平安異聞 弐  


  



 都に比べると華やかさが欠ける景色。寂しいと言ってもいいだろう。けれど、静寂の

中に漂う神聖な空気。来る者を自然に穏やかな気持ちにさせる。

 ここは宇治。

 不二もまだ東宮という位に就くまでは良く遊びに来ていたため、見慣れた景色が視界

に入ってくる。



(宇治に来るのは久し振りだね。京からそんなに離れているわけじゃないのに、何故か

神聖な空気に覆われているようで、とても落ち着く。これはこのコに感謝しなきゃいけ

ないな)



 クスッと笑うと緑の向こうに微かに見え始めた懐かしい屋敷に急いだ。







 トンッと地に足を着けると目の前に聳え立つ大きな屋敷に目をやる。

 威風堂々としているが決して華美過ぎるわけではなく、寧ろ東宮の持ち物としては質

素に感じたりする者もいるかもしれないが、その質素と感じる中に気品があり、また、

使用されている材木はしっかりしており、見る者が見ればその屋敷が素晴らしいものだ

と分かる。

 懐かしさに浸っていると木が擦れる音が耳に届く。

 音源を辿ると小さな格子戸(おそらく、誰が来たのかを覗き見るために設置されたと

考えられる)が開き、誰かがこちらを覗いていた。

「桂、久し振りだね。暫くお世話になるからvv」

「……周助様ですか?」

「うんvv」

 幾分かしわがれた声で恐る恐る尋ねる桂と呼ばれた女房。その声音から桂が年老いて

いることが分かる。その彼女に対して不二は心からの笑みを浮かべる。不二の本当の笑

みを見られる者はこの世に一握りいるかいないかである。

 桂はその内の一人であるのだが、何故と問われると、それはこの不二の乳母だからで

ある。

 兄弟姉妹にさえ心を許さない不二だったが、この乳母にだけは無条件の信頼を寄せて

いた。先帝の皇子である自分を特別扱いせず、自分の娘・少納言(現東宮付き女房)と

同等に扱ってくれ、悪戯をすれば情け容赦なく叱り付け、他人からは分かり辛いとされ

る表情の変化を敏感に察してくれる。権力に媚びることなく自分を本当の子供のように

心配してくれる桂を不二が信頼し、大切に思うことは当然と言えるだろう。





「周助様、一体どうされたのですか? 何の連絡もなしに来られるなど、何か火急の用

でも?」

 鬱陶しそうにたった今まで着ていた直衣を脱いでいる不二を手伝いながら疑問を口に

する。

 どう話そうかと一瞬迷いを見せるが、自分の変化に敏感な桂に誤魔化しは効かないこ

とは幼い頃からの経験で身を以って知っていたため、包み隠さず正直に話すことにする。

「手塚がね、うるさいんだよねぇ」

 耳にタコが出来るほど毎日毎日繰り返され、不二はいい加減うんざりしていた。

「まあ貴方様は恐れ多くも東宮様ですからね」

 短い言葉から全てを察した桂には仕方がないでしょうと苦笑するしか出来なかった。

不二もそれが分かっているので特に何かを期待したわけではない。返ってきた言葉をい

つもの笑みで受け止めるのみだった。

「何か御用はおありですか?」

「ううん、今は特に何も。必要な時は呼ぶから自由にしてていいよ」

「夕餉ですけれど、何かご希望はありますか?」

「桂が作ってくれるものは何でも美味しいから任せるよ」

「分かりました。では夕餉までごゆるりとお過ごし下さいませ。奥の方に寝所のご用意

も出来ておりますので、お休みになられるのでしたらそちらで」

「ありがとvv」

 頭をペコリと下げると、先ほど不二が脱ぎ捨てた衣装を抱いて部屋から退出する。

 広い部屋に一人きりになると不二は深い溜め息を吐く。丸一日馬を走らせただけなの

に思いの外疲労している自分自身に気付く。急いで何かをしなければならないというこ

とはないので、桂の勧めに従い、今は身体を休めることを優先する。










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