瀬田城

 所 在 地   滋賀県大津市瀬田二丁目  別 名   勢多城
 遺 構   なし  形 式   平城
 築 城 者   山岡氏  築 城 年   建武年間(1334-1335)
 歴  史  山岡氏は、もと甲賀武士で、甲賀郡毛枚(もびら)にいたが、建武年間に瀬田に移って、瀬田唐橋の近くに瀬田城を築城したとされる。山岡氏は、佐々木六角氏の被官であるが、瀬田唐橋という要地を押えていたため、室町幕府と密接な関係を持ち、隠然たる勢力をなしていた。
山岡景隆は、織田政権下でも瀬田唐橋を守る城主として、重用された。また織田信長が安土と京都とを往復する際の宿舎として、瀬田城を頻繁に利用し、天正7年(1579)には信長専用の「瀬田橋御茶屋」が設けられた。
天正10年(1582)の本能寺の変に際して、山岡景隆は、明智光秀の誘いを受けるが、唐橋と瀬田城を焼いて、明智光秀の安土城への進路を阻んだ(「太閤記」)。
文禄12年(1583)の賤ヶ岳の戦いの後、瀬田城は廃城となる。
歴 代 城 主 山岡氏


瀬田城の跡は、いまだに明らかではない。

江戸時代に、山岡景隆の義に感じた膳所藩士が結んだ草庵「臨江庵」は城址に建てられたと伝えられる。
この「臨江庵」の跡は「臨湖庵」という旅館となっていたが、現在閉鎖されている。マンションが建てられる予定のようだ。


山岡景隆は、永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻に対して、近江南部の国人の旗頭として抵抗するが、織田軍の攻撃を受けて翌年に降伏し、織田家の家臣となった。本能寺の変の後は、柴田勝家に与して、羽柴秀吉と敵対する。しかし文禄12年(1583)の賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると、山岡景隆は秀吉に降伏し、所領を没収され、甲賀郡毛枚に隠居した。

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