榊原さんとの短い付き合いに思うこと「一期一会」とは?
昨日仕事場で本棚を整理していたら、1冊のアルバムに目が行った。


アルバムなど見なくなって(作らなくなって)久しいが、学生時代、卒後数年はかなりまめに 山行のアルバム作りに励んだものだった。
ルート図や概念図を書き入れたり、レイアウトにも中々こっていた。

しかし最近は何処に出かけてもデジカメで撮影するので、銀塩フィルムのカメラを持ち歩かなくなっている。
デジカメの特性から、撮った写真もモニターで鑑賞しCD-Rで保存し必要に応じてHpで公開するだけなので、プリントする必要性も感じない訳だ。
必然的に、アルバム形式で保管される機会が少なくなった。ましてやDPE屋さんから提供される「ポケットアルバム」などのフォルダー形式のアルバムは、最近はとんとお目にかかっていない。

些か戸惑いに近い思いでゆっくりと表紙を開いてみると、2002年の前穂北尾根の写真集だった。
この 山行は、私とSさんにとってはモンブランの岩と雪の訓練 山行でもあった

最初の写真は出発前の、岳沢をバックにした全員のスナップだった。
初めて一緒に登った榊原さん
、Sさんの姿がまず目に入った。登山開始前の、わくわくしているが些か緊張も含めた各自の複雑な雰囲気が良く現れている写真で始っていた.。
岳沢を背景に(右から)S,T,K,、榊原、私、S,H
涸沢ヒュッテの屋根裏部屋で歓談−
右より榊原、S,T,K,私

この山行は、山の会「カランクルン」主催で、リーダーはH
さんだった。
林さんとは、高津山荘の薪上げでお顔は存知てはいたが、山にご一緒させて頂く機会はこの時までなかった。

この後のモンブラン山行を機会に、私も「山の会、カランクルン」に入会(会友)した。
そういった意味でこの北尾根の山行は、その後の私の山行に種々の影響を与える契機となった思い出深い山行であった。

北尾根登攀自体、私の学生時代のある種のトラウマを引きずっていた対象であったから、なお更だったのだ。
北尾根は一度、学生時代に登った経験があった。
その際、3峰の登りの途中の一部分でなんとも身動きが取れなくなり、同行の友人にザイルで確保されて登った苦い経験が有った。(詳細は「30年ぶりの北尾根」を参照下さい。)

それ以降私にとって北尾根は、密かなリベンジの対象となっていたのだ。これを聞かれると失笑される方々も大勢居られると思うが、若い時には実力がなくても向こう見ずで立ち向かうのはまま有ることだ。しかし実際のところは、正直に言うと今でもそうだが、岩登りは昔から苦手だったのだ。

今回の山行では、行き詰まった箇所も不明なほどで、あっけなく頂上に到達してしまった。この際にアンザイレンして頂いたのが、榊原さんだった。
5,6のコルからTさんと3人でザイルを着け、榊原さんに導かれ35年振りに北尾根を登った。この尾根は比較的高度感がなく、しかも傾斜も緩いので楽しい登りであった。
しかも有り余るほどのフィックスロープが張り巡らされているので、それを利用すれば登攀は一層易しくなるものだ。

榊原さんはよどみなく華麗に攀り、そして安定して確保して頂いた。登りで苦労しているTさんに嫌な顔も見せず、リラックスして登る様声を掛けていた。
涸沢ヒュッテでビールを飲んでの語らい

3峰の登りの核心部にて確保する榊原さん
隊員自体も中高年者で、しかも岩に関しては初心者に近いものを引き連れての岩稜登攀であるから、必然的にペースは遅くならざるを得ない。そのため私としてはゆっくりと周囲を見渡せる余裕が得られたものである。
あの若い頃の思い出の北尾根!
核心部が近づくにつれ、緊張が高まる。
しかし彼とアンザイレンしてもらっていると、何とも言えない安心感で心が満たされるのを感じた。
相手に非常に安心感を与える人なのだ、と気付いたのでした。

