河後森城

所 在 地  愛媛県北宇和郡松野町 別 名  
遺 構  曲輪 土塁 堀切 石垣 復元建物 形 式  山城
築 城 者  渡辺氏 築 城 年  不明
歴 史 河後森城の築城年代は不明であるが、天文後期から天正期(1542〜92)にかけて主に機能した城である。
城のある松野町は伊予と土佐の国境にあって、黒土郷河原渕領といわれ、永禄期の城主として河原渕教忠の名が残されている。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国平定の後、城の支配者は、戸田勝隆、藤堂高虎、富田信高と移る。
慶長19年(1614)、伊達秀宗により宇和島藩が立藩されると、河後森城には家老の桑折氏が入った。
その後、元和元年(1615)以降に、一国一城令により廃城となった。
歴 代 城 主 渡辺氏 河原渕氏 戸田氏 藤堂氏 富田氏


         城域の西端にある西第十曲輪
掘立柱建築と棟門が復元されている。また右縁を囲むように土塁が復元されている。


河後森城は、四万十川の支流の広見川、その支流の堀切川と鰯川に囲まれた独立丘陵上にある。
中央の風呂ケ谷を馬蹄形に囲むように、本郭の曲輪群、古城の曲輪群、新城の曲輪群が連郭式に配置されている。
本郭には西に西第二〜西第十まで、東に東第二〜東第四の曲輪群が、古城には七つの曲輪群が、新城には六つの曲輪群が、それぞれ展開している。

平成3年から発掘調査され、調査結果に基づいて復元・整備されている。


西第二曲輪から本郭へ渡る土塁。右側の凹部が虎口であり、発掘された石垣が見える。 西第二曲輪と西第三曲輪の間の堀切。発掘して確認後に埋め戻されているので、実際は幅1.3〜2.22m、高さ1.33〜1.8mある。


東第四曲輪と古城第二曲輪の間の堀切 古城第二曲輪 奥は一段高い古城主郭


<アクセス>
松野町の市街地の東端の信号で、国道381号線から別れて南に800m進むと、「河後森城」の案内看板がある。その交差点を右(西)へ入り、さらに次の三叉路を右に折れて進み、さらに三叉路を細い道へと入ると、河後森城見学用の広い駐車場に着く。城域へは駐車場の奥から入ることができる。(2011.05.17)

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