高遠城

 所 在 地   長野県伊那市高遠町  別 名   兜山城
 遺 構   曲輪門 空堀  形 式   平山城
 築 城 者   武田信玄  築 城 年   天文16年(1547)
 歴 史  城の始まりは古く、治承3年(1179)に遡るといわれるが、現在みられるような城郭は、伊那への侵攻の拠点として、天文16年(1547)に武田信玄により築かれた。山本勘助の縄張りになるとも伝えられる。武田氏の時代、高遠(諏訪)頼継、秋山信近、武田勝頼、武田信廉、仁科盛信が城主として入城した。
天正3年(1575)の長篠の戦いで武田勝頼が大敗したあと、天正10年(1582)、織田軍が伊那に侵入し、城主・仁科盛信は三千の城兵とともに討ち死にし、落城した。
武田氏滅亡後は、織田氏、徳川氏が城を管理し、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いの功により、保科正光が高遠城主となる。高遠の地は、正光の父、正直が武田信玄の武将として領した地である。
寛永8年(1631)、養子の保科正之(二代将軍秀忠の4男)が出羽山形へ移封されると、鳥居忠春が入封する。
鳥居氏が改易になったあと、元禄4年(1691)、内藤清枚が入封する。以後、内藤氏が明治維新まで在封する。正徳4年(1714)には、江戸城大奥の大年寄・絵島が高遠に配流されている。
歴 代 城 主 武田氏、織田氏、徳川氏、保科氏2代(2.5万石)、鳥居氏2代(3万石)、内藤氏8代(3.3万石)


本丸と二の丸の間の空堀。左の本丸門の前に桜雲橋がかかる。


高遠城は、三蜂川と藤沢川が交わる河岸の段丘上に築かれている。本丸を中心として、東から南にかけて二の丸、その外側を囲む三の丸、南に南曲輪、その外側の法幢院曲輪、西に一段低い笹曲輪と勘助曲輪を配置した縄張りとなっており、各曲輪は深い空堀で画されている。
城址は高遠城址公園となっており、建物その他の遺構は少ない。高遠城址公園は日本有数の桜の名所として有名。


            伝大手門
高遠高等学校の正門として使用されていたが、二の丸の位置に移築されている。
      大手門の枡形の一部の石垣
高遠城は土塁の城であり、石垣の遺構は少ない。


             本丸門
本来は、城下の問屋屋敷にあった問屋門であり、現在、本丸の門として移築されている。
            太鼓櫓
三の丸の東部の搦手門にあったが、現在、本丸に移築されている。


日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む