彼の存在を初めて知ったのは、カランクルンがペルーに遠征に出かけた2000年の報告会の席であった。
それまで彼と殆ど話したこともなかったが、飄々とした話し方、気さくな人柄が、彼と接するものにそういった印象を与えるのだと気付くのに、時間は掛からなかった。
またHさんと彼との密接な間柄にも吃驚した。ここでも彼は居候に近い生活で、Hさん夫婦もそれを大いに歓迎していた。彼はHさんの実の弟以上に身近な存在のように見えた。
私は彼のタバコは敬遠したが、アルコールについては好みも一致した。彼は煙を吐くにも気を使っていた。
前穂頂上でロープを巻く榊原さん 先に書いたように、ゆっくりとしたペースでルート自体も混んでいなかった加減も有り、ゆったりと岩登りを安心して楽しめた。長年のトラウマも漸く払拭出来たのは、今回の山行の大いなる収穫であった。

山頂での榊原さんと私のツーショットもありますが「30年ぶりの北尾根」、私の表情からは心なしか頬が膨らみ気分が高揚している様が見とれるようです。
それに比して榊原さんは飽くまでも冷静、沈着で、ひたすらロープの整理に余念が有りません。
彼にとってはあくまでも何か,
永続する人生の課題の一コマにしか過ぎなかった、ように感じるのです。
彼は高校山岳部時代から華麗な山行暦を持ち、フランスでの優れた登攀歴、居候歴(!)も併せ持ってたのは周知の事実だったようです。しかし私がそれを知ったのは、残念ながら追悼会の席でした。
突っ掛けを履き、よれよれの普段着で「オカマの榊原で御座います」とヒョウキンにおどける彼の姿からは、誰しも想像も出来ない歴史に違いないと思います。

異国での居候暦など、普通の者にはなかなか出来るものではないでしょう。
しかし彼の些か異国情緒の漂う端正なマスクと物怖じしない性格(?)からすれば、なんら驚くに値しないのかもしれない。はっきりしていることは、私にはとても出来ない!、との確信である。なんと言っても、人付き合いがヘタなのは、私はしっかり自覚しているのだ。

 榊原さんは、昨年はネパールのクスムカングル登山をパートナーのMさんと共に成功させ、今年は更に困難を目指して20年ぶりに開放された峻峰、チョラツェを目指した。
私にとって初めてのネパールヒマラヤの登山、メラピークの遠征の陰には、彼の遭難が同時進行していた。

しかしこの穂高山行の際には、そのような運命が待っているとは、当然ながら神ならぬ人の身であるから、知る由もなかった。
私は、皆のペースを案分しながら淡々と先導する彼の背中を目で追いながら、前穂から重太郎新道の下りを急いだのだった。
リーダーの責任故、こと細かく指示する隊長のHさんの声に比べると、彼の指示は控えめで、それでいて的確だった、と記憶している。


前穂頂上にて全員集合、左よりH,S,、榊原、私,S,T,K

 

河童橋にて、左から榊原、S,、H、私
左の写真を見て欲しい.。
上高地の河童橋に、2日目振りに戻った時のスナップである。
左端の榊原さんの表情に注意して欲しい。
ガイドとして、あれだけストレスある(初心者集団!)岩稜登攀を伴う 山行を終えた彼ではあるが、何処吹く風の口笛の世界であるのが憎い!

私はそう思うのだが、皆さんは如何だろうか?
きっと彼は、「そんなことないですよ!」と言うかもしれないが、私には分からない。
何故ならば、彼からもっと学ぼうと思う矢先に、彼の悲劇が訪れてしまったからなのだ。

彼は自分の登攀の思いや記録を、文書にして殆ど残していないと言う。
彼にとって、自分が登っている瞬間が全てで、記録に残して後世に伝える作業は価値のないものだったのかもしれない。それほどその機会(登攀)を大事にしてきた証かもしれない。

此処まで書いてみて、自分自身は榊原さんと深く付き合いもしていないのに、自分の推察のみで細部に渡る分析をしてしまったという思いが残る。
しかし、今後は私は、彼のベクトルを少しでも引き続き、そして彼の考えの哲学性を究明するほかは無いと考えている。
げに人物の解明は困難であります。
皆さんも、多数の明快なる著作を残されんことを望みます。
今回の記録は、故人の追悼のため、本人の名前を実名で示しています。これは私のHpでは異例な表現方法でありますが、故人の人となりを示すためには必要と判断したゆえであります。関連の方々にはこの文面でご了解頂きます様、御願い申し上げます。
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