金ヶ崎城

 所 在 地   福井県敦賀市金ヶ崎町  別 名   敦賀城
 遺 構   曲輪、堀切  形 式   山城
 築 城 者   新田義貞  築 城 年   延元元年(1336)
 歴 史  源平合戦の初期、源義仲追討のために北陸に派遣された平通盛が、養和元年(1181)に築城したのが始めとされる。
南北朝時代のはじめ、延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命で、新田義貞が尊良親王と恒良親王を奉じて越前に下り、気比氏治の居城であった金ヶ崎城に入城する。半年間、足利勢と戦い、翌年3月落城し、尊良親王と義貞の嫡子・義顕以下三百名の将兵が亡くなり、恒良親王は捕らえられ、義貞は逃れる。
その後、金ヶ崎城は、越前守護代の甲斐氏の支配するところとなる。
戦国時代に入り、越前を朝倉氏が掌握すると、敦賀郡司に金ヶ崎城を守護させる。
元亀元年(1570)4月、織田信長が越前朝倉氏を攻めるにあたって、まず郡司朝倉景恒が守る金ヶ崎城を攻め落とした。しかし、浅井長政の謀反にあい、信長軍は急遽総退却する。このとき、木下藤吉郎が金ヶ崎城に残って、殿(しんがり)をつとめた。
天正元年(1573)8月、朝倉義景が織田信長に滅ぼされた際に、金ヶ崎城も廃城になったものと思われる。
歴 代 城 主 平通盛、気比氏、新田義貞、甲斐氏、朝倉氏


二の木戸跡の外側に設けられた堀切。3m程度の高低差の、見事な姿で残っている。


金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出た海抜86メートルの小高い金ヶ崎山に築かれた山城であり、三方は岸から高い絶壁になっている。
現在残っている遺構は、朝倉氏の時代のものである。月見御殿跡、一の木戸〜桟の木戸の跡、曲輪、堀切などが残っている。月見御殿跡は、金ヶ崎山の海に突き出た最先端部にあり、本丸跡といわれている。


          月見御殿跡
南北朝時代の本丸の跡といわれている。位置的に、戦国時代においても本丸だと思うのだが。
月見御殿から見た敦賀湾


一の木戸跡
この木戸の外側にも堀切がある。
金ヶ崎山。周囲は埋め立てられているが、半島状に突き出た様子が窺える。


<アクセス>
金ヶ崎城は、箱崎宮の奥にある。敦賀市内に入ると、金ヶ崎城跡や金崎宮への標識が方々にあるので、迷うことはない。金崎宮の前に観光用の広い駐車場がある。箱崎宮は、金ヶ崎城で戦死した尊良親王と、脱出したものの捕らえられて幽閉され、その後亡くなった恒良親王を祭神とする。(2009.03.29)

日本の城目次へ戻る
前の頁に戻る                次の頁に進む