田 丸 城

 所 在 地   三重県度会郡玉城町  別 名   玉丸城
 遺 構   石垣・堀・門  形 式   平山城
 築 城 者   織田信雄  築 城 年   天正3年(1575)
 歴  史  玉丸城は、延元元年(1336)に、南朝の拠点として、北畠親房によって築かれた。南北朝合一後は、伊勢国司北畠一族の居城となる。
織田信長が伊勢を攻略したとき、次男信雄を北畠氏の養嗣子とすることを条件に、和睦する。
天正3年(1575)、織田信雄は玉丸城に移り、大修築して三層天守を築き、現在の規模に整え、田丸城と改称する。
慶長5年(1600)、稲葉道通が伊勢岩手より入封する。
元和2年(1616)、稲葉紀通は摂津中島に転封する。田丸城は伊勢藩・藤堂家の支城となる。
元和5年1619)、 紀州徳川領となり、久野宗成が徳川頼宣の家老として、遠江久野より入封する。
明治2年(1869)、紀州藩主徳川茂承は、久野氏より田丸城と領地を返還させる。
歴 代 城 主 北畠氏、織田氏、稲葉氏(4.5万石)、藤堂氏、久野氏(1万石)


現在、城跡は城山公園となっているが、石垣の保存状態が良好であり、石垣が累々と連なる情景は圧巻である。



田丸城は、平山城の初期の遺構の一つである。城の縄張りは、天守を擁する本丸の両側に、二の丸と北の丸を配する構成である。織田信雄によって三層天守が建てられたが、間もなく焼失し、以後天守台のみ残り、天守は再建されなかった。


        二の丸富士見門
建物としては、二の丸富士見門が移築されて現存しており、また二の丸御殿の奥書院が復元されている。

現地案内板より


<アクセス>
田丸城跡は、玉城中学校の裏手(西側)の高台にある。玉城中学校の前(東側)にある役場や村山龍平記念館の駐車場を利用することができる。(2006.101.27)

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