平安異聞 参  


  



「う……ん」

 寝所を囲う薄布の向こうから微かな音が耳に入ってくる。

 気にならない者なら気にならないのだろうが、人の気配や感情の変化に敏感な不二に

はほんの小さな物音で、例え深い眠りについていてもすぐに目を覚ます。

 寝乱れた衣装を正し、人の気配の中心へひょっこり顔を出す。

「どうしたの? 盛り上がってるみたいだけど」

 この屋敷に仕える下司の息子や近辺の屋敷の子息たちが庭に集まり何か話し込んでい

る。

 突然、後ろからかけられた言葉に振り向き、その人物が誰なのかを確認するとその場

にいた者たちは、急いで姿勢を正す。そして数人は深々と敬礼すると脱兎のごとく立ち

去った。残った者の内、一人は地面に膝をつき、もう一人は庭に面する渡り廊下に膝を

つき深く頭を下げた。

「何、してるのかな?」

 とても綺麗な微笑みなのだが、不二以外の者は二人とも顔面蒼白となる。彼らの目に

はくっきりはっきり不二の背後に漂う黒い霧のようなものが見え、耳には「呪われたい

みたいだね」という不二の心の声が届いていた。

 不二は身近にいる者にむやみやたらに畏まられるのが嫌だった。嫌いな者や初対面の

者などは別にして。嫌いな者や気に入らない者に関しては寧ろ権力を行使して相手のプ

ライドを粉々にすることまでも平気でしそうだが……。だから、幼い頃からよく遊びに

来ていて、子供の頃よく一緒に遊んだ(悪戯した)彼らにはそんなことをして欲しくな

いというのが本音なのである。

「じょ、ジョークだよ、ジョーク。怒っちゃだめにゃ」

「そ、そうっすよ。久し振りに会ったんですからジョークの一つや二つぐらい……」

「ふ〜ん」

「「……(汗)」」

 何かを企んでいるような表情を浮かべる不二。

 幼馴染みであるこの二人は不二の本性を過去の苦い体験でとてもよく知っているため、

背中に嫌な汗が流れる。

「ま、待つにゃ不二ぃ〜」

「せ、先パイ落ち着きましょう!」

 語尾が猫語になる不二には劣るが、それでも十分整った顔立ちをしている少年と青年

の中間あたりにいるこの者、菊丸英二といい、桂の息子である。少納言の弟で不二とは

乳兄弟だったりする。

 不二のことを「先パイ」と呼んだ全身に程よく筋肉をつけた精悍な少年はこの屋敷の

下司の息子で桃城武という。

 その菊丸と桃城は自分の命を守るために必死に不二を宥めようと努力する。その努力

が実ったのかどうかは定かではないが、不二の笑みは普段のソレに戻る。

「今度やったらどうなるか……」

 最後まで音になることはなかったが、その先に続く言葉は容易く想像出来、二人は絶

対にしないと誓うのだった。

「ところで、さっきは何を話してたの? 随分盛り上がってたみたいだけど」

「少し離れたトコに、てっせんがスッゲー綺麗に咲く屋敷があったじゃないっすか?」

「今ね、そこにスッゴイ可愛い姫がいるんだにゃ!」

 桃城の言葉を奪うように引継ぎ菊丸は力説する。

「英二たちはその姫の顔を見たの?」

「うんにゃ」

「まだっすよ」

 二人は揃って否定の言葉を吐き、首を振った。

「だったら根拠は?」

「「俺の感(っす)!」」

「二人の野生の感なんて当てにならないよ」

 少しでも期待した自分が愚かだったと深い深い溜め息とともに小さく呟いた。しかし、

大事なことはいつも聞いていない菊丸が悪口に対しては耳聡く聞きつけた。

「野生の感ってどーゆーことだよぉ!」

 抗議するするべきトコはそこじゃないっすよと心の中で桃城は密かに呆れるのだった。

「あっ、ドコ行くんだよ。話はまだ終わってないぞぉ!」

 一人で喚き散らす菊丸を放って、不二はもう聞くことはないと思い、まだ夕餉を食べ

ていなかったことを思い出したので桂に用意を頼もうとこの場を後にしようとしていた。

が、運悪く見つかってしまい、仕方なく不二は振り返る。

「僕の話はもう終わったから。それと朝から何も食べてなくておなか空いたんだよねぇ。

まさか邪魔したりしないよねvv」

「と、当然だにゃ」

 肯定する以外に菊丸が生き残る手段はなかった。桃城は自分が責められたわけではな

かったが、条件反射で無意識に首を精一杯上下に振っていた。







 時間は流れ、不二は桂の手料理をゆっくり味わった後の一時を優雅にまどろんでいた。

「てっせんに囲まれた屋敷の主人てどんな人なのかな?」

「英二たちから聞かされたのですか?」

「聞かされたというか、盗み聞きしたというか……。まあ、小耳にはさんだからね。で、

どんな人なの?」

「私も対面したとはいえ御簾越しでしたのでお顔ははっきり見ておりませんが、几帳な

どの調度品から見るとご身分の高い姫君ではないかと思われます。受け答えもしっかり

なさっておられました。教養もしっかり身についていらっしゃるようです。お声もたい

そうお可愛らしくていらっしゃいましたよ」

 絶賛と言っても過言ではない桂の返答に不二は笑みを一層深くする。

 お礼を言って桂を退出させると、部屋の左奥の一角に置かれた黒塗りの文机の前に場

所を移す。

 文机の上には朱塗りの大きさの異なる箱が二つ重ねて置かれていた。大きさが異なる

といっても、ひとまわり違うというぐらいのものであったが。

 二つの箱を床に並べ、蓋を開けると中に入っていた料紙を数枚取り出した。サラサラ

と筆が紙をすべる音が部屋に響く。筆は字を誤る、次の語を考えるという時の浪費をす

ることなく、料紙の上を気持ちよさそうにすべり、名残惜しげにその動きを止めるのだ

った。

 文箱に筆を収めると不二は菊丸と桃城を呼んだ。

「にゃに〜?」

「なんすか?」

「はい、コレvv」

 言いながら先ほど執筆した文を菊丸たちの前に突き出す。

「「……」」

 受け取らなければいけないのは分かっていたが、二人は何故かどうしても受け取りた

くないと思い、中途半端に伸ばした手と沈黙を以って答えとした。

「英二、桃vv」

 ハートマーク付きで呼ばれれば、二人はもう受け取るしか危険の回避手段は残ってい

なかった。

 ただの文。されど文。不二のという修飾語が付いただけで、それは最上級危険物とな

るのだった。二人は泣く泣く受け取る。

「よろしくねvv」

「「……ハイ」」

 誰宛なのか聞かなくてもいいのか?という野暮なことは長い付き合いの三人には必要

ない。不二自身も無駄な体力(?)を使うつもりもないし、二人も傷口に塩を塗り込め

られ、更に悪化させるつもりもないので、誰も口にしなかったのである。









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  ※てっせん:キンポウゲ科の多年生つる植物。初夏、白または紫色の花が咲く。
        (角川新国語辞典より)
   平安の背景の花がてっせんです。