伊予松山城

所 在 地  愛媛県松山市丸之内・堀之内 別 名  金亀城 勝山城
遺 構  天守 櫓 門 石垣 曲輪 堀 形 式  平山城
築 城 者  加藤嘉明 築 城 年  慶長7年(1602)
歴 史 松山城は、加藤嘉明によって創設された。加藤嘉明は伊予正木に本拠を構えていたが、関ヶ原の戦いの戦功で20万石となったのを機に、慶長7年(1602)に勝山に築城を開始し、翌慶長8年に居を移し、松山と改めた。
寛永4年(1627)、加藤嘉明は会津に40万石で転封となり、松山城には蒲生忠知が入った。松山城はこの蒲生忠知によって完成された。当時の天守は五重の威容を誇ったという。
寛永11年(1634)、蒲生忠知は参勤途中で病没し、無嗣断絶する。
翌寛永12年(1635)、伊勢桑名より松平(久松)定行が入封する。
寛永16年(1639)、天守が三重に改修された。天守は天明4年(1784)に落雷により焼失し、安政元年(1854)にようやく再建された。
歴 代 城 主 加藤氏(20万石)、蒲生氏(24万石)、久松松平氏14代(15万石)


勝山山頂の天守群 左端は乾櫓(国重要文化財)


海抜132mの勝山の山頂に本丸を置き、中腹に二ノ丸を、山麓に二の丸を配置する。本丸と二ノ丸の間に敵が侵入するのを防ぐため、南北の二本の長大な登り石垣が設けられていた。南側の登り石垣はほぼ現存しており、その規模に圧倒される。本丸の北側寄りに天守曲輪として本壇が配置されており、天守は本壇の上に設けられている。本丸には天守の他に三つの櫓、二つの門が現存しており、また多くの櫓や門が復元されている。
勝山山上の本丸にはロープウェーやリフトで登ることができるが、二ノ丸の北側からの黒門登城道、二ノ丸の南側からの登城道、ロープウエー乗り場からの登城道などを歩いても、20分程度で登ることができる。特に二ノ丸の南側の登城道から登り石垣を見ることができる。


本壇の大天守 本壇の天神櫓(再建)

松山城天守(国重要文化財)は、本丸の北端に構えられた高さ8mの本壇石垣の上に築かれている。
大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓が多聞によって連結された連立式天守である。
大天守は三重三階地下一階、高さ20mの層塔型天守。もとは五重の天守をわざわざ三重に改修したものである。地盤の弱さに対処するためとも、幕府に遠慮したためともいわれる。
いったん焼失後に、安政元年に再建されたものであり、現存12基の天守のなかで最も新しい。
本壇の左・北隅櫓(再建)と右・南隅櫓(再建)


本丸北西部にある、左から乾門東続櫓(再建)、乾門(再建)、乾櫓(国重要文化財) 本丸北部にある、野原櫓(国重要文化財)
唯一現存する望楼型二重櫓


本丸北東部にある、右・艮門(再建)、左・艮門東続櫓(再建) 本丸南端の、隠門と隠門続櫓(国重要文化財)、右側・筒井門東続櫓(再建)


本丸南端の筒井門(再建)
隠門は筒井門の奥に隠れている
二の丸から本丸へ上る通路に設けられた戸無門(国重要文化財) 上は筒井門の西続櫓


二の丸から本丸へ上がる通路に設けられていた中ノ門の跡 上は太鼓櫓(再建) 登り石垣 
南北に一対設けられたうち、南の登り石垣はほぼ完全に残っており、全国最大規模である


二の丸 二の丸御殿があったが、明治の初めに焼失し、現在は二の丸庭園が整備されている 三の丸跡 明治以降、兵営になっていたが、現在は広大な芝生の市民公園 

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