高天神城

 所 在 地   静岡県掛川市上土方  別 名   鶴舞城
 遺 構   堀、土塁、曲輪  形 式   山城(標高132m、比高100m))
 築 城 者   今川氏、徳川氏、武田氏  築 城 年   室町中期
 歴 史  高天神城の創築ははっきりしないが、駿河の今川氏が、遠江侵攻の拠点として築いたのに始まるとされる。永正10年(1513)頃に今川氏親の重臣・福島正成が入城していることが確認されている。
永禄12年(1569)、今川氏は武田氏と徳川氏から挟撃されて滅亡した。このとき、高天神城の城主は小笠原長忠であり、そのまま徳川家康に仕え、高天神城は徳川のものとなった。
まもなく、駿河を手に入れた武田氏は徳川氏と争うようになり、高天神城は争奪の舞台となる。元亀2年(1571)、武田信玄は高天神城を攻めるが、果たせず撤退した。信玄の死後、天正2年(1574)に武田勝頼は2万の大軍で攻め、ついに落城させた。
しかし天正3年(1575)の長篠の戦いで、織田・徳川連合軍が武田氏に大勝したあと、徳川家康は横須賀城諏訪原城などで高天神城を包囲し、天正9年(1581)に高天神城を陥落させた。高天神城は、陥落と同時に破壊され、廃城となる。
歴 代 城 主 今川氏、徳川氏、武田氏、徳川氏


本丸
東峰の山頂にある。周囲に土塁が残っている。
的場曲輪
本丸の西側の下に位置する。


御前曲輪
本丸の南側に位置する。
三の丸
御前曲輪のさらに東側の下に位置する。


西の丸
西峰の最高所にある。高天神社が鎮座する。
井戸曲輪
西の丸の東。かな井戸がある。


二の丸
西の丸の北側に位置する。
       堂の尾曲輪の堀切
二の丸の北側の堂の尾曲輪の北側の尾根を断ち切る堀切であり、この城の遺構のなかで最も印象深い。


搦手門跡 搦手門は北川の橘ケ谷に、大手門は南東の尾根筋の先端にあった。


東遠江の要衝に位置する高天神山に築かれている。城域は、鏡曲輪を境として、東峰と西峯に分かれた、一城別郭の構造になっている。東峰には、標高132mの最高所の本丸と御前曲輪を中心に、的場曲輪と三の丸が配されている。西峯には、西の丸を最高所として、井戸曲輪、二の丸、堂尾曲輪が配されている。


<アクセス>
高天神城跡は、東名高速道路菊川ICの南東約8kmの位置にある。城跡への入り口は、北の搦手側と、南の大手側の二箇所がある。いずれも駐車場があるが、北の搦手の駐車場のほうが広い。(2009.06.06)

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む