来島城

所 在 地  愛媛県今治市波止浜町来島 別 名  
遺 構  曲輪 石垣 桟橋柱穴 形 式  海城(島城)
築 城 者  村上吉房 築 城 年  応永26年(1419)
歴 史 瀬戸内海の海賊・村上氏は、系図によると伯方島の村上義顕の子の代に、能島の雅房、因島の顕長、来島の吉房の三家に分かれたとされている。
来島城は応永26年(1419)に、村上吉房が分家する際に築かれたとされる。
来島氏は伊予守護・河野氏の有力家臣であったが、河野氏と対立するに至り、天正10年(1582)には織田信長と結ぶに至る。しかし河野氏と毛利氏に攻められ、来島通総は城から逃れた。
天正12年(1584)、羽柴秀吉と毛利氏との和睦により、来島通総は復帰し、羽柴秀吉の四国征伐に際して来島氏は先鋒として働き、大名としての地位を確率した。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに際して来島長親は西軍に属し、改易され、来島城は廃城となった。
歴 代 城 主  来島村上氏6代


糸山公園から見下ろした来島 対岸の大浦の海岸道路から見た来島


来島城は、来島海峡に浮かぶ周囲1kmの小島・来島の島全体を要塞化した島城である。島の西側寄りの丘陵に沿って本丸・二の丸・三の丸が連郭式に配置され、本丸の東側の平地に居館が設けられていた。
来島へは、波止浜港から連絡船で渡ることができ、2007年現在の人口34人。陸から遠望する場合、今治市小浦町の糸山公園の展望台から500mの距離で見ることができる。また今治市波方町大浦の海岸道路から200mの距離で見ることができ、島の周囲の潮の流れの速さを実感できる。

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