米子城

所  在  地  鳥取県米子市湊山 別  名  久米城 湊山金城 
遺  構  曲輪 石垣 長屋門 形  式  平山城
築  城  者  山名宗之 築  城  年  応仁・文明年間(1467-1487)
歴 史 米子城は、伯耆国守の山名氏の配下、山名宗之によって応仁−文明年間に築かれたのが始まりと伝わる。
現在の米子城は、吉川広家が天正19年(1591)から築城を開始したのに始まる。関ヶ原合戦の後の慶長5年(1600)に、吉川広家が岩国に去ったあと、中村一忠が入封し、築城工事を続行して完成した。
慶長15年(1610)、一忠の急死により中村氏は断絶し、加藤貞泰が入封する。元和3年(1617)、加藤貞泰は伊予大洲へ転封され、廃藩となる。
翌元和4年(1618)、鳥取藩の領地となる。寛永9年(1632)、因幡・伯耆と備前の池田氏の領地が入れ替わる。
寛永16年(1639)、荒尾氏が城代として入城し、以後明治維新まで荒尾氏11代が城代として城をあずかる。明治2年に荒尾氏は城を鳥取藩に返上する。
歴代城主 山名氏、吉川氏、中村氏(17.5万石)、加藤氏(6万石)、池田氏、池田氏


本丸石垣と天守台


標高90.5mの湊山の山頂に本丸を置き、中腹に内膳丸、山裾に二の丸と三の丸を配置し、堀で囲む、典型的な平山城である。本丸の天守台には、四重五階の大天守と四重櫓の小天守の二基が並び建っていた。本藩の属城としては、異例の規模の城であったが、二基の天守を始めとして、建物の全ては明治の初めに取り壊された。
城跡の主要部は、現在、湊山公園となっている。公園の西側に駐車場がある。


二の丸の枡形の門跡 二の丸に移築された小原家長屋門 現存する唯一の建築遺構


内膳丸の虎口 本丸の北側の虎口


本丸の黒金門跡 本丸内


天守台の石垣 天守台

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