセス>
JR松山駅の東方3km、松山城の東方1.5kmにある道後公園の全体が湯築城跡。道後公園の西の入り口と、北の入り口にそれぞれ駐車場(有料)がある。(2011.05.18)

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