国吉城

所 在 地  福井県三方郡美浜町佐柿 別 名  佐柿国吉城 
遺 構  曲輪 石垣 土塁 空堀 形 式  山城(標高197m)
築 城 者  粟屋越中守勝久 築 城 年  弘治2年(1556)
歴  史 国吉城は、若狭守護武田氏の重臣である粟屋越中守勝久により、弘治2年(1556)に築かれたと伝わる。美浜は、越前との国境の地であり、越前朝倉氏に対する「境目の城」として、国吉城が設けられた。
永禄6年(1563)、若狭に侵攻した朝倉氏の軍勢を、粟屋氏は国吉城で籠城戦を繰り広げて打ち破り、数年にわたり撃退し続けた。これは「国吉籠城戦」として知られる。
元亀元年(1750)の織田氏による越前朝倉攻めの際に、織田信長は国吉城に入城し、粟屋氏は織田軍団の丹羽長秀の与力として従った。
天正11年(1583)、若狭半国を与えられた木村常陸介定光が城主となり、この時に、国吉城は中世の城から近世の城へと石垣造りに改修された。
以後、若狭の国主は、浅野氏、木下氏、京極氏と変わるが、国吉城は境目の城として重視され、重臣を城代として維持されたが、元和の一国一城令により、廃城になったとみられる。
歴 代 城 主 粟屋氏、木村常陸介、浅野氏、木下氏、京極氏


主郭(本丸)の石垣。山上の方々に石垣がみられるが、すべて崩壊している。


国吉城は、佐柿集落の北東の通称城山に築かれており、山麓の城主居館部と、山上の城郭部とからなる。
城郭部は、山頂の主郭を本丸とし、北西の尾根に沿って階段状に第U郭〜第X郭を配した連郭式の縄張りである。本丸とこの北西の郭群の周囲には石垣が築かれている。また西側の尾根には、二の丸と伝わる独立した曲輪が設けられている。


城山の麓の城主居館跡の全景 発掘によって出現した、城主居館跡の前面部の石垣。


主郭である山頂の本丸 本丸の虎口


本丸と堀切を介して連なる第U郭。奥の盛り上がりが本丸。 二の丸と伝わる出丸。左側に土塁が、奥に食違い虎口がみられる。


<アクセス>
国道27号線の椿トンネルを敦賀方面から抜け、すぐの信号を左折し、佐柿の集落へ入る。「国吉城」「歴史資料館」の案内標識に従って進むと、歴史資料館の無料駐車場がある。この駐車場の奥から山側へ歩くと、城主居居館跡の広場がある。その奥の急な斜面を10分ほど登ると、伝二の丸跡に着く。さらに5分ほど登ると、本丸跡に達する。急な斜面には階段が設けられているので、歩くのに困難はない。国吉城の立派なパンフレットまで置いてあり、至せり尽せりである。感謝。(2011.4.17)

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